比較的がんばって走るようになって5ヶ月くらいが経って
そうすると たしかに身体はきちんと反応して 変わってくれている。
したはらにくのぷにり具合はなかなかとれないけど まぁ
そこは ジョシだし 歳だし てことで大目に見ることにして
それ以外の。 走っているときの感じとか 身体で感じる調子とか
そういうことが。
あっというまにいちねんが経って
とても苦しかった最初の数ヶ月のことは
思い出すことはできるけれど もう 遠い痛みで
わたしはあの日々を きのうのことのよう には
感じることができなくなった。
そのあとの じぶんでもびっくりするしかなかった
失恋のついでにさらに重ねた別の失恋(といっていいだろう)
のほうが わたしにとって 大きい意味を持ったかもしれない。
おもてだった苦しみや かなしみ のようなものは
もちろん 去年の失恋のほうがずっと大きかったけれど
わたしがじぶんの未熟さや それだからこそ
かもしれないエネルギーや きもちの動き方というものを
まざまざと見せつけられることになったのは
あとのことによるものだった。
思っていたよりもずっと 好意に甘えていたし
あぐらをかいていたし 支えにしていたのだな
ということには あとになってから気づいた。
そんなものだ。
そういう じわじわとした衝撃への作業を
わたしは身体を動かすこととともに やってきたのだとおもう。
あぁもう次こそは こころに出てくるすべてのことに
きちんと向き合うような そういうふうなわたしのままで
だれかとともにいることをやっていきたい。
身体をうごかしながら暮らすことは そのためにもおそらく
必要なことなのだろう。
もし だれかといることが わたしの課題として
ふさわしいことであるならば。
ひとりでいるのが課題だとしても
やっぱり 必要なことなのだろうけれど。
ねぇ。 時は流れてゆくし ほんとうに
時がくると ものごとは ただ 終わってしまうんだね。
なんていう ぐずぐずしたわたしも まだいるのがわかる。
でも 相手への執着 ではなくて これはもう
思っているじぶんへの執着 のようだ。 あとすこし。
2012年11月20日火曜日
2012年11月18日日曜日
とけだしてゆく
じゅうぶんに身体を動かした日は
やはり こころもちが とても軽くなる。
走ったり 踊ったりしているときに
要らないものが勝手に溶け出していってくれているのでは
と 思わざるをえない。 さるをえない。きーきー。
ちょうどそういうタイミングで
わたしが仕事で書いたものを読んでくださった先輩から
ちょっとした感想のようなものがメールで届き
それが好意的なものであったことで
さらにさらに わたしのこころもちは軽くなる。
わたしがわたしとして生きること
わたしとしてきちんと感じ 考え 反応し
そうやって暮らしていくこと。
それができていれば わたしはきっと 大丈夫なのだ。
やはり こころもちが とても軽くなる。
走ったり 踊ったりしているときに
要らないものが勝手に溶け出していってくれているのでは
と 思わざるをえない。 さるをえない。きーきー。
ちょうどそういうタイミングで
わたしが仕事で書いたものを読んでくださった先輩から
ちょっとした感想のようなものがメールで届き
それが好意的なものであったことで
さらにさらに わたしのこころもちは軽くなる。
わたしがわたしとして生きること
わたしとしてきちんと感じ 考え 反応し
そうやって暮らしていくこと。
それができていれば わたしはきっと 大丈夫なのだ。
どーにも
休みの日の朝 が苦手になっている。
ここ数ヶ月の話ではあるのだけれど どーにも休みの日の朝
すっきりと起きることができなくなってしまっている。
数年前までたしかに いつも休みは昼過ぎまでぐずぐず寝て
という生活をしていたわけだが そのときの感じ というか
そのときのような 起きてもいいけど寝る じゃなくて
起きるのがつらい という そういうような雰囲気になっている。
疲れがたまっているのかなぁ とも思うけれど
なんだかちょっと この状態がさみしい。
きょうもむりやり10時に起きたけれど いままた
カラダが横にならせろ と要求してきているのだ。
12時にして。
*************
夏やすみにハワイにいって
わたしはじぶんの一部をそこに開け放ってきた という
そういう感覚があって 世界はこれから
もっと開かれたものに感じられるだろう と思った。
開かれた世界 というのはつまり 開かれたじぶん
ということなのだけれど これまで 世界に 流れに
わたしの深いところに わたし自身を開いて過ごしてきたか
と言われると そうではなく その 長い年月のやり方は
そうカンタンには 離れてくれないのだなぁ とも感じている。
春のあの 新しくはじまってゆく感覚と
夏の わたしを投げ出す 開け放す 解き放つ感じという
それらは わたしのこれからのやり方として
身についてゆくものかもしれない。 夏以降のわたしの日々は
そのやり方をわたしが身につけてゆくための
修行のような そういう日々であるのだろう と思ったりもする。
わたしは世界に 流れに わたし自身に
わたしを開け放すということを やっている と
思い込もうとしてきたけれど でもやっぱり などと
じぶんを引き止める 不安におもうところも
どうしてもあるのだった。
アタマでは わたしがこれから先 ひとりで生きるのであろうと
だれかと出会ってともに生きるのであろうと
それはすべて 起こるべくして起こることで
わたしがわたしになってゆくために必要な過程であるのだ
とわかっている。 わかっているけれども
ひとりかもしれない と思うと まだまだおそろしい
と思ってしまうのだ。
ほんとうは おそろしくともなんともない
わたしのための過程でしか ないのにね。
解き放てば そのぶん かえってくる そういう世界であるのにね。
*************
ということで、わたしはその あたらしい作業を
している途中で 休みの日にねむいのは
この作業をやっている という そのしるしなのかな
なんて じぶんを甘やかしてみたり しているのである。
もっともっと 開け放して 解き放ってゆけますように。
ここ数ヶ月の話ではあるのだけれど どーにも休みの日の朝
すっきりと起きることができなくなってしまっている。
数年前までたしかに いつも休みは昼過ぎまでぐずぐず寝て
という生活をしていたわけだが そのときの感じ というか
そのときのような 起きてもいいけど寝る じゃなくて
起きるのがつらい という そういうような雰囲気になっている。
疲れがたまっているのかなぁ とも思うけれど
なんだかちょっと この状態がさみしい。
きょうもむりやり10時に起きたけれど いままた
カラダが横にならせろ と要求してきているのだ。
12時にして。
*************
夏やすみにハワイにいって
わたしはじぶんの一部をそこに開け放ってきた という
そういう感覚があって 世界はこれから
もっと開かれたものに感じられるだろう と思った。
開かれた世界 というのはつまり 開かれたじぶん
ということなのだけれど これまで 世界に 流れに
わたしの深いところに わたし自身を開いて過ごしてきたか
と言われると そうではなく その 長い年月のやり方は
そうカンタンには 離れてくれないのだなぁ とも感じている。
春のあの 新しくはじまってゆく感覚と
夏の わたしを投げ出す 開け放す 解き放つ感じという
それらは わたしのこれからのやり方として
身についてゆくものかもしれない。 夏以降のわたしの日々は
そのやり方をわたしが身につけてゆくための
修行のような そういう日々であるのだろう と思ったりもする。
わたしは世界に 流れに わたし自身に
わたしを開け放すということを やっている と
思い込もうとしてきたけれど でもやっぱり などと
じぶんを引き止める 不安におもうところも
どうしてもあるのだった。
アタマでは わたしがこれから先 ひとりで生きるのであろうと
だれかと出会ってともに生きるのであろうと
それはすべて 起こるべくして起こることで
わたしがわたしになってゆくために必要な過程であるのだ
とわかっている。 わかっているけれども
ひとりかもしれない と思うと まだまだおそろしい
と思ってしまうのだ。
ほんとうは おそろしくともなんともない
わたしのための過程でしか ないのにね。
解き放てば そのぶん かえってくる そういう世界であるのにね。
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ということで、わたしはその あたらしい作業を
している途中で 休みの日にねむいのは
この作業をやっている という そのしるしなのかな
なんて じぶんを甘やかしてみたり しているのである。
もっともっと 開け放して 解き放ってゆけますように。
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