2013年4月9日火曜日

Ha'aheo

 ぐずぐず考えそうになっていたことが
ほんとうにほんとうに 実にどうでもいいことだな
と感じ入っている今日この頃なのであった。

 そう感じられるいま かつてよりもずっと
見晴らしのいい場所から世の中を見ているようなこころもちになる。

 とかいう感じられ方はあまりにベタなんだけれど
ほんとうに あれ っていうくらい じぶんの切り口によって
世界はおもむきを変えるものなのだということが
こんなにびしびしと感じられたことは
これまでの人生にはなかったことなのではないか とおもう。

 同じようなことを 言っていたけど。
アタマでは わかっていたけど。


 わたしなんて と本気で思っていたむかし
実のところ その わたしなんて という考えにひそむ
ものすごいどろどろとした傲慢さに わたしはうすうす
気付いていたのかもしれない とおもう。

 わたしなんて と卑下することによって説明がつくことは
じぶんの身の回りにあまりに多すぎて それはそれは便利なのだ。

 カンタンかつつまらない言い訳だったな とおもう。
不細工だから というのとほぼ同じ言い訳なんだけど。
でも その言い訳のおかげで わたしは
こんなはずでは みたいな 思い通りにならないいろいろ を
やり過ごしてゆくことができていたのだろう。

 いまやもう その言い訳に頼る必要はない。

 思うに、わたしは じぶんの誇り方 というか
みずからをたいせつにする ということがほんとうに
わからなかったのだろう と感じる。

 わたしはみずからをあいすることを
たいせつにすることを すこしずつ 知ることができている。
そうしたら もう とらわれそうになっていたことごとが
ほんとうに遥か彼方に去っていってしまった。

 すこしだけ さみしいけど。

 でも もう二度と そちらには戻らない。



 



2013年4月4日木曜日

あたらしい場所

 さて。去年の今ごろとおなじように、ことしもわたしは
とうきょうに遊びに行ってきたのです。 まぁ去年のように
長居をするわけにはいかなかったので 2泊3日の旅でした。

 ことしは懐かしいひとたちにもたくさん会って
いろんなはなしをすることができて
あぁ オトナになるってすてきなことだな と
ほんとうに感じることができました。 きっと
これが5年まえだったら わたしはまだまだ
今回のようには みんなと話ができなかったかもしれない。



 何人かのひとに あれ当時より明るくなった感じがする
みたいなことを言われたりもしました。
むかしから わたしはほんとうに口数が多くて
よくしゃべるひとではあったけれども
なにしろいろいろこじらせていたので
かもしだす雰囲気とか性質とか そういったものは
どちらかといえば いまよりもちょっと どろっとした
なにやらめんどうくさい感じが満載のもであったのだろう
と思ったりしたのです。

 それが。 いまはこんなふうに話ができて。
すごいことだなぁ。 会いたいひとと 会いたいとおもったときに
そのタイミングで会うことが こんなにたのしいことであると
わたしはいままで知らなかったように思います。

 そういうことを楽しめるようになったからか
さらには ひとりで何かをする ということに
さほど抵抗がなくなっている ということにも
わたしは気付きました。
  
 きっとこれからは ひとりでだいたいどこにでも
行くことができるんじゃないかな という感じがとてもしていて
その感覚は わたしをとても わくわくさせるのです。

 
 ちょっとまえに 世界がわたしに開いたとおもうけど
それは わたしが世界に対して開いたからだろう 
というようなことを書いたけれど このたびもほんとうに
そういうことを感じました。

 たくさんのひとと会ったのに むかしだったらきっと感じたような
おかしな疲れ方を わたしはこのたび していないのです。

 ほんとうに わたしのいま の感じで みんなと会うことができたなぁ
と思います。 相手にある程度合わせることができる(合わせてしまう)
ということ込みで。 もう そのことすらわたしの一部なのです。
かつてそれは わたしが何かに対して構えているから
そうなってしまっていました。 誰かの何かに なりたかったから。
けれど いまは そうではありません。 わたしはわたしの何かに
というか わたしになりたい という そのことが中心にあって
そうすると
合わせながらわたしを出す ということは
誰かにいい顔をするためのものではなく あくまでも
わたしがまわりと関わるときの やり方であるだけで
ごくごく自然なことなのだな みたいなことを 感じたのですよ。

 ということで とてもとても 印象的な旅でした。

 ちびっこも含めると10人のトモダチに わたしはこの旅で会いました。
みんなありがとう。 ありがとう世界。 またわたしの
あたらしいステージがほんとうにはじまったことを 
たくさん感じることができました。

2013年4月1日月曜日

わたしのしごと

 人生には だいたい必要なことが起きて というか
それを必要だ と思えるかどうか というところに
生きるこつ みたいなのがあるのかもしれないなぁ 
などということを感じたのだった。

 運命は決まっていて そして同時に自由である
という 甲野せんせいのことばを くりかえしくりかえし
別の言い方とか じぶんのタイミングで気付きなおしているだけ
ともいえるのだけれど。

 ほんとうにこれこそが 人生の真髄なのだろう とおもう。

 そんなことを考えているうちに
たとえばスピリチュアルなんちゃら とかによくある
(ほんもののスピリチュアルはそういうことは言わないので
それとは違う ということは断っておきますけれど)
1回のカウンセリングみたいなのでそのひとの何かを解き明かす
とか そういうことにじぶんが向いていかないのはなぜか
ということにもちょっと思い当たったりもしたのだった。

 だいたい そういうのをやってるひとのうたい文句に多いのが
じぶん自身もその考え方に救われたからそれを広めたいと思い
みたいな そういうやつ。

 あのさー そりゃね 当てはまるかもしれないけども。
その考え方で救われるひと というのは いるかもしれないけれども。
これは わたしの性質の問題かもしれないけれど
そういうはじまりだと わたしはどうしても じぶんを上の立場において
その活動をしてしまうとおもうのよ。わたしはいまとってもシアワセ。
だからあなたにも! ていうようなね。 何様や いうねん。
て なってしまいそうでね。

 わたしが考える ほんとうにそのひととともにある というのは
その立ち位置では 絶対にできないことなんだ。
ともにそこに身を置こうとし 苦しみをわかろうとし
そのひとだけの そのひと自身の そこから抜けてゆく道を
ともに見つけてゆこう とすること。 それが わたしの求める
わたしの目指す在り方で だから
「わたしがシアワセになった考え方をもとに さあ!」っていうのは
もう根本的に受け付けられない感じがあるのだった。

 もちろん そういうのでシアワセになられる方もおられるだろうし
それはそれでいい。そういうのがあってもいい とは思う。
が わたしはそういうやり方で 誰かとともに ということを
おこなうことは どうしてもどうしても できない。

 わたしは自らを ある程度 心身ともに健康な状態に保ちつつ
そのうえで 相手のひとの そのひとだけの在り方 を
ともに在ろうとしながら ともに感じ模索すること をよしとする。

 だから 1回の何か ですべてが晴れるような そういうものを
提供することはできないのだ とおもう。 わたしの仕事は
教え導くことではない。 あくまでも ともに在ること だ。
しかし ただともに在る のではなく 少し先を見通す努力 を
常に常にしながらともに在る ことが仕事で、
そこにわたしの専門性があるのだ、とおもう。

 ま、その感じ(1回でなんとか)のひととは役割分担 
みたいなことなんだろうけどね。
その感じがいいひとはその感じのところにいくし
それでもどうにもならないひとは わたしのようなひとのところにくる。
ただそれだけのことなんだけど。

 でも だからこそ わたしはわたしの立ち位置を
わたしの在り方をたいせつにしよう とあらためて思いました。
これからもこつこつといきます。