2014年4月2日水曜日

葛藤しようぜ

 去年のいまごろにここに書いたものを
ちらちらとながめてみたのであった。

 そうしたら 似たようなことを書いている。
当たり前だけど。 でも ちょっと違う。
すこしずつ 大きいテーマとの向き合いかたや
切り口や とらえかたや そんなものが変わっていて
わたしなりの進み方をしているのだな と
おもうことができた。

 いまでもテーマは やわらかく在ること
主体性をもって わたしがわたしで在る こと。


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 誰かの何かを増幅させて示すこと で
トクベツに思ってもらおうとするようなことはやめたい
と、気付いた去年から言っていて
そんなことはしなくても大丈夫だ とだいぶ
染み付いてきた とは思うのだけれど
そうなってきたときに その感じ と 
場とのバランスがぶつかる感じ が
鮮明になってきたな などと思っている。
おそらく 誰しもがあたりまえに どーすっかなー
みたいな感じで苦慮してスタンスを決めたりしてきたところ。

 わたしは もともと触媒みたいなところがあって
拾って増幅させるのが得意だから そして かつては
それがわたしの存在価値であるとして疑いもしなかったから
あまり葛藤なくそうしていたようにおもうけれど
気付いてみれば 葛藤するものじゃないのこれって という
そういう事ごとであったのだ。

 えーと。 なんていうんですか。 
誰に対してもいい顔 って できないよね
ていう そういう。あたりまえすぎて死にそうなやつ。

 あなたは どう思うの? 
あなたは この人との関係をどうしたいの?

 みんながそのひととどんな関係でいて
どんなふうに思っているか に気付くことも
それはたいせつかもしれないけれど
わたしがどう思うか ということがいちばんたいせつで
そこをあらわすことができない限り わたしはまた
おなじ課題を何度だって ひどいかたちで繰り返すことになる。


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 という ひととして在るときにあたりまえの基礎
みたいなところを わたしはまだやってたりもするのだった。
それでもやはり 去年とは違うわたし。
いまこの瞬間に わたしをとりまく 
わたしの 外的 内的 双方の世界をたいせつにして
起きたことを 起きたこととして受け入れる作業を
これからも。 


2014年3月31日月曜日

年度末に。

 きょうは3月31日で あしたからは新年度がはじまるのですね。
つまり春。ずいぶん時が流れたけれど 2年前の必死だった春のことは
はっきりと思い出せる。

 ことしはあの頃とちがう春。去年ともまたちがう春。
必死だった日々を支えてくれたひとたちと
わたしの至らなさでお別れしたりもしたけれど
それもまた なんだかもう わたしが通り抜けるべき
そこを越えないとどうにもならない何か なのだ。


 2年前のあの頃よりずっとずっと
わたしの生活に根ざしてきたのがフラで
そのおかげでずいぶんといろんなところが解放されたし
つらいことがあってもじぶんを肯定していたられるのは
フラがあるからこそ だとおもう。

 何度か書いているけど、わたしの通うフラ教室には
検定 というものがあって、1年くらいしたころから
わたしもぼちぼち受けるようになっている。
このたび2級に合格することができて
そのこともほんとうに感慨深い。

 運動ができなくて 身体もかたくて 動きもかたい
どーしようもないわたしもここまで来ることができた。
そしてそれは ひとえにまわりのひとたちのおかげで
わたしはここで じぶんのひらきかた のようなものを
ほんとうにたくさん学ぶことができたとおもう。

 
 この先も じぶんを残念におもってがっかりすることや
つらいことや 誤解や行き違いもあるだろうけれど
こういうことをいまおこなえている そのことは
ずっとずっと わたしを支え続けるとおもう。

 


 

2014年3月22日土曜日

げんざいの課題

 これでいい みたいなことをおもいそうになると
いつだってちゃんと つぎのこと が起きるし
放っておいたら これまたいつだってちゃんと
そこに向き合うまで 何度でもおなじことが
起こりつづけるのであった。

 主体性のなさ みたいなことをまえに書いたけれど
主体性のなさ と わたしがわたしが てやることは
実は同時に起こることができてしまって
というか 同時に体現しているのがわたくしの現在なのだった。

 相手とともにあるときに 相手の思いを無意識に汲み取って
そこを増幅させてじぶんのものかのように見せてみる
というようなことをするのがわたしは得意だったし(触媒体質)
そこが主体性のなさ のようなものと結びつくことが
多かったようにおもう。

 と 同時に、(まぁこんなBlog書いてる時点で
まるわかりなんだけど)わたしは じぶん語り みたいなことが
だいすきで 語り まで言わずとも
なにした これした あれみた 的なことを
みてみて!きいてきいて! と ちびっこだけだよ
それが許されるの てな方法でふりまいてしまうのだった。
ちょっと仲良くなると。

 で、あぁ言っちゃったけどこういうのがダメなんだよ〜、
と 言ったあとで気付いて、でもどこかで甘えているから
そういうひとなんだよなぁわたし みたいにちょっとごまかして
終わらせていたりもしてきて、そうるすと
いつまでもいつまでも ひやっ とすることが起きつづける。



 すばらしい仲間とせっかく出会えて
これからもつないでいこう とするそのときに
わたしは知らない間に甘えを全開にしてしまうのだろうな。
これはずっとまえに書いた 天真爛漫 みたいなこととも
つながるけど、そこをわかってよ! とか
だから仕方ないよね! みたいにして たいせつななにかを
とりこぼしてしまう。 気がつけば 甘えよう と
してしまう というのに近い。 それはなんかダメだろう。

 わたしがわたしのままであってほしい
わたしをのびやかに出してほしい 
とか 言ってくれたひともいたけれど
でもやっぱり それをやろうとしたところで 
だいたい間髪入れず ひどい! と言われることが多かった。
甘えようとする という 素 も出るからだろう。
適切に頼る というのではない、べっちゃりした甘え。
それは決して求められていない部分だし、
そんなもの誰だって向けられたくない。わたしもイヤだ。

 乗り越えるべきはやはりそこで。
いろんなことががらっと変わってしまったいま
わたしを劈く ということが
すこしずつわかりはじめたいまだからこそ
ここはわたしの正念場なのだろう とおもう。