2013年11月7日木曜日

あくびがでちゃう

 わたしがどんなしごとをしているのか ということを
いや というほどみせつけられるときが ある。
わたしはこのしごとで ひととひとが 出会い
そして 通じ合おうとすること の原型みたいなもの
そのことがもたらすちからの ちっぽけさと 同時に 偉大さを
つよくつよく感じざるをえない。

 ちからをつかう というのがどういうことなのか。

 わたしはしごとのうえで とても辛抱づよい。
プライベートではどうか。 わたしの辛抱づよさは
相手を信じることに基づいていないことが
多々あったのではないだろうかとおもう。

 れんあいが ことごとくうまくいかなかったのは
そういうことなんじゃないかなぁ とおもう。

 仕事とプライベートはちがうけど
やっぱりちがわない と最近はおもうようになった。
表面的にはちがうけど ひとに対することへの本質は
おなじことなのだった。そんなあたりまえのことに
いまはじめて みたいに 深く深く気がつく15年目。

 わたしは最近になってようやく ほんとうの意味で
あいてのちから の可能性に賭けたり それを信じたりすることが
実感としてわかるようになってきたようにおもう。
しごとをしていて そういうじぶんに気がついた。
つまり わたしはこれまで そういうことがほんとうには
できていなかった ということなのだとおもう。
わたしのいう しんじてまつ ということ 
あれは なんだったの?


 よくわからないけど わたしはかわったのだろう。
わたし をまるごとかけないと しごとができない。
その わたし の在り方が やっぱりとても
かわったのだ とおもう。 あのころは過ぎた。
あのころだからこそ あのころのことごとが
わたしのもとに生じた。 いまなら ということは
意味がないのは知っているけれど。

 わたしはこんなふうに通らないと 
こんなふうにはなれなかったのだ。

 あくびがでちゃうね。


2013年10月27日日曜日

からだ

 さて。 きのうはとある学会のシンポジウムにいって
鷲田清一せんせのお話などを聞いてきたわけですが
身体とイメージ という非常にわくわくするテーマだったのに
かんじんのわたしの身体がなぜか疲れきっていて
ところどころ 睡眠学習 な感じになりつつ聞いたのであった。

 あたまでっかちで生きてきたわたしは
身体 をないがしろにすることが多かったし
どちらかといえば 身体 を アタマとか思考とか感情とか
そういう 内的な動きをつかさどるもの こころ に対して
低く見るようなところがあったような気がする。

 川戸せんせがおっしゃったように 身体をこころの従属物であるかのように
こころ が整っていて その方向性が決まっていれば
身体はついてくる みたいなね。 身体 がおかしくなるのは
すべて こころ がもたらすものである みたいなね。

 なわけないだろう。

 もちろんそういう部分(こころが整わずそれが身体に など)は
あるし、まったくそういったことが関わらないで生じることだって
あるけれど 身体 は 身体それ独自にきちんと 在る のであって
こころのほうに影響を及ぼすことだってあるし 身体もこころも
もうどっちがどっちなのか 卵が先かにわとりが先かとか知らんがな
くらいに渾然一体となっているものなのであるわけでして。

 最近でこそ 身体 をわたしはそこそこ
注意してみるようになった と思う。 
それ以前からずっと 身体はいつでも
わたしの思い通りには動かないものだったけれど
フラをするようになって特に 身体がおもいがけない反応を見せてくれる
というようなことがあって それはほんとうにすばらしい経験なのだった。

 走る ということだけをしていたときは
身体を動かす ということそのものの効果のようなことを
感じていたけれど 踊る ということは わたしにそれ以上のことを
感じさせてくれているのだろう。

 でもまだまだ。 開いているか 閉じているか という
昨日はその話もあったけれど わたしの身体は 
閉じている ような気がする。 まだまだ 開けていなくて。
そして 同じように こころも 開けていない というか
まだ開いてゆけるというところにある とおもう。

 わたしがこころを開きたくてもあと一歩開けずにいたのは
身体が開いていないからなのでは などもおもう。

 なんて またアタマとかこころとかの方向から
アプローチしておりますが そんなことより
身体 から感じてみようよ。 身体 から発せられるものに
もっと寄り添ってみましょうよ とおもったのだった。


2013年10月22日火曜日

くだらないけど気付いたこと

 きょう電車に乗っていて いろいろと浮かんだことごとは
ここ最近の様々な気付きのなかでも だいぶ大きいものだった
ようにおもう。 ので書く。

 くだらないレベルではあるんだけど。

 なんていうんですか 人生はミラクルですばらしい という真理について。 
それは実際のところ そうだとおもう。 けど
わたしはそれにともない あらゆることにおいて
すがすがしさ とか きっぱり感 みたいなものを
過度に求めすぎたり そうであるべき と思ったりしすぎてたんじゃね?
ということ。 そんなこと 無理じゃーん ていう。

 きょうわたしが気付いたことはそれだったの。
どろどろしたり バカみたい だったり くだらねーなーもー
みたいなことだったり そのすべてを 気が済むまで
バカすぎるどうしよう とか そういうことでぐじぐじしつつもやる
っていう そういうことこそが人生なんだろうな っていう。

 もちろんそれを さらに俯瞰でみたら それもすべてすがすがしい
と言えるのかもしれないけど いやぁ そう言える境地には
死ぬ前にようやっとたどりつけるかどうか くらいで
わたしはまだまだ この混沌としたバカさをやり抜かないといけない。

 あと その わたしのいまいちばんのバカポイントを形成している
例の彼のことにしても わたしとのことをいい思い出って言ってほしい
とか思ったりしちゃったけど そんなのも 別にもうどうでもいい
というか そりゃ いい思い出であってほしい けど
そうなるようにどうする とかじゃなくてもう それはすでに
彼の物語であって わたしには与り知れないこと なのでした。
わたしは わたしの物語をただただ納得いくように 気が済むように
紡いでゆくためのことをするまでで その過程で
彼がわたしを残念に思うことも それもまた人生であって
生きるってそういうことなのだよね とか。

 なんでそういうことを思ったかというと。

 わたしは占いその他などでよく 
「もっとじぶんを素直に出しましょう」
という趣旨のことを言われており、でもわたしは
どちらかといえば すきとかそのへんを思ったように言っては
信じられない と言われるなどのことで揉めてきたな と
思っていたのです。 が これも よくよく考えると
付き合いを終わらせるほど嫌われたくない という部分で
気を遣いすぎて 将来 とか 今後 とかいう
キーワードに関することは特に 相手にあわせよう
としすぎて じぶんを殺してきた ようにおもう。

 もちろん 相手にあわせるって 大切なことだけど
でも いちばん肝心な 価値観 みたいなところで
わたしはいつも 相手の顔色をうかがう感じで
ほんとうのところを自由に出していなかったな と思うのだった。
思い込むのがほんとうに得意だったな と。

 これからはほんとうにもっと じぶんに対しても
相手に対しても開いたじぶんでありたい。 そうでなくては
誰とも関係を築くことなんて できないのではないか とおもう。

 
 という先のことはともかく。 まずはいま目の前にある
例の彼に対してやっぱり思っているいろいろな思いを
わたしがわたしの気の済むように わたしの責任でやり抜く
ということなのだ。 最終的に すがすがしくなること とか
かっこよく終わりがくること を目指すのでは
決してなくて。