2013年2月27日水曜日

いまだからわかること

 10代とか20代とか さらに30代の前半くらいまで
わたしのからだとアタマとこころはぜんぶバラバラだった
ということは何度かここにも書いたし
あの頃のことを思い出すと わたしがいま
こうしてとりあえずひどい病気にかかることもなく
仕事をして 食べたり飲んだり 走ったり踊ったり
トモダチと関係を続けたり 買い物したり などなど
ともかく 現実 と言われる この世にそれなりにとどまって
暮らしていることが ほとんど奇跡のような気がしたりする。

 ちびっこのわたしを占い師にみてもらった母が
この子は色情で身を滅ぼす と宣告されてから
おそらく35年くらいの年月が経った。

 その宣告は ほとんど呪いみたいにわたしに巣喰っていたし
30代前半までのわたしは そこに持っていかれそうになっていた
とおもう。ほんとうにぎりぎりだった。ぎりぎりだった と
わたしは思っているけど 外から見えるわたしは
そういうことからものすごく遠い そういうものとかけ離れた人物
のように見えたのではないか とおもう。

 色気 とか おんならしさ とか そういうものを
わたしはうまくじぶんの中に置くことができなかった。
女性としてのからだ や 感覚 みたいなものを
どうしたらいいのかわからず とにかく呪いにおびえて
その結果 解離 という方法をわたしは編み出した。
正確にはちょっと違うけれど とにかくあれは 解離 といっていい
そういう方法だったとおもう。

 
 身を滅ぼさずにすんだのは 運がよかったから としか
言いようがない。 とおもう。ちょっと時代が違ったら
わたしはカンタンに 殺されたり 殺したりするような
そういうところに陥っていたとおもう。


 そのくらいのことだったのだ ということを
最近おもうようになった。 たぶんいままでは
恐ろしすぎて そのあたりをぼんやりさせていたのだとおもう。
色情で身を滅ぼす というその呪いとともにあったから
ぎりぎりのところにいた とは思わないようにしていたのだろう。


**********

 わたしはとても弱くて なので たとえば
本格的にじぶんを責めて 精神をおかしくするほどのこともできず
呪いを言い訳にして そして わたしの弱いところをすべて
解離させて そちらがわでなんとかすることで
なんでもないふりをしてきたのだ。 じぶんのものとして
わたしはじぶんの恐れや 不安や ダメなところや
そういうものを抱えられなかったのだとおもう。

 その結果が 30代前半までの いろんなことをバラバラにした
いわば 色情で身を滅ぼす という呪いに
自らを投げ入れるというような そういう生き方となったのだ。

**********

 
 これらもすべて わたしがわたしとして生きてゆくには
通らねばならぬ道だったのだろう とはおもう。
けれど いま ようやくここにきたからだとおもうけれど
あの頃の ぎりぎりのじぶんが怖くて怖くてしかたがない。
あんなことしてたとかほんとうにどうかしてたとおもう。
あの頃の何か あの頃の報い みたいなものが
どこまでも追ってきてしまうのではないか と
ふと 思ってしまうこともある。

 けれど そこも含めて抱えて生きていくのだこれから。

 このことを抱える人生は もうわたしが生まれたときから
もしかすると生まれるまえから決まっていて
なのでどうあがいてもどうしようもないものなのだとおもう。

 じぶんが抱えているものを じぶんのすべてを
いま の ここ に生きているわたし で経験してやっていく。
そういうやり方への転換点は やっぱりここ3年のお祭りだった。
お祭りのことと そのあとしまつから はじめてわたしは
なんとか解離しないで じぶんの中に起きたことの作業を
おこなうことができるようになったのだもの。

 いまはいまで あの頃じゃないことを
何度も言い聞かせようとおもう。 もう呪いのなかにわたしがいない
ということを 何度でも。

***********

追記: 呪いがどうこう ということ関係なく
    きっとわたしの みずからを抱える という能力は
    おそらくとても弱くて わたしのこれまでの人生は
    そのことを認め みずからにほんとうに落とし込み
    そしてすこしでも抱えるちからをつけてゆくように
    というミッションでうめつくされていたのだとおもう。
    だからこそ わたしは 抱える という技術を
    とてもひつようとする職に就いたのかもしれない。 
    わたしはこの仕事を通してもまた 抱える ということの意味を
    学んでいっているのだろう とおもう。
    そして そのやりかたがすべてやはり 中途半端 という
    キーワードでいろどられていることはまぎれもない事実だ。
    わたしは ゆるく解離し その一部始終を実はしっかりと
    意識のほうでもながめ 生活を壊さない程度の そういうやり方で
    これまでやってきたのだとおもう。
    この中途半端さと わたしの抱えられなさと しかし
    だからこそ ちょっと出ているとおもわれる鷹揚さ みたいなもの
    そこだけがわたしが誰かをひきつけてきたのかもしれない。
    中途半端さ というのはこれからもわたしのキーワードで
    天真爛漫さ みたいなものとともに わたしがわたしとして在る
    その過程にずっと絡んでいくとおもう。
    これからも わたしに引きつけられ そして 強烈に拒否感をおぼえる
    というひとがあらわれるだろう とおもう。
    それでもわたしは わたしで在るために そのことをしっかり
    受け止めていきたい とおもう。



 

2013年2月24日日曜日

おぼえがきとして

自覚しとくこと

・触媒体質
  これは仕事上もある程度必要だったり
  役に立ったりしている部分だし ともかく自覚すること
  どこまでがどうなのか ということを。

・天真爛漫さ
  母からのギフトだと思おう。わたしのたぶん根っこだ。
  ここに劣等感がすごい勢いでブレンドされていたのが
  これまでのわたしだった。

・じぶん自身であること だけ考える
  説明不要

・解放
  手放すこと ですね。いろんなものを。さぁみんな
  ここから離れていくといいよ。 ていうか わたしが自ら
  能動的に解き放っていくことです。


 
   てことで。 あと実はきのう 電話があった。
   まぁ なんか 勘違いだかなんだか ごめんなんでもない
   て言われてなにも話してないんだけど。 そして
   その後じぶんで思ってたよりずっと動揺したことに気付いたので
   踊った。 そうしたら 落ち着く方向にわたしが動いた。
   すばらしい。わたしに踊ることを俄然すすめてくれたあなた、
   ほんとうにありがとう。 フラがあってよかった。

2013年2月23日土曜日

あのころは

 Twitterしてたころ のことをたまに思い出す。
そこで仲良くなったひとからたまに連絡もらったりしてとかもあるけど
まぁそうじゃなくてもたまに。なぜならわたしにとって
ものすごく濃い場所だったとおもうから。

 しかし 丁寧につくりあげたはずの場所を
わたしはおのれの取り扱いがまだまだへたくそすぎたせいで
アクティングアウトをしでかしたりして ぶっ壊した とおもう。

 最終的に 書くことがなくなって あぁもうここは要らない
と思ったわけだけど 要るとか要らないとか そういうなんだか
重苦しい感じの使い方をしてしまっていた とも言えるわけで。

 まぁ 振り返ったところで あのときだから わたしとTwitterは
ものすごくフィットしたのだし あのような人間関係を作り上げたり
壊したり になったのだけれども。 



 というのも さっきひさしぶりに 仲良しのTwitterをかいまみた
(余談だが わたしにとって かいまみる というのは 
垣間見る で かいまみる なんだよね ってアタマの中で思うときが
いちばんすきなことばだ)のだ。彼女はとても上手にTwitterを使っているし
しかも彼女はたったあれだけの発言で しっかり彼女だし
すごいなぁ とおもう。わたしが関係をぶっ壊してしまったひとたちとも
ちゃんとつながってるし。

 それを見ていて ほんと わたしはTwitterでいったい何をやってたんだろう
と思ったのよ このたびはさすがに。

 時がきて わたしがあそこにいる時期が過ぎた ということだけが
確実なことなんだけれども なんだかそのスパンが思ってたよりも
たぶん短くて わたしはそのことにすこし戸惑っているのかもしれない
とおもう。でも お祭りだったんだもんね。 
わたしはいったいあそこで何をしていたんだろう(再)。

 でも どうしたってわたしはもう ここにいるのだ。

 ほんと 言ってることがバカだわ。
珈琲を飲んだりしようね。そうしようそうしよう。

 いろいろいろいろ考えたところで 当時起きた いいことも
わるいことも その後のさまざまな展開も すべて おのれの人間力のレベル
に相当したことが起きているだけなのですよね。

 わー っと寄ってこられて 思ったのと違う! とか 見かけ倒し!
とか思われて わー っと去っていかれる ような事態ばっかりが起きている
と思い込んでいたけど それもすべて おのれが持つ そういう恐れが
呼び起こすこと。そうだったらどうしよう って。わたしはどうしたってわたしなのに。
わたしにしかなれないのにねぇ。 だから 寄ってくるとかそういうのも
去られたらこわいから わかったふり団子 みたいなえさを蒔いてただけなんだよ。
それにつられて寄ってくるひと というのがいて それに対して 
わかったふり団子 を作り続けようしてもできなくて 
こんな程度の団子作るひとにはこのくらいのことしてやっても大丈夫だよね 
とか もうないなら要らない とか 思ったようないい団子じゃない
とか思われちゃうことが多いだけなんだよね。
 あーこわい。 Twitterごときでもそんなことやってたなんて
笑っちゃうわよね、そこの奥さん。 もうそんなださいこととか
(結果的に)短いスパンでの人間関係を呼び寄せる何か とか もうほんと やだ。

 わたしにはつらくあたっても わたしのたいせつなトモダチにはそんなことがない
というひとたちがいるけど そのひとたちは わたしのこの恐れ みたいなのに
ものすごいひっかかっちゃったんだろうとおもう。 わたしが最初から
こんな恐れを持たないわたしだったら こんなことにはなってなかっただろう。
ま でもそれすらも そのひとたちとは あのときに会う という運命だったのだ。

 ただただ 悲しい。 もうおなじようなことはほんとうに繰り返さない。






昼酒のたのしみ

 そう。 昼酒をたしなむ昼下がり なんである。

 きょうは土曜日で 午前中はフラのレッスンに行って
検定受けて おまけ ということで7級に合格させてもらって
でも レッスンのとき GWのステージでわたしは踊らないけど
きょういたほかの人たちが踊ることになってる Po La'ilai なる曲を
踊った際に せんせいに 「あら うずちゃん これ踊れそうね。
これも出ましょう」 かなんか言ってもらってですね
ほんとのところはどうなるかわからないけど ちゃんと練習してるよ
っていうのを認めていただいた感じがして もんのすごくうれしかったのです。
わぁなんて一文が長いんでしょう。 ともかく
GWの初ステージはもしかしたら2曲踊るかも っていう。
どうなるかわからないけど ともかく がんばろう と思えたの。

 で 悔しさ半分 気分のよさ半分 で帰ってきたので
そのついでに走りにいって 7kmほどたたたたと走り
帰って湯につかり そして アンチョビを用いた
ペペロンチーノ的なスパゲティを作成し それをアテに
昨晩の残りのワインをいただいる と こういうわけなんであります。
うふふ。

 夜のお酒も もちろんおいしいし ひとりでもたのしいきぶん を
それなりには味わえるんだけど どうしても最終的に
かなしいこころもちになりがちなのですね。 夜ってセンチメンタル。
だって夜は暗いのだし。

 それが 昼はどうでしょう。
ふつう世の中では まぁそんな昼に酒なんて とか
眉をひそめられちゃう感じの そういう時間帯。
その時間に 眉をひそめられつつ飲む酒って
どうしてこんなにおいしいんでしょうね。 すごいですね。
背徳感はひとをハイにしますね。 韻を踏んだわけではなく。

 しかも明るい。曇ってたって明るい。 その明るさが
わたしがずぶずぶになるのを防いでくれたりしてですね
昼酒による酔いは かなしいこころもちから
わたしを遠ざけておいてくれるんですよ。すばらしいですね。

 そんなこんなで きょうのお酒はおいしいです。


 いろいろなことがあっても ひとはちゃんと
薄皮をはぐように ではあっても 着実にじぶん自身を生きる
という方向にすすむことができるものだ とおもう。
ずっとまえから昼酒はおいしかったしたのしかったけど
きょういまこのとき こんなふうなこころもちでおいしくたのしく
昼酒をたしなめるようになったよ。

 

 

2013年2月20日水曜日

こわかったこと


 ほんとうに信頼できる とおもうトモダチや
味方になってくれるひとや そこまでいかなくても
たとえば Facebookなんかでつながれば 会おうよ
って言ってくれるようなひととか 何かの折には
集まったりできる学生時代のサークルの仲間がいたりするけど
すきになって いわゆる きちんとしたおつきあいをしたひとたち
に ことごとく 最終的に嫌われたり どーでもいい と
思われたりするに至ることにしかなってこなかった ということは
わたしがほんとうは とてもつまらなく 価値のないにんげんだから
なのではないか と どこかでやっぱり
ずっと思っていたとおもう。

 信頼できる いつも(心的に)そばにいてくれるトモダチも
それはもしかすると わたしの ほんとうのところ を
知らないからであって 過去の恋愛において 最終的に
嫌われたり どーでもいい と思われてしまったわたし
のほうが ほんとうのわたし なのではないか
というように。 おそらく そのとらわれ自体が わたしをどんどん
さらに ダメなじぶん に固めてきたのかもしれない とおもう。


 かつてTwitterをしていたころ 
「かわいそうなわたし ダメなわたし という王国は 
 作るのがカンタンすぎて もはやなんにもおもしろくない」
みたいなことをツイートしたおぼえがある。

 だが わたしはそうツイートしながらも
その頃 ちょっと油断すると すぐにその王国に
閉じこもりそうになってしまうので ほんとうに必死だったのだ。

 そして その王国は いまでもそこそこ 近いところにある
とおもう。 もうあの頃のように その王国が高い高い城壁を築きつつ
すばやくわたしを閉じ込めてしまいそうになることは ない
とおもうけれど どうかすると すぐに じぶんのダメさ に
フォーカスしそうになることは 否めない事実なのだった。


 もうかつてのつらくて悲しい土地に わたしはいない。
ここはあたらしい場所だ と知っている。

 それでも長過ぎた悪夢は わたしを
ほんとうはとんでもなく無価値なじぶん という
暗いところに誘おうとすることがある。
ひかりや明るさを感じられることが
増えているにもかかわらず。

 しかしいまや わたしは暗いところや闇ばかりをみつけて
こわがることで安心する というやり方をよしとしない。
そのやり方がわたしを蝕んできたことを
この1年 しにものぐるいで思い知ったのだから。

 もう こわがらないで暮らしていこう とおもう。

 

 

 



 

2013年2月19日火曜日

すきなひと

 なんと「もしもし下北沢」を続けて3回も
繰り返し読んでしまった。

 本は同じのを繰り返ししつこく読むタイプ、ではある
(ゲド戦記とか何回読んだか知れない)けど
間髪入れず、な感じで3回も読んだのははじめてかもしれない。
スウィート・ヒアアフター のときだって2回だったのに。

 とくに号泣する などの場面もなく まえにここに書いたように
ちょっと甘い気持ちで読む そういうなんていうのか
わたしにとっては 別れ ということと 暮らし ということについて
の 何かを感じることができる本だった。まだうまいこと言えないから
書かないけど。 あ。いままでも散々いろんなこと書いてるけども
別にうまいこと言えたためしないんだった。てへ。


 で。 そういうのを読んでて
主人公の わたしと似たなまえの彼女が
なんとかかんとか 生活を営むことができるようになったくらいの 
ものすごいぎりぎりのエネルギー感のなかで
生きているのにもかかわらず( だからこそ かもしれないけど) 
じぶんのなかに起こる ちょっとした感覚とか 感情とか 
そういったことごとを 無視することなく 彼女なりの判断をして恋愛をしたり
しなかったりしている様子から わたしはいろいろ
学びたいとおもったのかもしれない などと思った。

 わたしはおそらく 誰がどう見ても惚れっぽいし
おかげで(?)よく 「なんで?」 といわれるひとに恋をしてきた。
特におつきあいすることになる相手については。アレですね。
じぶんに自信がなかったばかりに じぶんに興味を持ってくれた男子に
とびついてしまってきたのですね。

 これまで 片思いだった場合は ほぼ100%なかんじで 
わたくしの恋心が撃沈したあとも友情を保ち、というか 
相手方からの絶大なる友情を得る くらいのことがあるふうのことになり、
でも 実際おつきあいしたひと となると
ほぼ100%な感じで だいっきらい うっとおしい
どっかいってほしい のうちどれかを思われる事態となってきたあたりは
もうどう考えても何かがどこか間違っていたわけで
特に おつきあいする相手 から こいつ超キライ
と思われるに至るほどになったうえに 周囲からは
「ねぇ 今だから聞くけど 一体彼の何がすきだったの?」
などという とても残念な質問をなげかけられる始末なことには
わたくしのこれまでの ダメさ のすべてが詰まっているような
そういう気すらするのである。 


 何が言いたいかというと わたしはもっと 
ほんとうの意味で わたしが感じること を
恋愛においてたいせつにしなければならないよ という
ごくごく 当たり前のことなのだった。 そこを怠ってしまってきたから
わたしは残念な結末の 発展的関係解消 とはとても言えない、
実際そう言われたわけじゃないけど 相手の言いたいことをまとめると
おまえのことうざくてしょうがなくなったから別れて ていう
そういう事態を作ってしまってきたのだろう。

 それぞれが 無駄だった わけではなくて
それぞれに 学び や 得たもの があるけど(そしてそれは
だいたいが 同性のトモダチとの友情に関するものだった)
でももう しなくてもいい失恋 はあんまりしたくない。
どうせするなら ただただ一方的に何かを宣言したりされたりするような
そういうのではない失恋がいい。

 これからも傷つくこととかあるんだろうけど
そんなのあたりまえなんだけど 同じことはもう繰り返さなくてもいいだろ
ということだ。 


 ばななちゃんの小説を繰り返し読んで わたしが感じ入ったのは
おそらく 主人公の彼女が おのれの思いだけは決して欺かないでいよう
とした その態度だったのだろう とおもう。 そこがとても
真摯ですばらしい と思ったのだ。 それが 恋のはじまり という 
わたしにとっては 勢いや 自信のなさで流されがちな部分であったから
なおさら。






 わたしはいま ほんとうにひさしぶりに もしかしたら
ものごころついてはじめてじゃね? とおもうのだけれど
すきなひと がいない。 惚れっぽいわたしには つねに
すきなひと がいたのだこれまで。 おつきあいが終わっても
別れたひとのことを 次のひとができるまでは 
ずっとすきだったりとかもしたものだ。

 でも。はじめて そういうひとがいない。 バカでしょ。こんな四十路。
でもほんとに いまがはじめて で、 なので
これからはきっと 次からはきっと これまでと違った感じに
はじめてゆけるのだろう とおもう。 そういうことにしている。
恋をしてなくても人生はたのしいし 恋(もしくは異性との
ながくつづくおつきあい。結婚ということも含めて)はしたいけど
それはほんとうに しかるべきときにやってくるものなのですよね。
それがわたしの人生に 必要なことであるならば。


 

 

 

 



2013年2月17日日曜日

続・ほんを読んで

 まだまだ読んでいる。
先日の、「もしもし下北沢」からまたばなな祭りで
でも このたびは小説ではないものを入手して読んでいるのだ。

 ひとつは ウィリアム・レーネンさんとかいう わたしは
はじめて知ったんだけども どうやらものすごくゆうめいな
サイキックチャネラーだとかいうおじさんとばななちゃんの
交換メール みたいなのをまとめた本(「人生を創る」ダイヤモンド社)で
もうひとつは きたやまおさむせんせの講義とあとそれに関しての
ばななちゃんとの対談をまとめた本(「幻滅と別れ話だけで終わらない
ライフストーリーの紡ぎ方」朝日出版社)で
両方きょうあまぞんやさんから届いたのだった。

 で。レーネンさんとの対談のほうは まぁほら
相手がレーネンさんていうスピリチュアル全開のひとなので
使われる用語っていうか 話の展開のしかた のようなものについて
わたしはやはり どこかで用心しながら読んでしまったわけだけれど
なにがよかったかというと あぁみんなおなじにんげんだな
ということと あといろいろ言ってて いい とか わるい
とかじゃないんだけれど なんていうことを話しつつも
やっぱりどこか じぶんを傷つけたり じぶんとは違うひとたちに対しては
ちょっと意地悪になるもんなんだな みたいなことが感じられたことで
あ。 おなじにんげんだ てのの中身にしかなってないわー。まぁいいか。

 偶然とかなくて 起こるべくしてことは起きてる と言っていたけど
わたしは実は そこまで達観していない というか
だいたいのことはそうなのだ と後から振り返ることができるんだけど、
乗り越えられることしか起きない というけど やっぱりそうじゃないことも
あるんじゃないのか、特に じぶん以外の人々に対して
 乗り越える ことを強要するような
そういうふうな立ち位置にわたしはいたくない と思っているのだな
とか そんなことを思いました。 乗り越えられない何か を
ずっと一緒にやる みたいなね そういうのもあるんじゃないか とか。
でも 起こったこと は それは ただの経験なのだ という
その考え方は実に沁みます。 そうなのだとおもう。 
それをどう己が体験するのか というただそのことだけが
意味っていうか なんかそういうものになっていくのよね。

 全然うまいこと言えてないけど。

 あと ばななちゃんのことは わたしはいままで
せいぜい一度か二度なんだけど エッセイをちらっと読んで 
なんかトモダチになれなさそう みたいな気持ちになっていたの。 
小説はすばらしいけど その出所のいろいろ とか 舞台裏 のようなもの 
は あんまり見たくなかったんだろう。

 いまでもまだ エッセイを積極的に読みたい と思わないのだけれど
このたび 対談 のかたちで 小説の出所であるところの彼女 を
垣間見ることになったところ そこまで イヤ ではなかったので
あぁちょうどいいときに読んだな と思ったのだった。

 レーネンさんとのメールのほうは たぶん ばななちゃんは
ぜんぶを ばん と晒してて (絶妙なバランスで)甘えてる というか
そんな感じがして その にんげんくささ みたいなところに
むかし感じたのとは違う親しみを感じた。 まぁやっぱり
あんまり仲良くならないかも みたいには思っちゃったけれど。

 きたやませんせとの対談のほうは まだ全部読み終わってないんだけども
(読んでから書け という話もあるがまぁよいではないか)
ちょっと服着てるっていうのか そういう感じの。 晒してる
までいかずに話してる感じがして その差みたいなのがおもしろい。
きたやませんせのつかうことばや土台にしているもの が
わたしに通じやすいものだ というのもあるかもしれないけど
レーネンさんとのやりとりよりは用心せずに読めているのも
わたしにはちょっと ラクなのかもしれない。

 でもともかく どっちも 言ってること というか
世界をどうみているか という話であることには変わりなく、
どういう文脈とことばを使って話すか ということで
こういう差が出るのだな というようなことを思った。
話していることの核心は同じであっても、その伝わりやすさや
受ける感じにはずいぶんと違いが出るものだ。

 わたしもきっと 話す相手とか雰囲気によって
文脈やことばを知らないうちに変えて話しているのだろう。
そういう いろんなチャンネルやモードがあって
そのうちの どのあたりを好むか というのか
どのあたりのチャンネルやモードで話すときに
いちばんじぶんがくつろげているか ということを
ちょっと知っておいたほうがいいなぁ とか
そんなことを思った。

 スピリチュアルなこと とくくられることには
いろいろと 誤解とか 期待とか 欲望とか そういうものが
くっついてきがちで なので 提示するのも 受け取るのも
すこし難しいことがある とおもう。

 スピリチュアルと呼ばれる部分を わたしはこれまで
じぶんの仕事の世界での文脈とことばを使って理解したり
近づこうとしてきていて そっちから説明すると俄然よくわかる
ような気がするし、それはわたし自身をこの世界につなぎとめる
楔のようなものでもある とおもう。

 そういうものがある(在る) ことには変わりないのだけれど
それをわたしが スピリチュアル といわれるひとたちがつかう
文脈やことばをそのままつかってそこに入ろうとしたとたんに
わたしは この世に生きる この世に在るわたし という
いちばん見失ってはいけないものを見失ってしまいそうになる気がする。

 同じことなんだけどね。 ばななちゃんが レーネンさんとのときは
甘えてる感じがする というのの その うまい具合の甘え みたいなのが
わたしはもっと とんでもない強さのものになりそうで
なので わたしはこれからも わたしの文脈とことばで
これらのことを語ろう と思ったのだった。




 てことで きのうトモダチとうちでワインを2本(ひとり1本)
あけてしまったので どう考えてもまだ酔ってる が
午後まで続いてしまって 走るのをあきらめた日曜日でした。
このあとは フラのれんしゅうを1時間することで
運動にかえさせていただきたい と こう思います。

 
 
 

2013年2月14日木曜日

ほんを読んで

 「もしもし下北沢」というばななちゃんの小説を読んだ。

 すこし前までだったら ちょっと読めない話だった
とおもう。 というのも 舞台が下北沢 というか
茶沢通り で そこは かつて付き合っていたひとと
よく歩いた通りだったからだ。 茶 ていうほうの近くに
彼の家があったんだ。 小説に出てきた 
キャロットタワーの裏にあるカフェ ていうのは 
あのカフェのことかな とか いちいちわかっちゃうような。

 さらに 小説のなかで 亡くなったお父さんの設定が
バンドマン だったりとかして あーもー ねぇ ていう。
お正月のいろいろ の彼の現職業はバンドマンだし。

 もっといえば主人公のあだ名がわたくしにもありうるあだ名で
ちょっとー みたいな。 まぁ設定年齢はおそらく
ひとまわり以上 違っていたのだけれど。

 と いうように なんだか読んでて いたたたた
てなりそうな そういう設定満載の小説 だったのだけれど
でも どちらかといえば 甘い気持ちで わたしはこの小説を
読むことができた。 そういうじぶんに驚きもしたのだ。


 下北沢や三軒茶屋については もちろんいまでも
積極的にその土地に行きたいほどではないけれど
なんていうのか 別れた彼と うまくいっていた頃の
そういう ちょっと きゅ ってするような
いい思い出による甘い痛み みたいなもののほうが出てきたりして
わたしは あ と思った。

 もうほんとうに過去になったんだな。

 すこし前だったらきっと いい思い出 は そこに戻りたい
とおもう凶暴な痛みになってわたしをぐしぐしと刺しただろう。
でももう そういうことにはならなかった。

 別れた彼とのおつきあいは どうしたって長くは続かなかった
といまはおもうけど なんていうのか あのまちで
彼が一生懸命 わたしをおいしいお店に連れていってくれたり
彼がいとなむ暮らし のようなものを見せてくれたりとかして 
なんだかとても かわいらしいものだったな とおもう。

 別れてすぐの頃は ほんとうにただの強がりで
そういうかわいらしいおつきあいができてよかったのだ
と 思おうとしていたものだったけれど
そんなことより 腹立たしさとか じぶんへの無力感のほうが
どんどん押し寄せてきて どうにもならなかった。

 が いまは こころから あのおつきあいの中にもあった
かわいらしいところ を よかったなぁ とおもえる。

 もう二度とないけど あれはわたしにとっても
きっと 彼にとってもそれなりに いい時間だったんじゃないかな。


 とか かわいらしいことを本気で思えるだなんて
ほんとうに 時間が経つというのはすごいですね。 








 バンドマンの彼のことは まだそこまでいかないけど
でもそのうち おなじように かわいらしい思い出になるのだろう。
いや。 かわいらしい ではないな。 
「いいでしょ(もんのすごく)若い男子といろいろあって」 ていう
過去の武勇伝 みたいな そういう 自慢の思い出 になるのだろう。
と いうことがわかっているから 完全にそういうものになるまでは
腹が立ったり 悲しかったりしても あせらなくていいのだ。

 ええ。一生自慢してやりますとも! この歳で15下と、て!


 えーと。途中から 本の内容 とはまったく関係ないことに
はなしがすすみましたけど それもまたよし。(©コイソモレ先生)




 

2013年2月13日水曜日

ちょっと思ったこと箇条書き

・もっと鷹揚にかまえておけばいいこと は
 たくさんあって でも どこか焦ってしまうのが抜けなくて
 そういうときには ほらほら急いでもしょうがないじゃない
 ていう そういうメッセージをわたしに伝えたいのだな
 ということが そこかしこにあらわれる。
 相手のあることは特に。 わたしはこれまで
 どれだけのことを 思い通りにしたい と考えてしまっていたのだろう。

・きのう会った後輩に ある種の ほんとうのこと を 
 びしびし 遠慮なく 言ってしまった。 
 そこにわたしの愛はあったか? ・・・ちょっとばかり疑問だ。 
 ごめん。
 たぶん じぶんのなかにも 少しはある要素を
 あなたのなかにわたしは見てしまって そのことが
 とてもじゃないけど見てられなかったんだとおもう。
 わたしはあのとき 本気で イラッ としていました。

・そのときに同席していた別の後輩について
 あぁこのひと ほんとうはとても優しくて
 しなやかなひとなんだな と気付いたときの驚き。
 わたしは彼女と付き合ってゆくことは絶対にないな と
 学生時代思っていたけれど それは 表に出ている何か
 ばかりを見ていたからかもしれない と思った。
 親しくなれるかどうか はともかく 
 思いも寄らぬ そのひとの輝き というか
 こちらが学ぶべき姿勢 をみつけて はっ とした。

・これまでつきあってきた男子について ダメだなー と思う感じと
 じぶん自身の ダメさ に気付いて 精進している感じ
 とのバランスを これからもきちんと保ちたい と思っている。
 すべてが相手のせいとか すべてがじぶんのせい なんていう
 都合のいいことはない。 けど どっちも悪くない みたいな
 そういうぬるいことでもない。 その微妙な感じ そのぬるっとした
 そういう感じをわたしは忘れないで暮らしたい。

・秋に提出したとあるものへのコメントが届いて、
 そこに わたしにとっては 最上級の褒めことば 
 といっていいようなことが書いてあって
 すこしばかりうかれました。 うかれたのと同時に
 ますますこれは気を引き締めないと ともおもいました。
 それだけ覚悟がいる作業をしている ということを
 あらためて確認したのです。ありがとうございます。

2013年2月11日月曜日

トモダチとの日々

 新月 で 旧正月 というあたらしいはじまり感満載のときに
だいすきなトモダチが訪ねてきてくれて ともに過ごした。

 去年いちねんかんの わたしなりにがんばったことへの
ご褒美かのような そういう時間だったとおもう。
わたしはわたしでいいのだ。いままでもこれからも。


 トモダチとは 去年の夏 ハワイに一緒に行って
そこでわたしたちは わたしたちそれぞれにとって
転機となる時を過ごし それ以来の会合だった。

 ハワイのときにも 1週間近く一緒にいるというのに
じぶんがすこしでも無理をするようなところがひとつもなく
とても気楽に過ごせて(しかも彼女もおなじように感じてくれていて)
 すばらしいことだなぁ と思ったのだけれど
このたびもまた そのことをお互いに実感したのだった。
2晩を彼女はうちで過ごしたのだけれど わたしたちは
両日とも23時には床に就き 朝は7時半くらいまでぐっすり眠ったのだ。
ひとがきている という緊張感やハイになる感じがなく
いつもと同じか それ以上に すっ と眠りにつくことができた。

 こんなにすばらしく気の合うトモダチと
わたしは出会って しかるべきときに関係を深め
いまの時間を過ごすことができているので
人生を信じることができる。

 
 彼女にもわたしにも それぞれの課題とこれから
があって それにどのように取り組んできたか とか
いまどう取り組んでいるか とか そういう話をたくさんした。

 わたしたちはこうして これからもたまに会ったり
旅行に行ったりしては おいしいものを食べたり飲んだりしながら
こういう話をして過ごすのだろうとおもう。



2013年2月7日木曜日

引き寄せてきたこと

 ところで。

 これまでわたしと関係があった(つきあったりなんだり)
男子のみなさんに共通して言えることは何かな と思うと
それは すくなくともわたしとつきあっているあいだは
いろんなことを わたしのせい にして 
ものごとを ぴしっ と決められないひとたち だったな 
ということが言えるとおもう。

 と書くとアレですけど 要するに わたしが
男子をそうさせてきた のだろうとおもう。

 ひとりだけ すべて俺がわるい と言った人もいたけど
そのひとからは わたしはまったく 関係ない と
思われていただけだし ちょっと違う。 まぁそのひとも
わたしの感じ に甘えて そんなに好きでもないわたしと
長く一緒にいたのだから よほどのことになるまで決められないでいた
という点ではおなじか。


 いちばんわかりやすいのは元ダンナの例だ。
 そもそもケッコンしたことについて
「僕はそこまでアタマがまわらない時期だったのに
どんどん勝手に話を押し進められた」と言われたし、
途中 彼がとある就職のための試験を受けるに至っては
何の相談もなく ものすごく遠い県のそれを受験するなど
わけのわからんことになってもめて、そのときには
「思ったようにさせてもらえない」とか言い出したりした。

 そんな彼も わたしと別れたら それまでの
遠い土地へ行きたいだのなんだの言ってたのがウソのように
すっ と いま住んでいる土地の試験に集中し、そしてちゃんと合格した。
それからずっときちんと働いている。

 この時点で あ、これはわたしがそうさせてた(決められなくても
いいようにさせてた、あるいは 決められないことをわたしのせいに
してもいいようにさせてた)んだなきっと とうすうすは
気付いていたのだけれど どうすることもできず というか
なぜそうなるのかまったくわからなくて
わたしの感じ はその後もながらく消えていなかった。
つい最近まで 消えていなかった。


 一昨年別れたひとにしても わたしが何にもわかってくれてない
だのなんだの じぶんのことを棚にあげて言い募ってるなこのひと、
と思ったりしたが それは わたしがそうさせたんだとおもう。
そのあとの 正月のことにしても 半分以上 
わたしの在り方 がその事態を引き起こしたのだとおもう。

 そういう事態やそういうひとを わたしは引き寄せていたのだ。


 わかったふり ということをしてしまっていた 
と 前にも書いていたけれど そのこととかぶるだろう。
わたしは わかろうとすること に全力を傾けようとしていた
といってもいい。 しかしそのことが なんていうんだろう
わたしのエゴ みたいなものを存分に含んでいることに
これまでのわたしは 気付いていなかったのではないか とおもう。

 その結果 相手の 全部をひとのせいにしてゆだねたい
というきもちを 大きく引き出した というところは否めない。


 おそろしいですね。 
何人ものひとたちとのこんな苦しい関係を経ないと 
じぶんの在りようが わからないだなんて。 
わたしが立ってないから 立ってない相手を引き寄せたし 
おまえのせいで立てないんだけど
と平気で言い募る相手を引き寄せたのだなぁ とおもう。


 もういいかげん おなじことを繰り返さないわたしでありたい。





2013年2月6日水曜日

これは

 沁みた。 ものすごく。



 とくに「あなたの点数不足」というコメントが出てくるくだり。そう。これまでのすべては
 わたしの点数不足。 もちろん だから相手は悪くない とか バカじゃない とか
 そういうことでもないけどな。 と 身も蓋もないことを書き置いて がんばれ、おれ。

 

2013年2月5日火曜日

つらつらつらつら

 きょうもまた このようにしてブログの投稿画面にむかっている
とか 超うけるんですけどー と言いたくもなるものです。
もうそんなに書くことないよ と思っていたのですよ 本気で。
でも わたしにこういうツールを与えると 
こういうことになるのですね。 際限なく書く。 とにかく何か
記しておかずにいられないのねぇほんとうにねぇ。

 与えると というより あのときはまたこうして書き始める
いいタイミングだったのだろう。 そして ここはいまや
ほぼ わたしのためだけの場所で むかしブログをしていたときのような
誰かに向けて とか 誰かの反応を見たくて というような
そういう文章を綴ることもなく そうするとこうなるのか
ということも実感していて それもまたちょっとおもしろい。

 
 しばらく 夢をあまり見ない期間 だったのだけれど
先日の 前つきあっていたひととか両親とかが出てきた夢のあたりから
また 夢を見てるなぁ という感じになってきたようだ。
他人事みたいな書き方になっているのは まだそこまで
夢にフォーカスしていなくて ほとんど内容を覚えていないからだ。
けれど 夢を見ていたな という記憶が残るようになった。
もうすぐまた 夢見期間 に入るのかもしれない。


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 お正月のことや 年末から最近にかけて 
もういまはつきあわなくてもいいか と思ったひととのことを
ふと立ち止まって考えそうになることがあった。
このふたつのことは ちょっと結びついているので
つい 考えそうになるのだ。 くそみそに言われてんだろうなー とか。
もうそんなこと どうでもいいのに。 あの世界のなか に
じぶんを閉じ込めようとすると とんでもない痛手のようにおもう。
けれど じぶんはもう そこにはいないのだ と繰り返し気付く。
そうすると 痛みはあるけれど それが致命傷ではないとわかる。
というところに きた。

 お祭りのときに お祭りだからこそ出会ったひと とは
花火みたいな付き合いになってしまうものなのだなぁ。
でも 花火があったから それを見たからこそ なことが
いまたくさんあって だから やっぱり どうあっても
こうなっていたのだろうとおもう。  あぁだからこそ
じぶんのこころに一部シャッターがおりた感じになっているのは
やっぱりすこしさみしい。 わたしはどうしても
ぴしゃりとするのは苦手だ。 が だいぶもうわたしにしては
ぴしゃりとしたこのたびだ。


 と 書いている ので つまり 考えた わけですけど。


 とか書くあたりがわたしのうっとおしい性質ばりばり なのだけれど
ここはわたしのための場所だからかまわない。


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 きのう わたしはまたひとつ 解き放たれた と書いた。
わたしは目の前の課題をこなすだけなんだけど
これまでとらわれていた どうしようもない劣等感と
もうほんとうに手を切るときがきたのだな と。

 わたしには ひとりでやらなければならない課題があって
これから先 起こることは そのことへの 報酬とか罰とか
そういうものなのではなくて ともかく いまの課題でしかないのだ。
とおもう。 わたしはご褒美をほしがっていたんだとおもう。


 劣等感は ご褒美によって解消されるものではないことを
わたしはこれまで たくさん はなしあってきたのに。
そういうことを たくさん 感じてきたのに。

 
 さてさて。 書いていることが支離滅裂。
わたしにしかよくわからない話の流れになっていますが
まぁそういうことです。 



 週末は だいすきなトモダチが遊びにきます。
なんというステキなタイミングで。 世界はやっぱり
すばらしいものだ とおもう。



2013年2月4日月曜日

解き放たれてゆくこと

 まぁそもそも こんなふうに書いてたしかめる
という作業をしている時点で まだまだだなおれ
てな具合なんである。

 けれども こうしてブログを再開してから
の わたしのいろいろな気付きとか内的な変容とか
そういったものは とてもめまぐるしく
記しておかないと みたいなこころもちにさせられるのであって
こういうあたりも 見るひとが見たら 
ひとりで抱えられないダメなぶぶん になるのかもなぁ
などと思いながらも でもやっぱりいまのわたしは
記さずにはおれないのである。

 とかいう言い訳みたいなことからはじめてて
全然解き放たれていないわけですが。てへ。

 わたしはじぶんに対して
認めなければならないこと というか
あぁこれまで確実にそう考えてきていたな
ということがあります。

 それは お互いを必要としあえるパートナーに
一度も出会えていないひとは それなりの理由があって
それは そのひとがダメであるからだ と
いう考えを持っていた ということです。

 つまり わたしはじぶんを ダメな人間だ と
ずっとおもっていた(つい今の今まで) ということです。

 バカ。

 いや これを バカ とは言わないひともいるだろう と
わかっています。 そのとおりじゃん て。 でも。

 わたしにきちんと向き合えるパートナーができないのは
わたしがきちんとしていないからだ というのは
ある程度のところまでは その通りなのだけれど
じゃあ 世の中のきちんと向き合えるパートナーと
出会えたひとは みんなそのようにすばらしいひとで
その資格があるから そうなった ということなのだろうか
というと どうですか? そうなんでしょうか。
どうでしょう 出会っているみなさん。

 いや あの 出会ったパートナーときちんと向き合い
そしてみずからと向き合い関係を続けてゆく
ということは ものすごい努力と工夫が必要である と
わたしは(想像だけど)知っています(続けられたこと
ないから)。

 なので そういうパートナーと関係を続けているひと
出会っているひと は 出会いの機会をきちんとつかみ
そして 努力も続けているわけで すばらしい と
思います。 そして わたしは そうではないじぶん は
そういうひとたち とくらべて 劣っている と
思っていました。正直なところ。 てことはつまり
望みつつも彼氏ができない とか 彼女ができない 
という人に対しても おなじように思っていたところがある 
わけですね。それは否めません。ださいけど。傲慢だけど。

 けれど すばらしいにんげんのしるし として
パートナーが現れるわけでは ないのですよね。
そういうことではなくて ともかく
いまの人生の課題が何であるか ということによって
パートナーがあらわれたり あらわれなかったりするだけ
なのですよね。 がんばったご褒美 とかそういうものじゃない。
出会ったら出会ったで その課題があるし。

 まぁともかく。

 わたしはほんとうに ついさっきまで
どこかで パートナーができないわたしはダメな人間だ
と思い、その意味でも焦っていたのだろう。
まえに 因果律でものをかんがえそうになっていた と書きました。
このことも そのひとつなのだと思います。 それこそがいかん。
ていうか わたしのわたしとしての可能性をつぶす考え方だわ。
と 思ったのです。

 
 わたしはまだ 恋とかめんどうだし とか 
男がいなくてもいいわこの先
なんていう境地には達していないし
この先達するのかもわからないし
それなのに恋ができるのかも 男というものと
きちんと向き合うことがあるのかも すべてはわからない。

 けれど そのすべては わたしのいま の何かで
わたしのにんげんとしての優劣をあらわしているものではないのだ
と いうこと。 そういうことが ようやく
わたしの深いところに ふっと落ちてきたというのかしら。
腑に落ちたというのかしら。

 またひとつわたしは解き放たれたとおもいます。

 恋人ができたらいいなああああああ とおもう。
けど できないわたしも ダメじゃなくて それもまたたのしい。
これからは本気で そう感じで暮らしてゆけそうであります。
たまにはさみしくなるとおもうけど。でもそれすらも いまの課題。
あぁすべてはわたしのものだ。

 中2だな。想像よりずっと かっこわるい四十路だけれど
これがわたしの人生だ。 貪欲にすべてをやり尽くそう。
その思いは変わらない。



 

2013年2月2日土曜日

不合格のあとで

 さて。ほんじつは残念ながら検定を不合格になった
という そういうおはなしです。

 フラを習い始めて1年。年末あたりからは
検定 なるものを俄然受け始め 
順調に1回の受験ごとに1級ずつクリア 
てな調子ですすむことができて
1月までにわたくしは8級のひとになっておりました。

 きょう受けた7級は うちの教室では
ひとまえで踊る とか 教室特製パウスカートの購入 
とかいう権利を得ることができる いわば
節目の級でして わたしの当面の目標は
この7級に合格することだったのです。

 で 結果撃沈。 いやぁ もうね 何回やっても
言われた通りに腕が動かない というそういうのがあったり
腰がはやく動いちゃう とか そんなんだったりとかして
はいもう一回 と。 

 ものすごく悔しいしへこむし あぁもうわたし
ダメなんちゃうか 一生受かれへんのちゃうか とか
思ったりしそうになったのですけれど でも よく考えたら
わたしはそもそも 運動神経もわるく
バレエを習っていた幼稚園のときも ひときわ身体が硬く
中学校のときは体育教師に「ほんっとリズム感ないよね〜」と
鼻で笑われ などという そういうにんげんであったわけで
そのわたしが そんな順調に まぁ上手♡ なんてことに
なるわけがない。 人並みよりもあゆみがのろくても
それは あたりまえ のことなのだと思い至りました。

 先輩のみなさんに「わたしも何度も落ちたよ〜」とか
励まされて帰ってきたわけですが ほんと そうなのですよね。
あの いま上手に踊ってる先輩が落ちたことがある なら
わたしが落ちないわけがないじゃないか。

 わたしは先生にとっても あまり覚えのいい生徒でも
筋のいい生徒でもないわけで でも いまこの教室にいて
キレイに踊りたい というふうに思っていて
そして そこには遠いとしても ともかく たのしい
と思って踊ることができているのであって もうそのことが
奇跡みたいなことなんだよなぁ と。

 そう思ったらまた がんばろ。 でも悔しいから
来月は合格しよ。 と 思ったのでした。
来週レッスン行ったら また受けます! と宣言して
そして じぶんなりに練習したのを見ていただいて
またキレイに踊るヒントをいただこう とそのように思っています。


 そもそも 前向き とか がんばる とか 
そういうのが死ぬほどキライで 「前向きにがんばる(キラッ)」 
だなんてもうそんな激烈なダブルパンチ世話になるくらいだったら 
この人生から百恵みたいにマイク置いて引退する
くらいの そういうわたしだったんですけれども
人生って わからないものですね。 ていうかこのたとえはいかがか。

 
 わたしはこの先も ものすごく上手 なひとにはならないとおもう。
ステージに出られるようになっても はしっこで こそっ と
みたいな そういうポジションになるだろう とおもう。

 それでも わたしがたのしい とおもうことを
わたしのペースで努力して上達させる ということを
こうしておこなってゆこうとおもえることが ほんとうにうれしい。
そしてあたらしい。 すごくすごく あたらしいことです。

 これからのわたしはActiveに。より能動的に。貪欲に。 
そういう暮らしを と思ったら 前向き も がんばる も
素直にわたしのこころに入ってきたようにおもいます。
ま だからってやっぱり「それが大事」が好き♡ てひととは
一生仲良くなれないとおもうけれどもな。

 それでは またね。