まだまだ読んでいる。
先日の、「もしもし下北沢」からまたばなな祭りで
でも このたびは小説ではないものを入手して読んでいるのだ。
ひとつは ウィリアム・レーネンさんとかいう わたしは
はじめて知ったんだけども どうやらものすごくゆうめいな
サイキックチャネラーだとかいうおじさんとばななちゃんの
交換メール みたいなのをまとめた本(「人生を創る」ダイヤモンド社)で
もうひとつは きたやまおさむせんせの講義とあとそれに関しての
ばななちゃんとの対談をまとめた本(「幻滅と別れ話だけで終わらない
ライフストーリーの紡ぎ方」朝日出版社)で
両方きょうあまぞんやさんから届いたのだった。
で。レーネンさんとの対談のほうは まぁほら
相手がレーネンさんていうスピリチュアル全開のひとなので
使われる用語っていうか 話の展開のしかた のようなものについて
わたしはやはり どこかで用心しながら読んでしまったわけだけれど
なにがよかったかというと あぁみんなおなじにんげんだな
ということと あといろいろ言ってて いい とか わるい
とかじゃないんだけれど なんていうことを話しつつも
やっぱりどこか じぶんを傷つけたり じぶんとは違うひとたちに対しては
ちょっと意地悪になるもんなんだな みたいなことが感じられたことで
あ。 おなじにんげんだ てのの中身にしかなってないわー。まぁいいか。
偶然とかなくて 起こるべくしてことは起きてる と言っていたけど
わたしは実は そこまで達観していない というか
だいたいのことはそうなのだ と後から振り返ることができるんだけど、
乗り越えられることしか起きない というけど やっぱりそうじゃないことも
あるんじゃないのか、特に じぶん以外の人々に対して
乗り越える ことを強要するような
そういうふうな立ち位置にわたしはいたくない と思っているのだな
とか そんなことを思いました。 乗り越えられない何か を
ずっと一緒にやる みたいなね そういうのもあるんじゃないか とか。
でも 起こったこと は それは ただの経験なのだ という
その考え方は実に沁みます。 そうなのだとおもう。
それをどう己が体験するのか というただそのことだけが
意味っていうか なんかそういうものになっていくのよね。
全然うまいこと言えてないけど。
あと ばななちゃんのことは わたしはいままで
せいぜい一度か二度なんだけど エッセイをちらっと読んで
なんかトモダチになれなさそう みたいな気持ちになっていたの。
小説はすばらしいけど その出所のいろいろ とか 舞台裏 のようなもの
は あんまり見たくなかったんだろう。
いまでもまだ エッセイを積極的に読みたい と思わないのだけれど
このたび 対談 のかたちで 小説の出所であるところの彼女 を
垣間見ることになったところ そこまで イヤ ではなかったので
あぁちょうどいいときに読んだな と思ったのだった。
レーネンさんとのメールのほうは たぶん ばななちゃんは
ぜんぶを ばん と晒してて (絶妙なバランスで)甘えてる というか
そんな感じがして その にんげんくささ みたいなところに
むかし感じたのとは違う親しみを感じた。 まぁやっぱり
あんまり仲良くならないかも みたいには思っちゃったけれど。
きたやませんせとの対談のほうは まだ全部読み終わってないんだけども
(読んでから書け という話もあるがまぁよいではないか)
ちょっと服着てるっていうのか そういう感じの。 晒してる
までいかずに話してる感じがして その差みたいなのがおもしろい。
きたやませんせのつかうことばや土台にしているもの が
わたしに通じやすいものだ というのもあるかもしれないけど
レーネンさんとのやりとりよりは用心せずに読めているのも
わたしにはちょっと ラクなのかもしれない。
でもともかく どっちも 言ってること というか
世界をどうみているか という話であることには変わりなく、
どういう文脈とことばを使って話すか ということで
こういう差が出るのだな というようなことを思った。
話していることの核心は同じであっても、その伝わりやすさや
受ける感じにはずいぶんと違いが出るものだ。
わたしもきっと 話す相手とか雰囲気によって
文脈やことばを知らないうちに変えて話しているのだろう。
そういう いろんなチャンネルやモードがあって
そのうちの どのあたりを好むか というのか
どのあたりのチャンネルやモードで話すときに
いちばんじぶんがくつろげているか ということを
ちょっと知っておいたほうがいいなぁ とか
そんなことを思った。
スピリチュアルなこと とくくられることには
いろいろと 誤解とか 期待とか 欲望とか そういうものが
くっついてきがちで なので 提示するのも 受け取るのも
すこし難しいことがある とおもう。
スピリチュアルと呼ばれる部分を わたしはこれまで
じぶんの仕事の世界での文脈とことばを使って理解したり
近づこうとしてきていて そっちから説明すると俄然よくわかる
ような気がするし、それはわたし自身をこの世界につなぎとめる
楔のようなものでもある とおもう。
そういうものがある(在る) ことには変わりないのだけれど
それをわたしが スピリチュアル といわれるひとたちがつかう
文脈やことばをそのままつかってそこに入ろうとしたとたんに
わたしは この世に生きる この世に在るわたし という
いちばん見失ってはいけないものを見失ってしまいそうになる気がする。
同じことなんだけどね。 ばななちゃんが レーネンさんとのときは
甘えてる感じがする というのの その うまい具合の甘え みたいなのが
わたしはもっと とんでもない強さのものになりそうで
なので わたしはこれからも わたしの文脈とことばで
これらのことを語ろう と思ったのだった。
てことで きのうトモダチとうちでワインを2本(ひとり1本)
あけてしまったので どう考えてもまだ酔ってる が
午後まで続いてしまって 走るのをあきらめた日曜日でした。
このあとは フラのれんしゅうを1時間することで
運動にかえさせていただきたい と こう思います。
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