2012年11月4日日曜日

さみしさのこと

 わたしひとりで生きてるわけではなく
トモダチとか知り合いとか仕事で関わるひととか
その他いろいろなひとがいて 世の中があって
そこの中で 生きているわけである。
(ここですぐに 親 とか 親戚 とかが出てこなかったのがひととしていかがか。)

 その世の中で ただ ほんとうに そのひとが生きている
というだけでいい と思えるような そういうひとたちがいて
それだけでも ありがたく 生きていくに値するのだとおもう。

 おもうのだが。

 ここしばらく 次の場所にきた というその感じや
世界が愛とひかりである という感じが 強まるにつれて 
それとは逆の 猛烈にさみしい というきもちに襲われることも
かなり 増えてしまった。

 たぶんそれは とても俗っぽい感じに。

 と同時に 根源的に ひとが持っている 何をどうしたって
一生どうにもならない感じの そういうさみしさ が
ぐわ とその姿をあらわした感じに。

 わたしは後者のその 一生じぶんとともにあるであろう
しかしいろいろなものの原動力でもあるはずの そういうさみしさを
いま やっと本気で抱えていこうとしているときなのかもしれない。

 その作業と同時に ものすごく俗っぽいさみしさも
わたしのこころをみしみし喰い尽くそうとしていて、
そのことを認めることもまた 求められているのだろう。

 かつて わたしは俗っぽいさみしさを認められずに
とてもおかしなかたちでそれを行動化していたことは前にも書いたけれど
もう そうする必要はないとおもう。

 いま感じている このさみしさもまた やり抜くことが
わたしの課題なのだろう。 さみしさにどれだけのたうちまわっても 
愛とひかりのほうを見ていくことが。



 

2012年11月2日金曜日

てばなせずにいる

 わかったようなこととか やっぱり言いたくなるんである。
こういうところに何かを書くとき むかしみたいに 誰かがかならず読んで
コメントをくれたりするのではないのにもかかわらず。
じぶんのこころもちを まとめている感覚が強いのにもかかわらず。

 わかったような かっこいいような もう抜けて次にきているような
そういうことを書いているわたしは そういうわたしになりたいわたし に
すぎないのではないか というくらい 突然に心細くなることが ある。
正直 ある。

 走っていると 踊っていると そういうわたしを ちょっと忘れて
からだのことだけ 考えたりできることもあるし
逆に そういうじぶんのことばかりがあふれてくることも あるけれど
それでも それがすこし 流れたり あぁそういうわたしでも 
ちょっと許してあげよう というこころもちになれたりすることも ある。
そして どんどんわたしのほんとうのこころもちは せまってくる。

                    ダイヤモンドヘッドくらいの高さの課題 だといい

 わたしはどうして こんなに手放すことが苦手なのだろう。

 もう 手放せた と思った瞬間は 何度もあって
そのことを ここでも書いてきたけど
やっぱりまだ 完全には 手放せていない。

 わたしにとって そんなにおおきなことだとは 思ってもみなかった。
でも ほんとうは どこかでわかっていた。 わたしのほうがずっと
頼っていたし 甘えていたし よりかかっていて だいすきだったことを。
しらないあいだにそうなっていたことを。

 でも 根底にはやっぱり どこをどう点検しても
相手に対して 愛 としか呼べないものが こころにながれていて
だから いつか手放せるだろう ともおもう。


 これからは どんなわたしでも 出てくるわたしを 決して
いなかったことには しない。 これをやりつくすしかないから。 
ほんと しつこいけど やりつくすから。

2012年11月1日木曜日

いまここで

 トモダチとメールでやりとりしたり 話をしている中で
ふ と気づくことがある。 そういう瞬間が ここ最近ふえているような
そういう気がしている。

 なんというか やりとりのそのさなかに その内容に
埋没してしまうのではなく そのことを発している相手とじぶんから
すこし距離をおいて ながめる というような感覚が突然やってきて
そのときに あ というような感じになる。

 そういう感じになっているのは 比較的 じぶんの今まさに の
課題について 話題がふれているとき のようにおもう。

 これまでそういったことは やりとりの熱いそのとき ではなく
のちにまた反芻したり などしているときに考え直していたようにおもうが
それが いまここで 起こる というような感じだ。

 そして そういうことになるやりとりをしているトモダチとは
課題が似ていたり もしくは 違うようでも通じ合うところを感じている
ようにおもう。さらに そのトモダチのことを大いに信頼している ということも
大きな要因になっていると感じる。

 必要なやりとりを 必要なときに おこなうことができているのだろう。



 ところで。

 わたしは春ごろから 世の中は愛でひかりだ ということにちょっと気づいたので
そのことを言い募ってきた。 春ごろは もちろんまだ必死だったし
傍目にも痛々しい状態だったはずで なので その後もずっと
そう言い募るわたしを かわいそうなものを見る目で見るひとたち
というのが少なからず存在したし、たいせつに思っていた 思いが伝わっている
と思い込んでいたかった相手にすら かわいそうなひと のように言われて
落ち込んだりも した。

 それからハワイに行って わたしの 愛でひかりだ という思いは
さらにわたしの奥深くに根付いたので あまり言わなくてもいいようになった。

 そうしてのち の いま。 やはり世の中は あいかわらず 愛でひかりで、
必要なときに 必要なことが あるべきことが あるべきように 起きている。

 こんなこと ほんとうは言わなくてもいいのかもしれない。
けれど きょうは なんだかうれしかったので やっぱり書くのだった。

 あのとき わかってもらえなかったのも かわいそうなひと のように
言われたことも それもすべて わたしが経験すべき何かで
これを越えてこそ さらなるわたしがあるのだ。