2015年12月30日水曜日

ありがとう2015

 とうとう12月も30日で 去年のいまごろは
オットと付き合うことになって わー ってなってたという
そういう時期だったわけですが、なんと!ことしは!
ヒトヅマとなって迎えています年の瀬を。きゃ。
きゃ じゃねぇよ。

 ともかくね。去年の今頃のわたしは
人間関係もなにもかもがうまくいってる
なんて思い込んで まぁ挙句ぎっくり腰ですけど
とにかくことし経験する大転換期の下準備みたいな
そのちからをためるみたいな時期だったのかも
と思います。

 トクベツなわたし 非凡なわたし な、わけではなくても
わたしはわたしだから大丈夫だよ ということを
去年までで学び 
けど わたしはまだ そのあたらしいわたしを
扱いきれていない感じでいたのかも 
あたらしいわたしにうかれていたのかも
などと考えさせられたのが今年だった。

 けれど すっかりこれからのステージへ向かう
とりあえずの準備が整って
そうしたら いろんなことがはっきりした
というのがいまなのかも とおもう。

 
 そうするなかで ずっとずっと
かわらずにいてくれるトモダチがわたしにはちゃんといて
しかも わたしの本質のようなところを
短いあいだに深くつかんで一緒にこれからをともにしてくれる
オットがあらわれて
何を怖がったり不安がったり
つらくおもったりする必要があるだろうかいやない(反語)。

てなわけで わたしはちゃんと
わたしが経験すべきことを経験していて
ジョシのあいだでうまくいかない とかそんなのも
この世をすべからく知る というか
わたしがこのさき生きるために知っておくべき何かとして
生じたものなのだと ほんとうに思えるのだった。

 ことしまで長いこと
夢を見ない期 が続いたけれど
それは 現実の世界でのいろいろをたくさん体験する時期
だったからなのだろう。
いろいろがあったその変革期の頂点たることしが過ぎたあと
きっと来年くらいからはまた
夢を見る期 になるのかもな と思っている。
ちゃんとわたし全体でことしまでの出来事を咀嚼しないと。
落とし込まないと。 って 無理にすることではないけど
きっとそっちにむけていくのだろう とおもう。


閑話休題。


 結婚式とか披露宴とかをするって決めた頃に
ジョシ世界の人間関係がうまくいかなくなって
なんて不幸 とちょっとだけ思ってたけど
いま思えばそんなことなくて いろいろ残念なことはあっても
わたしをほんとに大切に思ってくださるひとが
きてくださることになるだけだから それでいいのだ と思った。
て、親友だ とおもうひとたちの何人かは
違う国にいたり 小さいお子がふたりもいてしかも遠方だったりで
きていただくことがかなわないのだけれど
でも なんかここ数年で わたしはほんとうに
わたしがたいせつにするものや そうすべきものを
ちゃんと見ることができるようになっていて
だから 大丈夫だ とおもう。


 そういうことでね。2015年、つらくてかなしくて
でもそれ以上に うれしくてシアワセな すばらしいいちねんでした。
みんなみんな いちみくろんでもかかわったすべてのひとたち
すべてのものごとたち ほんとうにありがとうございました!

2015年12月27日日曜日

うらとおもてと

無事24日に仕事を納めたわけです。が、オットはまだ納まってないので
あんまり仕事納め感のない感覚ではある。

それはともかく。

先日、こんど結婚式で司会を頼む友だちとオットと3人で飲む機会があった。

その際に、わたしがいつものごとくちょっとした失言をしたのだけれど
オットが慌てて「このひとなんの悪気もないんです」ってわたしのかわりに言い訳して
友だちは「うんうん。わかってます。
ほんと、うず子(仮名)は裏表がないから」と答えたのだった。

その後、わたしに昔から裏表がなくて、このままのひとだ、という話になり、
そこがいい点である的にそのときにはなったのだけれど、
その点はわたしのいいところもわるいところも すべてを集約した何か
だと思ったのだった。

前にも似たことは書いてましたよ。母の天真爛漫さをわたしは受け継いでしまっているなぁ、とか。
でもあんまり、そのことが示す中身をしっかりはわかってなかったな、とおもう。

じぶんで言うのもナンだがわたしはアタマのいい(理解力が早い)ところがあるので、
その賢さみたいなものや、落ち着いて見えるところ、
でもなんか開けっぴろげである感じとかに
ひとがすごい勢いで寄ってくることがあった。
このひとならわかってくれる と。

でも、そんなんは幻想で、わたしはみんなの期待にはだいたい応えることができず、
そのかわり 開けっぴろげ な自由なところがほんとに自由で 腹立たしさを生むのだろうとおもう。

裏表がない と昔からの友だちやオットにも言われる というのはちょっと意外ではあった。

じぶんとしては昔は特に
空気読んで場に応じて動いてるつもり(あくまでも)だったので、
裏表がない 見たまま と言われるとは
まったく思っていなかったのだ。

しかしながら。

わたしがどうやら生まれつき持っている 天真爛漫さ 裏表のなさ
というのは、たたずまいとして
おもてにずいぶん見えていたらしい。

わたしはそのひとの中にある、
そのひとが思ってる何か を
取り出して それをわたしもそう思ってるよ
みたいにして大きく見せることに
ほんとに長けていたとおもう。触媒みたいに。
でも もうそんなことはしなくなった。必要なくなった。

そうしたら、勝手で自由なところばかりがおもてに目立ちだしていて
それがいまだとおもう。

苦しく悲しくなることもあるけれど、
これからのやり方で わたしはわたしの裏表のなさと付き合っていこう。
その在り方をすこしずつ作っていこう
とおもうのだった。

みずからを認め受け入れ、しかし開き直りすぎず、卑屈にならず。

2015年11月18日水曜日

TOO MUCH PAIN

朝の通勤電車なのに。

おはようございます。ねむみ増す水曜。
ひさしぶりに音楽聞きながら通勤してまして。

ブルーハーツの TOO MUCH PAIN がかかりまして。
この曲にはちょっとした思い入れがあって、
これまではこの曲聴くと、
その思い出を思い出してぐっときてたとこがあったんですけど、
でも なんか うたのもっと違うところが
このたびはうったえかけてきまして。
ああ そういうことだったんだ ていうか。

ものごとの起きているそのときは、
そのことに必死で
いくら俯瞰で見ようとして
そのときはそう見ているつもりになっても、
やっぱり そのことの全貌やさまざまなことごとは
わからないものなのだなぁ と。
いつでもこうして
あとになって
思いがけないかたちで
「わかる」ものなのだ。

そして、その わかったはずのことでさえ、また時が経てば
べつのかたちをあらわしてくる。
たいせつな出来事というのは
そのようなものなのだ
と おもった。思い知った。

ありがとうございます。

つらいことも たのしいことも うれしいことも かなしいことも
すべてすべて。

涙が出る寸前の通勤電車。

『もう二度と もどることはないよ
ぼくはまた一歩 踏み出そうとしてる
TOO MUCH PAIN』










2015年11月8日日曜日

おかげさまで

さてどーも。こんばんは。
気がつけば11月。て、この手の書き出し、多すぎやとおもうねん。

てのはともかく。ていうのも多すぎなのだけどそれもまたともかく。
わたくし、先月のとある日に入籍いたしました。
戸籍のうえでヒトヅマです。きゃっほい。

いままで 自信ない自信ないと言い訳しながら
とんでもないめんどくさい子ちゃんで生きてきました。
めんどくさい子ちゃんなのは 一生変わらないかも、
たけど、このたび オットと一緒にいるようになって
自信ない という言い訳からは 抜け出せそうにおもいます。


彼がわたしに注いでくれる何か。深い愛。
の、ようなものを なんだかびしびしと感じることが あるのです。

そういうものを すっと受け入れようとするじぶんも
育ってきたのだとおもいます。

ほんとにありがたいです。愛し愛される ということを知りつつあります。いえい。

というわけで シアワセです。

これから先は、このシアワセをきちんと世の中に還元できるような
そんなオトナになるべくがんばって生きていこうとおもいます。

あーほんと 人生っていいね!
シアワセです。

いままでわたしが悲しい思いをさせたあらゆる人たちに
どうお詫びしていいのかわからないけど、でもたぶん
いちばんいいのは
わたしがシアワセでいること とおもう。


もう二度と会うことのない 関わることのない
あのひともこのひとも
みんな元気でいますように。ま、願わずとも
元気でいてくれてるとおもう。いつの日か、なめぐり合わせのあるみなさんは またいつの日か。そうではない人びとも ずっとずっと お元気で。

2015年9月20日日曜日

最高のメッセージ

きょうのことを わたしはずっと 忘れないだろう。

真剣に向き合った相手から
最高のメッセージを受け取った。

ありがとうございます。
わたしもあなたとのあれこれを通して
いろんなことを学びました。
じぶんをほんとうの意味で認めてゆく
その作業のいちばん最初は
あなたと関わったことにあったと思います。
当時付き合っていた彼ではなく。

お互いこれからも
お互いとしてしっかり生きていきましょう。

うれしかったです。

いつか。いつの日か 笑って会えたらいい とおもうけれど、
それはきっとないことだとおもう。

でも、きょうのこれは
笑って会えたのと同じくらいの そんなメッセージでした。

お嫁に行くまえに受け取れたわたしは
ほんとうにシアワセだ。

ありがとう。
ありがとう世界。ありがとう人生。

2015年9月16日水曜日

子どものこと

9月も折り返しましたねぇ。秋。秋めき。

さて。子どものこと。
もう2〜3ヶ月にいちど めっさしょぼい月のものがくる
というだけのカラダであるわたしに
自然妊娠は難しい とおもわれます。

それでいい し、むかしは子のいない人生を望んでいたのだけれど。

最近になって、
子を産んだことが世の中に対してじぶんが成したもっとも尊いこと
という発言や、
次世代につなぐことの素晴らしさ
ということが ようやくようやく
胸にずしんとくるようになってきた。

つらい不妊治療をしてまで、とはやはり思えないし、
腰痛持ちだから、ほんとに妊娠したら
寝たきりを余儀なくされることもあるだろうなこわい
とかあって、そんなに積極的には
なれない甘えたアレなんだけれど。

もちろん 子を産んで次世代につなぐ 以外に
この世に対してできること というのはある というか
存在すること がまず大切なこと
と思うのだけれど、
わたしはほんとうにほんとうに
大きな何か をとりこぼしたのだなぁ というこころもちになる。

このかなしみともあきらめともなんともつかないきもち
と、同時にある、つなぐことの素晴らしさや、
子を産まなくてもわたしにきっと つなぐこと で
できることがある
そうできるわたしでありたい
というきもち。

まさかこんなこころもちになる時が来るなんて。ともかく、生きよう。

2015年9月12日土曜日

ちいさいろうそくのほのおのような

 さて。もう9月でございます。あんなに暑い夏だったのに
すっかり朝晩涼しくなって ちょっとさみしいくらい。

 いろんなことがあって。
ここ数年、とてもたのしいこと うれしいこと すてきなこと
も たくさんあったけど、人間関係で
中学生のころに戻ったかのような嫌われ方をしたりなどの
オトナになってからは経験しなかったような出来事もたくさんあった。

 わたしがわたしになっていくときの
潮目の大きな変化 みたいなものが起きているのだろう
ということはわかるし、嫌われるからには
嫌われるなりの何かはやっぱりあるということもわかる。
中学生のころのわたしの傲慢さ満載の立ち振る舞いのように。

 それでも その頃と違うのは
そんなわたしであっても こころから認めてくれるひと
というのが 少ない人数ではあるけれど 存在する
ということで そのことへの感謝を決して忘れてはならないし、
そこからわかるおのれの改善ポイント というのもあるとおもう。


 与えられたい とおもっていたのだ。


 口では理想を語っていても。
これまでの たぶんそういうことかな という
はっきり嫌われるきっかけになった出来事を振り返ると
共通しているのは 周囲よりもわたし自身を優先させていたこと
であったとおもう。

 これまでは、そうはいっても 何かを汲み取って
知らぬ間に触媒のようにはたらくこと を得意としていたから
目立たなかったのであろうとおもうけれど、
触媒のようにはたらく という意味ではない
相手の様子をしっかり見て そこに思いを馳せる
ということが わたしには足りなくて、そのことが
触媒としてはたらかないいまのわたしには
目立って表に見えているのだとおもう。
そして なぜそのことが足りないかというと 
ひとことで言えば
与えられたい ということなのだ とおもう。

 わかってほしい ばかりで思いやりのない最低な人間だ 
と言われたことがあるけど
きっとその通りなのだろうとおもう。

 でも そこを通らないと 触媒として生きた日々を
抜け出せなかったのだろう。わたしは。
思いやりのなさを 触媒として生きることでカバーしていた
だなんて ほんとうに残念だ。
けれど わたしはどこか これから について
希望を持っている。 最低 で 存在する価値がない
とは 思っていない。ありがたいことだとおもう。
そう思わせてくれるいまにいることを。



 いま 一緒に暮らしている彼から与えられるもの
彼の思い というものに胸をうたれることが多い。
ここまでしていただいてはじめて
実はわたしはいろいろなひとに ほんとうに愛されていたと
実感することができているようにおもう。
いままでだって ともだちや家族が
きっと示してくれていたであろうことを
わたしは信じてじぶんのねっこにすることができずにいて
ただただ 不安で確かめてばかりいたのだ
と いまはおもう。

 損ねたものは もう元には戻らない。
わたしはもう 1年まえのようなこころもちで
フラを踊ることはできないとおもう。
けれど フラをやめてしまっては
わたしは今までのわたしのままで 
また同じ何かを繰り返してしまうようにおもう。

 悲しいことだけれど いましばらくは
ここで細々とフラを続けて
情熱を傾けることはできなくても
奥底にある フラがすきだとおもう気持ち
からだを動かすよろこびは つないでいきたいとおもう。
ひとと最低限でもつながり わたしのいまの在り方
これからの在り方を示していきたいとおもう。

 いつかまた 何かが生まれるかもしれない。
損ねてしまったものとは違う何かをわたしは手にするだろう。

 こんなふうにしか進めないけれど
愛をもってそばにいてくださるひとたちがいる限り
わたしはわたしのなかにある
ちいさいろうそくのほのおのような
でもたしかにあるひかりを 信じようとおもう。

2015年8月17日月曜日

言い訳と行動と

 先日の投稿は、という書き出しはいかにも言い訳じみているけど
先日どころか 実際 わたしはまだ じぶんのいまを きちんと受け入れ
状況を俯瞰し どうしたらいいか ということがわかっていないとおもう。

 そして 彼が味方してくれるに値しない人間なのかもしれない
という思いもアタマをかすめているのは事実だ。

 これまでのじぶんを顧みるに 
思いやりがない と言われたことがあったり
びっくりするほどに突然嫌われたりするようなことが
こと3年前から最近までにいろいろあったけど
そこからわたしは ちっとも学んでいなかったのかもしれない
ということを思うようになった。

********************

 むかしケッコンしていたころ
「あなたはそんなひとだから 
あなたを大切に思ってくれるような友達は
ほんとうはひとりもいないんだとおもう」
と言われたことがあった。当時のダンナに。

 もちろんケンカしているときに言われたことで
売り言葉に買い言葉的な そういう状況での発言だった
とはおもう。

 けれど そのことばがわたしのアタマにずっと残っていて
最近そのことをものすごくよく思い出す。

 元ダンナにひどいことを言われた というより
そのことばを ちょっとした勢い と思えず
ずっと残っているということは わたしの中に
そう言われてしかるべき部分があるからなのだろう 
と思ったりもする。


 引き寄せの法則 ということばをよく聞くけれど
じぶんの中にある何かが そのことばを捉えて離さないのだろう
とおもう。

**********************

 何度考えても わたしに 謙虚さ を求める状況が 
それが身に付いていないことを知らせる状況が
起きているのだとおもう。
アタマではわかっているだろうけどまだまだだよ 
と言われているのだろう。

 いま わたしを嫌ったり怒ったりしている人たちに対して
何をどうしていいかわからない。何をどうもせずにいたい
という逃げかもしれない とも思う。

 実際に 思いやりとか優しさとか 
そういうものが足りない人間なのだろう。
求めてばかりで与えられない人間なのだろう。

*************************

 そんなわたしにかみさまは彼を与えてくれて
彼はわたしに無条件の愛を向けてくれているとおもう。

 そこからはじめるしかないのだと思っている。
彼に対して いかに与えられるのか。

************************

 と 何を書いても
あなたは言葉を重ねてもっともらしいことが言えるだけだから
何も言われたくない
と言われたことを思い出す。
そうかもしれない と思ったりもする。
だんだんじぶんがわからなくなる。

ともかく 行動で示していくしかないのだろう。

 目の前に展開していること 起きていることに真摯に。
それしかないのだ。

まず いちばん身近な彼に。わたしの愛を行動で示していこうとおもう。

2015年6月21日日曜日

おひっこし

 来週のきょうはとうとうほんとうに引越しで、わたしは彼と
(そしてたゆと)本格的にあたらしい生活を始めることになる。
のだけど、まだ荷造りがきっと半分くらいしか進んでいなくて
どうしたもんかなー とおもう。そして荷造りのあいだにも
お決まりの むかしの写真が出てきていちいち眺めちゃう
などのことがあって。わ。わたしの髪の毛茶色いー とか。

 9年半のひとりぐらし。
思ってもみないくらい 荷物が増えていて
ということは 思ってもみないくらい
いろんなことを この9年半に
実は経験してきたのだろう とおもう。



 16年前にわたしはまえのケッコンをして
15年前にケッコン式をしていて
そのときの写真がわっさり出てきた。
なんだかわたしは微妙な笑顔で
しっくりきていない感じの場所にいる感じで
そのあとのお食事会でのわたしたちも
あんまりうれしそうではないのだった。

 でもあのとき わたしはあれを経験しないと
どうしようもなかったのだろうし、
わたしはいま ここにいることができている。

 
 とはいえ。 半年にわたって準備してきた
フラのコンペが先月末に終わって 結果が出なくて
そのときに じぶんのダメさとか
チームとしてわたしたちが全然まとまっていなかったこととか
いろんなことを感じて
わたしは彼とのことでただただシアワセ というわけには
いかないこころもちでいる。 どこかになにかひっかかってる。

 それでも。わたしは彼と生きてゆくのだし
きっと 考えもしなかった フラでつらいことがある
ということを乗り越えるためにわたしはいまを
与えられたのだろう と思ったりもする。

 これからどうしていこう。
わたしは限りなく自由だ。起こることは決まっていても。

2015年5月12日火曜日

ほら、わらって

 『◯◯ちゃんは、にこにこ笑っているのがいい』と
彼に言われた もしくは 彼が言いそう、
という話が だいすきなトモダチのBlogに載っていて
おなじことを言われているのだな(相手は別だけど)と思って
そして そのことをあんまり素直に聞き入れられずにいたなぁ
ということも 思い出したのだった。

 わたしの彼は わたしの笑顔がすきになったそうで
それはとてもうれしかったけれど でも 
笑顔になれない気分のときにまで「ほら、わらって」
みたいなことを言われると、わたしは笑っていないと認めてもらえないのか
とか思ってぷりぷりしたこころもちになっていたのも事実だ。
いっつも笑顔のやつなんておるかいそんな期待されても困るわ
とかなんとか。

 でも、トモダチのだんなさんがトモダチに言ったことばを読んで、
それを言ったそのときの だんなさんの思いみたいなものが
なんだかわたしにすごく伝わってきて、そうしたら
あぁ彼もわたしにおなじようなこころもちで ほら、わらって と
言っていたのかもしれないな と思ったのだった。

 うまく言えないけど。

 わらってないとわたしには意味がない とか 価値がない とか
そういうことじゃないんだ ということ。 
とにかく わたしがわらっているというそのこと 
わたしの笑顔そのもの に おおきな意味がある ということなんだろう。 
ぜんぜんうまいこと言えてない。

 それでもともかく。トモダチのだんなさん(わたしはこの世では1度しか
お目にかかれなかったのだけれど)が トモダチに 
笑っているのがいい と言ったときの あらゆる情景が
すっかり見えるように感じて、ものすごく腑に落ちたのだ。 



 わらっていよう とおもう。無理はしないけど。
できるだけ わらっていたいな とおもった。
わらっていられるように そういうふうに暮らそう とおもった。


 
 

2015年4月1日水曜日

シアワセ太りとひとはいう(かもしれない)

 ほほ肉が歯のほうにせり出してきているのである。
はら肉がジーンズのウエストのうえに乗らんとする
そんな勢いすらあるんである。もうひとつ言えば、
もも肉のつき具合がなんていうのか思春期っていうか
むっちり隙間なく、という方向になっていってるんである。

 わたしは1月以降、ひとりで晩の食事をすることが
劇的に減り、だけでなく 仕事の帰りが遅い彼にあわせて
食事の時間が22時過ぎ、なんていうそりゃあもうダイエットの敵
みたいなそんな時間からになっていて、そんなこんなで
第一段落めのような そんな状態にならんとす という
残念至極なね。嗚呼。

 これで 彼が「うずちゃんがうずちゃんだったら
なんでもいいよ」なんていうなまあたたかいことを
発言するタイプであるのなら きっとわたしは
このまま膨張を続けるのではないか、 と思われるのだけれど
残念ながらそうではなく、肥えてきたわたしに
容赦ないダメ出し(って別にそれでわたしを否定するとか
そういうのではないけれど)をするし
わたし自身としても 洋服がキレイに着られない とか
写真に写ったときなどに思わぬ顔の膨張ぶりに愕然とする
とか そういうことが始まりつつあるのを感じるので
そろそろどうにかしないといけないのである。
流行りのことばでいうと どげんかせんといかん。 
もう流行ってない。

 でね。 これは 食生活が深夜型に というだけでなく
走らなくなっているから というのも大きいのですよええ。
もう半年近く走っていない。ダメじゃん。だって寒かった。
だってフラの練習たいへんだった。だってゴハンちゃんと作った
・・・のは3ヶ月だけだな。ともかく、走らないことにより
走るときに使う筋肉が落ちてそれが脂肪にそだってきて
そこへきてこの食生活 っていうそういうことなのだろうとおもう。

 ひとに食べていただく食事だから、バランスはいいんだけどなぁ。
そして夜に炭水化物食べない、はちゃんと続けてるんだけどなぁ。

 と言い訳しつつも ちょっとわたし 本気で痩せたい。
もっとカラダのラインがキレイに見えるように
まずは間食をやめて・・・ ええええっ?!間食してたの?!

2015年3月25日水曜日

いまの課題

 はるやすみになって でもなんだか日々何かがあって
ゆっくりできていないなぁ 疲れが妙にたまっているなぁ
というまいにちではある。 それでもこう 
あたらしい生活に向けて みたいなのがあるから
明るさはあるのだ。

 そんな日々ではあるのだけれど。
最近また人間関係がちょっと不穏。
爆発的にひとに嫌われる ということが
生じていたここ数年だったけれど
またおなじようなことが起きていて
いったいわたしは何のミッションがまだ完了していないのだろうか
と 考え続けている。

 想像力が足りなくて 期待を引き受けがっかりされて
もうあなたの言動の何を見てもイヤ! 
と思われるじぶんになってしまう ということがあるわけだ。
いま 残念ながら とあるひとからわたしはそんなふうに
何見てもイヤ! と思われているようなのだ。
最初にぎくしゃくした理由は 話してくれたしわかったけど
そのあといったん持ち直して また とある日から
がたん とおかしなことになった。

 もうここまでくるとどうしようもないな と思うし
(というか なんとかしたい って働きかけようと思うのではなくて
もうどうしようもない としか思えないのはちょっとかなしい)
わたしばかりが一方的に悪いとあんまり思えず
きっといま 第三者の何かとかも入って誤解されてたりとか
あることないことの想像も入ったりして
厄介な感じの状況なんだろうなきっと と思うのだった。

 わたしばかりが悪いのではなくても
こういう事態になる ということにはきっと
わたしが気付いて変わっていかねばならぬ何か が
あるわけなのだ。 でも正直まだそれが何か
わたしにはわからない。

 謙虚であれ ということの絡みだとは思うけれど。
そして むかしほど 期待されよう よく見せよう と
いうことはなくなっているとおもうけれど
まだ足りないのかな。

 ともかく 生じていることがすべてだし
目の前に起きたことを そのまま受け入れ
できることをする というだけなのだろう。

 人間関係でのなやみやトラブルは
高校生以降は ほぼ なかったのに こうして
ここ数年で起きているということはやはり
わたしが大きく変容してきたからだろうし
わたしがもっとわたしになっていく過程として
やっていかねばならぬことなのだろう とおもう。

 

2015年2月27日金曜日

これからの人生

 その後 びっくりするくらいあっさりと 
ふたりを育ててくれたひとたちが
わたしたちが一緒に生きてゆく公的な約束をしよう
としていることに賛成してくれたのだった。

 あと半年くらいのうちに わたしはきっと
みょうじがかわったり 住むところがかわったり
などしていることだろう。

 誰かを信じる ということは
じぶんを信じる ということと ほぼ同義なのだな
ということを思った。

 たった2ヶ月だけれど 彼と関わる生活を送るなかで
それは確信となった。 わたしがわたしを信じられなくて
どうして相手を信じることができるだろうか。

 誰かを愛ししかもそのひとに愛される というのは
トクベツなことだと思っていたけれど
それがいまわたしの人生にほんとうに生じていて
と わたしは思うことができている。

 これまでつきあってきたひとに
わたしはほんとうに申し訳なかったな
とおもうくらい じぶんに自信がなく
だから それを補償してくれたらいいのに
と期待して失敗したのかな とおもう。

 失敗っていうか ただ単に
縁がなかったんだろうけど。

 出会うときにちゃんと出会えたいまのひとと
いろんなたいへんなことがこれからあっても
ちゃんと関係を築いていきたい。 それができるわたしになって
出会うことができたのだ とおもう。

 ありがとう。ほんとうに。

2015年2月16日月曜日

ふたたびの でも はじめての

 わたしたちはこれから一緒に生きていこうと
そういうふうにむかっていこうと
ふたりだけの約束をした。

 その翌日であるきょうのわたしの笑顔は
きのうまでよりすこし やわらかくなっているだろうか。


 こういうことを誰かと話すのは
はじめてではないけれど
でも こんなにじぶんのなかに
見て見ぬふりをしているものがない
なにかにせきたてられているわけではない感じで
そういう話ができているのは
はじめてで
だから はじめてのこころもちで
まっさらなところにそれは伝わってきて
わたしはうれしかった。

 
 彼はわたしにわかるように
わたしにむけて 言ってくれた。


 わたしはそう遠くない将来、
だいすきなひとの およめさんに なるのだ。
まわりのたいせつなひとたちや
お互いをそだててくれたひとたちが
こころから それはすばらしいことだね と
笑顔になってくださるかどうかは まだわからないけれど。
最終的にそうなっていただけるようなところにむかっていこう
と そう 話すことができたのだ。


2015年2月7日土曜日

おおきくうごく

 漠然と感じていたけれど、それは 単に日が浅くて
だから 最初の勢いのようなものに
すっぽりつつまれているからなのだろうな 
と思っていた。 この1ヶ月。

 でも その勢いみたいなものは 不思議とわたしにとって
地に足がついている感覚があったし、それでもちゃんと育って
ふたりのあいだにはいろんなことがあって
そうしたら わたしの人生はこれから 見たところの動きが
とてもとても大きくなりそうな感じのところにきている。

 もうそんなふうに。 大丈夫なのかな と思っていたけど
どうやら大丈夫みたい。 わたしの奥のほうが感じていることは
不安にゆらぐよりもずっと 最初の直観を支持することばかりで
安心はこうして育てていくのだ という思いが強くなる。

 神様(のようなもの) わたしをいまに連れて来てくれて
お互いがお互いを見つけることを こんなかたちでとりはからってくれて
そのタイミングを お互いが逃さないでいられるようにしてくれて
ほんとうにありがとう。

 何があっても いまのこの感じをわたしはきっと思い出すし
出会った日のことを思い出すだろう。
そんなご褒美みたいなことが結びつけてくれてつながれたのだから
お互いにむけてきちんと真摯にある努力を(もちろん無理ではなく)
していける とおもう。





2015年1月18日日曜日

4週間

 まだ存在を知って4週間なんだけれど。
もうずっとまえから知ってるみたいになじんでいて
こんなことあるんだなぁ とあらためて思っている
そんな今日この頃なのだけれど。

 このたびの彼は ちゃんと気持ちをあらわしてくれるし
わたしはその気持ちを素直に受け取ることができているし
信じることができている。
そうしたら 会わないでいるあいだに
いろんなことをいちいちなんでも報告、とかしないでもいられるし、
もちろん思い出すけど、それだけで満たされているような感じがする。

 これまでの恋愛では わたしは気持ちを伝えたくてしかたなくて
なかば必死にいろんなことを言っていた。返事はいいからといって
たくさんのことを それこそ 垂れ流すかのように。
けれど いまはそういう感じがいまあまりなくて 
わたしは必死になっていないし ほっとして過ごすことができている。
ただ 会いたいな とか 一緒に食べたいな とか 一緒に見たいな 
とか 一緒に行きたいな そういうことを思うだけで。
そういういまになって これまでいかに  
相手やじぶんを信じることができない恋愛ばかりしてきたか 
ということが 実感としてわかるようになった。

 わたしが必死に相手にメールをしたり 
頻繁に手紙を書いたりしていたのは
遠距離だったから というだけではなく
やっぱり 相手がわたしのほうをそこまで向いていない と知っていて
だからこそできていたのだな とほんとうにおもう。



 たったの4週間で何言っちゃってんの と思われるかもしれないけど。
でも わたしはこの4週間で いままで知らなかったことをたくさん知ったし 
気持ちをむけていただけるしあわせを
はじめて受け止めて 感じることができたから
だから このきもちはたいせつにしよう とおもう。

 なーんていう思春期みたいな。
でも 思春期じゃなくていまだから わたしはいま生じていることに
わたしをゆだねることができているのだろう とおもう。
ありがとうかみさま(のようなもの)。


2015年1月16日金曜日

足りぬ想像力

 まぁタイトルからもわかるように。やっぱりね
浮かれているとね それ相応の戒め的何か というのが
ちゃんと表に出てくるのですよね。 て、このたび浮かれているから
何かがあったんじゃなくて 浮かれた状況になったことをきっかけに
指摘されることにあいなった ていうことなのですけれども。
それは かつて 思いやりがない と
一刀両断された部分についてのお話でございました。

 ずっと仲良くしている と思っていた彼女の様子が
ちょっとへんだな と思っていたここ数ヶ月。でも 何やろうか
とずっとひっかかっていたところ。

「なかなか相談しないわたしが父親との不仲を相談していて
そのことを知っているはずなのに、家族で仲良さそうな写真とか
見せられて傷ついた」
「恋愛にはほとほと疲れているのに そのことは知っているはずなのに
占いのことをみんなに言って 一緒に募集中みたいに言われてしんどかった」

 ということを言ってくれたのでした。 ねぇ。あの。
もうわたしの 想像力と思いやりがない 以外のなにものでもなく。

 もちろん わたしは家族仲がいいことはないし でも
いまのたのしい生活みたいなのがあって 
ようやくここまではできるようになった という背景などもある
けど それは彼女にあまり話していないことだし
それぞれの家のこと というようにはならないことだったのだろう。

 募集中 の話については、彼女も合コンの話などを受けていたし
というところがあって考えなしに言っていたけど、いま思えば
元カレについてどうなんだろう ということをうすらぼんやり感じていて
その直観みたいなのをもっと丁寧に扱うべきだった ということで。

 彼女のほうも「うずちゃんならあまり言わなくてもわかってくれる
と思ってて、そんな期待があったからじぶんも悪いんだけど」みたいに
言っていたけれど でもそんな期待をさせたのはきっとわたしだし
どちらにせよ 思っていたのと違う が限度を越してしまい
態度を変えざるをえなかったのだろうし、
指摘せずにはいられなかったのだろうし、
その根本に わたしの想像力と思いやりが足りない という
歴然とした ひととしてどうかとおもう と彼女が思ったであろう部分があり
きっと彼女は わたしを責めている 怒っている のではなく
わたしを見切ったけどもうこれ以上この部分で傷つけないで
という発信をしてきた ということなのだろう と思った。

 期待を引き受けてそしてがっかりさせる という
今まで通りのパターンが生じた ということだ。

 ほんとうにこれは わたしが謙虚にあらねばということを
示してくれている出来事とおもう。 これから彼女も含め
みんなと作り上げていくことになる大きなステージもあるし
わたしにはきっと ただオープンにすることだけでなく
謙虚に立ち返ることが これから必要となるのだとおもう。

 彼女たちがわたしをそのまま受け入れてくれたことで
わたしはいまのわたしになったというのは まぎれもない事実だ。
その彼女に こんな思いをさせていた というのは悔しい。
わたしは 自由にしてていい と甘えすぎていたのだろう。きっと。
まわりのひとがどうであるか にあわせすぎるような
それに応じたじぶんであろう とはもう思わないけれど
わたしにはもっと 周囲への感謝とかそういったことが
必要だったのだと思う。そういうことを こんなかたちで
知ることになってしまった。

 思いやりがない 最低 と言われたわけではないけれど
過去にそう言われたときに 学びきれていなかった何かがあって
それがはっきり出てきたのだろう とおもう。

 わたしばかりが悪い と反省しすぎるのは違うとおもうけれど
わたしはほんとうの謙虚さを身につけていきたい 
想像力と思いやりを身につけていきたい とこころからおもった。

2015年1月7日水曜日

トラ

 わたしのあたらしい彼は ばななちゃんの『なんくるない』に
出てくる トラ みたいな感じだ。もちろん彼とトラとは違うけど
でも あの素直にまっすぐに来る感じはまさに小説のトラみたいだし
それをちゃんと受け止めてみよう とわたしが思えているのも
なんだかほんとうにあの小説に書いてあることみたいなのだ。 

 むかしあの小説をはじめて読んだとき ステキ と思ったけど
わたしの人生にこんなことは「絶対に」あり得ない ともおもった。
これは小説だから。世の中のなにかのエッセンスを
煮詰めてひろいあげて象徴化した お話 だから と。
それなのに。起きてしまった。めのまえで。

 わたしにとって トクベツなおはなしとして
これからも残るのだとおもう。 わたしがわたしの感じを
ひらいてここに在るようになったら ちゃんと見てくれるひとと
出会うものなんだなぁ なんて。 まだはやいかもだけど。
とか 言う必要もほんとはないんだとおもう。
わたしが感じているいまのこの感じをちゃんと味わおう。
それだけ。それが彼にもじぶんにも誠実であることなのだろう
とおもう。

2015年1月3日土曜日

あけまして2015ねん

 あけましておめでとうございます。
じっさいなんかめでたいです。浮かれてます。
けど、なんていうのか ほんの2週間まえまでは
まったくの知らないひとであったところのひとと
これからいろいろ知り合っていきましょう と
約束した関係にあるということが
ちょっと不思議で まだたまに あれなんだろうこれ
みたいにおもうことがある、その感じすらたのしい。

 でも全然知らないひとだったはずなのに
緊張しなきゃならないようなところや
いいとこ見せねば というふうに思う瞬間がなく
ただ恋のはじまりの 勢いみたいなものだけが感じられて
ちょっとくすぐったい感じで うれしくなる。

 最初は手探りで このひとは何のつもりで?
とか 実際のところはどうなの? と
思わないわけではなかったけれど
その不安のようなものを すこしずつ解消するようなことを
たぶん そうとは思わずにしてくれているのが
とてもうれしかった。

 こんなふうにはじまることもあるんだなぁ
というのが正直な感想で それは 予感があるとかじゃなくて
ただほんとうに そのとき がきてはじまるんだなぁ
といまは感じている。

 まぁいうても10日あちこちですからね。
これから重ねていくものがあるんだな ということが
たのしみ。いまがいまになって ほんとうによかった。
そして このいまのわたしを みつけてくれてありがとう。


 で。このたびはこういうひとができて
いまから仲良くなっていくところです ということを
両親に思いきって話してみたところ
はじめてよろこんでくれた。両親とも。 
まぁ母はちょっとだけ 無理をしていたとおもうけれど。
でも わたしがたのしくいられるひとならいい と
父が言ってくれて よかったじゃない という感じで言ってくれて
わたしはやっぱり 親に認めてもらいたいんだな と思ったのだった。
わたしがどう感じているか がもちろんいちばんだけれど
やっぱり認めてもらえるとうれしい。
なにより この関係を 安心して育てていこう
と思えるのが ほんとうにうれしかった。


 そんな2015ねん。 この関係も だいすきなフラも 仕事も
わたし自身の成長も ぜんぶぜんぶ ここはそれこそ貪欲にがんばろう
とおもう。 ありがとうかみさま(のようなもの)。