2015年12月27日日曜日

うらとおもてと

無事24日に仕事を納めたわけです。が、オットはまだ納まってないので
あんまり仕事納め感のない感覚ではある。

それはともかく。

先日、こんど結婚式で司会を頼む友だちとオットと3人で飲む機会があった。

その際に、わたしがいつものごとくちょっとした失言をしたのだけれど
オットが慌てて「このひとなんの悪気もないんです」ってわたしのかわりに言い訳して
友だちは「うんうん。わかってます。
ほんと、うず子(仮名)は裏表がないから」と答えたのだった。

その後、わたしに昔から裏表がなくて、このままのひとだ、という話になり、
そこがいい点である的にそのときにはなったのだけれど、
その点はわたしのいいところもわるいところも すべてを集約した何か
だと思ったのだった。

前にも似たことは書いてましたよ。母の天真爛漫さをわたしは受け継いでしまっているなぁ、とか。
でもあんまり、そのことが示す中身をしっかりはわかってなかったな、とおもう。

じぶんで言うのもナンだがわたしはアタマのいい(理解力が早い)ところがあるので、
その賢さみたいなものや、落ち着いて見えるところ、
でもなんか開けっぴろげである感じとかに
ひとがすごい勢いで寄ってくることがあった。
このひとならわかってくれる と。

でも、そんなんは幻想で、わたしはみんなの期待にはだいたい応えることができず、
そのかわり 開けっぴろげ な自由なところがほんとに自由で 腹立たしさを生むのだろうとおもう。

裏表がない と昔からの友だちやオットにも言われる というのはちょっと意外ではあった。

じぶんとしては昔は特に
空気読んで場に応じて動いてるつもり(あくまでも)だったので、
裏表がない 見たまま と言われるとは
まったく思っていなかったのだ。

しかしながら。

わたしがどうやら生まれつき持っている 天真爛漫さ 裏表のなさ
というのは、たたずまいとして
おもてにずいぶん見えていたらしい。

わたしはそのひとの中にある、
そのひとが思ってる何か を
取り出して それをわたしもそう思ってるよ
みたいにして大きく見せることに
ほんとに長けていたとおもう。触媒みたいに。
でも もうそんなことはしなくなった。必要なくなった。

そうしたら、勝手で自由なところばかりがおもてに目立ちだしていて
それがいまだとおもう。

苦しく悲しくなることもあるけれど、
これからのやり方で わたしはわたしの裏表のなさと付き合っていこう。
その在り方をすこしずつ作っていこう
とおもうのだった。

みずからを認め受け入れ、しかし開き直りすぎず、卑屈にならず。

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