2015年9月12日土曜日

ちいさいろうそくのほのおのような

 さて。もう9月でございます。あんなに暑い夏だったのに
すっかり朝晩涼しくなって ちょっとさみしいくらい。

 いろんなことがあって。
ここ数年、とてもたのしいこと うれしいこと すてきなこと
も たくさんあったけど、人間関係で
中学生のころに戻ったかのような嫌われ方をしたりなどの
オトナになってからは経験しなかったような出来事もたくさんあった。

 わたしがわたしになっていくときの
潮目の大きな変化 みたいなものが起きているのだろう
ということはわかるし、嫌われるからには
嫌われるなりの何かはやっぱりあるということもわかる。
中学生のころのわたしの傲慢さ満載の立ち振る舞いのように。

 それでも その頃と違うのは
そんなわたしであっても こころから認めてくれるひと
というのが 少ない人数ではあるけれど 存在する
ということで そのことへの感謝を決して忘れてはならないし、
そこからわかるおのれの改善ポイント というのもあるとおもう。


 与えられたい とおもっていたのだ。


 口では理想を語っていても。
これまでの たぶんそういうことかな という
はっきり嫌われるきっかけになった出来事を振り返ると
共通しているのは 周囲よりもわたし自身を優先させていたこと
であったとおもう。

 これまでは、そうはいっても 何かを汲み取って
知らぬ間に触媒のようにはたらくこと を得意としていたから
目立たなかったのであろうとおもうけれど、
触媒のようにはたらく という意味ではない
相手の様子をしっかり見て そこに思いを馳せる
ということが わたしには足りなくて、そのことが
触媒としてはたらかないいまのわたしには
目立って表に見えているのだとおもう。
そして なぜそのことが足りないかというと 
ひとことで言えば
与えられたい ということなのだ とおもう。

 わかってほしい ばかりで思いやりのない最低な人間だ 
と言われたことがあるけど
きっとその通りなのだろうとおもう。

 でも そこを通らないと 触媒として生きた日々を
抜け出せなかったのだろう。わたしは。
思いやりのなさを 触媒として生きることでカバーしていた
だなんて ほんとうに残念だ。
けれど わたしはどこか これから について
希望を持っている。 最低 で 存在する価値がない
とは 思っていない。ありがたいことだとおもう。
そう思わせてくれるいまにいることを。



 いま 一緒に暮らしている彼から与えられるもの
彼の思い というものに胸をうたれることが多い。
ここまでしていただいてはじめて
実はわたしはいろいろなひとに ほんとうに愛されていたと
実感することができているようにおもう。
いままでだって ともだちや家族が
きっと示してくれていたであろうことを
わたしは信じてじぶんのねっこにすることができずにいて
ただただ 不安で確かめてばかりいたのだ
と いまはおもう。

 損ねたものは もう元には戻らない。
わたしはもう 1年まえのようなこころもちで
フラを踊ることはできないとおもう。
けれど フラをやめてしまっては
わたしは今までのわたしのままで 
また同じ何かを繰り返してしまうようにおもう。

 悲しいことだけれど いましばらくは
ここで細々とフラを続けて
情熱を傾けることはできなくても
奥底にある フラがすきだとおもう気持ち
からだを動かすよろこびは つないでいきたいとおもう。
ひとと最低限でもつながり わたしのいまの在り方
これからの在り方を示していきたいとおもう。

 いつかまた 何かが生まれるかもしれない。
損ねてしまったものとは違う何かをわたしは手にするだろう。

 こんなふうにしか進めないけれど
愛をもってそばにいてくださるひとたちがいる限り
わたしはわたしのなかにある
ちいさいろうそくのほのおのような
でもたしかにあるひかりを 信じようとおもう。

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