2014年3月1日土曜日

3月のわたくし

 3月です。じっさいの気温はともかくとして(いやきょうは
あたたかいけれども) 3月 ていう響きだけでなんだか春。
弥生っていうと たいへんな春めき を感じます。 はるるるるる。

 3月にはひなまつりという行事があるからか
ジョシぽい何か を感じます。わたしの中で
3月と4月はどこか ジョシ ってイメージで。

 これまでの40年にわたるじんせいで
じぶんがジョシであること についてまったく自信がなかった時代が
30年以上あって あぁじぶんはジョシだわね ということを
ようやく受け入れられるようになってからはまだ数年。
でも いわゆるジョシ みたいなことは無理〜 て
思っていたのだけれど そのへんの仮面?のようなものも
よーやくはずれてきたようでね。

 ざんねんながら かわいい という様子からは
ものすごくかけはなれた外見でもってこの世にうまれてきてしまったし
おんなである ということについてちょっと否定的なかんがえかたを
たくさん言い聞かされて育った(て、わたしの捉え方の問題も
おおいに関係していたのだろうけど)のもあって
ジョシぽさ みたいなものは 極力身に付けないように
極力遠ざけるように もし そうしたとしても きもちわるい
って思われるから気をつけよう とかそんなこと思って
暮らしていたのでした。 わたしとは関係のないことだ と。

 でもねー さいきんになって気がついてきたのは
わたしは意外と ていうか かなりのところジョシだ
ていうことなんですよね 奥さん。奥さんて誰だ。

 「来ちゃった♡」て素で言えるか言えないかでいえば
言えないタイプ ていうか 言うことを想像すらできないタイプ
と思っていたけども やるかやらないかは別にしたら
わたし意外と 言うタイプ なんじゃないかな っていうんかな。
まぁ実際には言わないだろうとしても。そういうところもあるよ
ていうね。 

 そういう なんかしらんけどジョシやな みたいなとこを
これからは受け入れていこ アリにしていこ と
しみじみおもっているわけです。

 いわゆるジョシかそうでないか とか 
ふつうか変わってるか とか アタマいいか悪いか とか
そういう 二分法でのものごとの切り取り方 に
これまでだいぶ しらないあいだにとてもとても
縛られてきていたのだなぁ と思います。かっこわるいけど。
そうではないものの見方の訓練は 仕事上でたくさんしてきていたけど
わたしの在り方生き方としては できていなかったなぁ とおもう。
わたしはわたしなのだから ということを お祭りのあたりから
すこしずつ ほんとうのところで気がついてきて いまになり。

 またひとつ なにか から解き放たれて
わたしはわたしに気がついてゆく。 その感じは
とてもわくわくするし 同時に すこしかなしい。

 大きな出来事なんてなくても わたしの中には大きな何かが起こりうる。
わたしのことは わたしにしかわからないところと
わたしより他の人のほうがよくわかっているところと
まだだれにもわかっていないところとあって
そのぜんぶを いろいろにして発見していって
よろこんだりがっかりしたりにやりとしたりおどろいたり
そんなふうにしていくんだとおもうの。

 あーこのわたしのいまの感じはいましかなくて。
なんてすばらしい 2014年3月。 



                      もうすぐ咲きます てね。きょほほ。

2014年2月25日火曜日

ことばのこと その後

 ことばについて をせんじつ書いて
それを読んでいて あぁそういえば はじめてBlogを書きはじめたのは
まだケッコンしていて そして ことば を封じられている気がして
つらくてつらくて仕方がなかったときだったな というのを
あらためて思い出した。

 わたしはことばを使ってこそわたしで 
ことばはわたしをいつも守ってくれたし
わたしはことばの内側にいた。 だから
ことばを煙幕みたいにして わたしはわたしを
見ないようにもしていたし その あやふやなことばから
わかってほしい とばかりおもっていたし
ことばのとげで どんどん相手を刺すことだってできた。

 ことば はわたしをあらわすときの
中心にあって そこからわたしは成り立っているかのようだった。


 けれども。 いまはもうわたしは
そんなふうに思わなくてもいいし 
わたしのことば を気に入ってくれるかどうか とか
わたしのことば じゃないところを気に入ってほしい とか
そういうことから 気がつけば 抜けているのだな
とも おもった。

 もちろん わたしの発することばをすきだ と言われたなら
それはうれしいことだけれど、
それが わたしを知ってもらうときの おおきな必要不可欠な要素だ
ということは もうないなぁ というような。

 どこをどういうふうに知ってもらうのか
見てもらうのか わかってもらうのか は
ひとそれぞれで そういうことをもうたのしんでいこうじゃあないか
ということをね、 て超遅い気づきだが。

 ことば も つかう と書いた。そのとおりで
これからもわたしは ことば とつきあっていく。
でも もう いろいろと解き放たれていいのだ。
さまざまな痛みは 解き放たれてゆくときに
どうしたって 生じた何か だ。 だからいい というのでは
なくてね。 ここ重要なのだけど。

 わたし は わたし だ。
わたしらしいなにか ではなくして。

 

2014年2月23日日曜日

ことばのこと

 わたしの ことば過多 な性質は
歳とともに目立たなくなっていっている ような気がしなくもないけど
でも こうしてBlogに長文を書きつけてみたり Facebookにも
そこそこな口数でものを言っているところを見ると
やはり ことば過多 な方であることにはかわりがないのだと思う。

 わたしはプロになることができるほど文章が上手なわけではないけれど
素人としては そこそこ みっともなくない程度に文章を書くことができて
それもあって むかしから BlogをしたりTwitterをしたりすると
コアなファンのようなひとができたりしたりもした。
そこを入り口として 仲良くなった(しかも相当に)ひとたちもいたし
わたしの ことば というものは わたしをつくる かなり
重要な要素だった とおもう。 わたしのことば によって
わたしはいろいろなひととの関わりを得たし、ことばがあったから
つながったひとたちがたくさんいた。

 ことば というのは それを発しているひとの感じとか
そのたたずまいとか そういうことと 
わかちがたく結ばれていて なので いちど 
発しているわたし本体 についての価値に疑問が生じたらもう 
そのわたしが発することば には まったく意味がなくなるし
それどころかおそらく それまでに発していたことばたちも
空虚で 何の意味もない 陳腐で残念なもの に
なってしまうのだろうとおもう。

 あたりまえだけど。 そういうのもぜんぶ
決まっていたことで それをどういうふうに じぶんのものとして
受け止めて 活かしていくのか ということだけが
わたしにできること。 おなじようなこと何度も言ってるけど。

 いまのわたしが なにをどういっても
こころの奥に通じていない ことばあそびをしているにすぎないのだ
としか思わないひともいるとおもうし そう思われるに至ってしまったのは
もうどうにも致し方ないことだとおもう。致し方ないことだけれど 痛い。

 こういう思いとかすべて ぜんぶぜんぶを やってゆくのが
じんせいで わたしをまたわたしにひとつ近づける
唯一の方法なのだとおもう。 そしてその過程にあって
わたしはいまも こうして ことば をつかう。
ことば も つかう といったらいいのかな。 がんばろ。