2012年11月30日金曜日

Be active!

 ここのところ職場で読んでいた本があって(こんなことについての
あぁ これは いま読むべきように できていたのだな とおもった。

 その一連の本は 去年から職場にあって そのうち読みたい
と思いつつ ずっとあとまわしにしていたのだ。 けれど ここ1週間くらいで
なんだか読まなきゃ というこころもちになって読み始めたところ。
あぁもう これだ。わたしにもうひとつ足りないのは というか
これからの(去年からはじまっていたけれど)課題はここだ 
というようなものを ちから強くつきつけられた。

 能動的に。 アクティヴに。 

 ずっと若い頃のわたしが いつ 現実的に危ういもの に
遭遇してもおかしくない という方法でばかり いろいろなものを
処理していたのは わたしがいつも こころの事態に対して
パッシヴになっていた という側面も大きかったのではないか。

 かろうじて残された アクティヴなうごきを求める部分が
ゲド戦記 を読むようにしむけたり なんてことをしていて
そういうところでなんとかかんとか わたしはただ
パッシヴになって現実の危うさに巻き込まれることを
まぬかれていたのかもしれない。 が それでも あまりにわたしは
わたし自身が引き受けて経験すること をやらなさすぎていたとおもう。




 去年の失恋以降のいろいろは わたしがはじめて
アクティヴに経験してきたのに近い過程だった。
が それでもまだ わたしはパッシヴになってしまうことがある。
いや それに気づかないふりをしているところがあった。

 そのことに きっちりとどめをさしてきたのが 
このたびの読書であったとおもう。

 仕事のために読んだはずの本だったけれど
これはどう考えても わたしの人生の過程にとって
大きな意味を持つものだろう。

 わたしはもっともっと 目を凝らして 耳をすまして
そうして見たもの 聴いたもの 感じ取ったものを
きちんと経験し尽くす必要があるのだ。 
なんとなく やっていては ダメなんだろうとおもう。
それを アタマでだけでなく やる必要がある。

 すこしでも あれ? と思ったことごとを
ひろいあげてゆくこの作業は その入り口として
やはり必要なことのようにおもう。

 ますます 身体を使うことはやめられない。

*読んだ本の内容のことをそのままやる というのではなく 
 ともかく アクティヴであれ というメッセージをうけとったので
 そのことを記しました。

2012年11月27日火曜日

ジョナサンおじさん

 ところで わたしは ジョナサン・ケイナーおじさんのうらない  が
かなりすきで、まいにち見ている。 なにがいいかって
うらないっぽくないところがいい。 じんせいに起こる ほんとうのことを
そのひとのよいところが伸びるように そのひとがきちんとじぶんを
整えて生活していれば これだけのことが感じられるかもしれませんよ
ということを 提示してくれる感じがあるところが とてもすきだ。

 きょうのおとめ座のうらないのところには

「昨日の占いでは、人生における最も重要な変化が瞬間的に起こるということはま ずない、
といささかはっきりお伝えしました。ただ、魔法のような瞬間など存在 しない
という意味でそう言ったのではありません。もちろん、私たちが心を開い ているかぎり、
人生には深遠で素晴らしい、急激な変化が何度でも起こり得ま す。
しかしそれでも、最高の変化はゆっくりと起こります。」

とさいしょに書いてあって、これはべつに 
おとめ座に限ったはなしではないことは すぐにわかる。




 わたしはいま 内的にはいちねんまえと まったくちがうところにいて
けれど 目に見える変化 ていうか はっきりいえば 次の恋愛 みたいなのが
まったく見当たらないことに 少々(かなり)がっかりしたり
焦りそうになったりもしていて そういうがっかりしてるじぶんにがっかり
という感じでいる。

 そういう状態のときにこれを読んで。

 わたしはじぶんの浅はかさと でも きちんとやってきたよ という自負と
だから これからもこうやって地道に生きてくしかないじゃん ていう
そういうことを しみじみとかみしめて またほんのすこしだけ
らせん階段をのぼるのであった。 そして がっかりしなくても
いまじぶんが じゅうぶん 開けてきて すばらしい場所にいることを
何度でも 確認するのだ。

2012年11月26日月曜日

あこがれのひと

 フラ教室に とってもステキな笑顔の(もともとだいぶんびじんさんだが)
あこがれの先輩 みたいな方がいらして、わたしはそのひとの踊りを見て
なんだかフラダンスってほんとうにたのしそうだし キレイなんだなぁ
あんなふうに踊れるようになるかしら などと妄想することができて 
それが 続けよう と思った理由のひとつでもあった。

 そのひとは もう上手なひとのクラスなのだけれど たまに
わたしがいる 初心者のクラスにもレッスンにきていて
そのときに踊りを拝見できるのを ひそかにたのしみにしていたのだ。

 それが ここ最近、めったにこられなくなって
どうしたのかなぁ と思っていた。

 きのう パーティにはいらっしゃっていて、ひさしぶりに
踊るところをみて やっぱりとてもキレイな笑顔で楽しそうに
踊っておられたので わたしはうれしくなって
話しかけにいき、一緒に写真も撮っていただいた。

 メアドを交換して 撮った写真を送ったら
きょう 返事がきていて なんと いろいろ思うところがあって
今月でいまの教室を辞め あたらしいところに変わられる ということが
書いてあった。 きのうは 話したら気持ちがあふれてしまいそうで と。

 とてもさみしかったけれど 勇気をだして話しかけて
写真も一緒に撮っていただけて よかったなぁ とおもった。

 ちゃんとそうして つながるひととは つながってゆくことができるのだ。

 わたしはなんだか 大丈夫みたいだ。



2012年11月25日日曜日

おどる

 1月から通っているフラダンス教室のクリスマスパーティがあって
だいじょうぶだろうか と思いつつ参加してきた。

 そもそも 教室でお友達がたくさんできたりするタイプでもなく
にもかかわらず じぶんが通っている曜日のひとが先生以外誰もいない
というかなりアウェイな状態だったので どうなることやらと
不安に思いつつ の参加であった。

 結果 そんなに親しくいろいろなひとと というのは
すこしハードルが高かったものの 習った曲がかかれば
みなさんと前に出て踊る などのことを わたしとしては
積極的にやってきた。 初心者なのに図々しい と
言われるほどの感じで。 どう思われたかはしらないけど
わたしはたのしかったからいい。

 踊る というのは なんだかとてもいい効果のあることなのだな
ということをあらためて知った。 上手じゃないのにどんどんひとまえで
踊ろうとするのは いかがか という話ではあるのだけれど
きょうは 踊ることがたのしい と思えたので
そのことがうれしかった。

 これまでも レッスンや 家での練習もたのしかったし
だから続いてきたのだとおもうけれど なんだか
舞台 という場所が とてもきもちのいいものであったのだ。

 それから 上手なひとたちが踊るのを見て
わたしもいつか あんなふうに踊れたらいいのになぁ と
思ったりもできたので それもなんだか いいことだとおもった。

 小学生の作文みたいなことしか言っていないけれど
きょうはそういういちにちだった。 図々しく前に出ることができて
歳を取ってよかったな とおもった。


2012年11月23日金曜日

そーいうところ

 きのうはぐすぐすさみしがるプレイにひたって
6kgがひざに乗ってくることすら感激したりとかしているうちに
トモダチから電話がかかってきて いろいろと話した。

 このトモダチはいつもほんとうのことしか言わないのだけれど
そのときに わたしの「目の前の課題に対して」容赦ない。 
つまりそれは わたしのすすむ速度とか いまいる場所を
なぜか感じとってくれている ということであるとおもう。  

 もし ほんとうのことを言われたとしても
それが 目の前の課題 でなければ わたしはただただ 
傷つくだけで終わるだろうし もっといえば
もしかすると それが課題であることにすら 気づかないかもしれない。

 わたしのいまの課題は いちばん荒々しく言えば
甘えんじゃねぇよ というところであるが
別の言い方をすれば もっとじぶんのちからを信じてやれ
ということである と思っている。

 きのうの どうしてひとりなんだろうぐすぐす という
その原因について きょうのわたしから言わせてもらえば
それは そういうこと言っちゃうおまえのそういうところだよ
ということにほかならない。

 まぁ半分プレイとしての さみしがり であったとはいえ
わたしはもう ひとりでもうすこし いろんなことができるわたし
なのだろうとおもう。

 ひとりで お店で飲むことが できたみたいに。


***************
 
 わたしがここで書き募っていることや
Twitterをしていたころに書き募っていたいろいろのような
そういうこころの作業は それが作業のすべてではないとしても
世の中のひとたちは そういった作業を どこにももらさずに 
ひとりでなんとかしているのかもしれない ということに 
本格的に思い至ったのは 残念ながらつい最近だ。

 なぜ その当たり前のことができずに生きてきたのか
なぜ そのようなわたしが いま 先のトモダチのような
愛をもって接してくれるひとのいる世界に存在できているのか
不思議におもうこともある。

 わたしはその当たり前のこと と もしかすると
その先の そうできたあとにしかあり得ない 
誰かときちんと向き合って生きること が恐ろしくて
いろいろなものを勝手にかかえこんでいたのではないか とおもう。
むかし見た ほかのひとの人生の物語をわたしが次々と作成している
という夢がそのことをよくあらわしている。 

 いろんなひとの物語は そのひと自身にしか作ることはできず
その物語同士が出会うところに尊さがあるし そこにまた
すばらしい物語の展開があるのだと わたしは誰よりも知っていなければならない
そういう仕事にも就いているし 実際 そのことを仕事でたくさん
経験してきた。





 わたしが手放さなければならないものは
わたし以外のものすべて なのだろうとおもう。



 
 

2012年11月22日木曜日

さみしいよる

 びっくりするくらい さみしくなった。

・・・・なんて ウソ。 きょうはさみしくなるだろう と
わかっていた。 それで どうせならおもいきり さみしがってやる
くらいのことをおもって さみしいきもちでいる。

 どうしていまひとりなんだろうわたし。

 どうしてだいすきだったひとたちとはなれてしまったんだろう。

 ぐすぐす。

 とか思っていたら たゆがおともなく近づいてきて
6kgでわたしの脚のうえにまるくなってねてしまった。



2012年11月20日火曜日

からだとともに

 比較的がんばって走るようになって5ヶ月くらいが経って
そうすると たしかに身体はきちんと反応して 変わってくれている。
したはらにくのぷにり具合はなかなかとれないけど まぁ
そこは ジョシだし 歳だし てことで大目に見ることにして
それ以外の。 走っているときの感じとか 身体で感じる調子とか
そういうことが。

 あっというまにいちねんが経って
とても苦しかった最初の数ヶ月のことは
思い出すことはできるけれど もう 遠い痛みで
わたしはあの日々を きのうのことのよう には
感じることができなくなった。

 そのあとの じぶんでもびっくりするしかなかった
失恋のついでにさらに重ねた別の失恋(といっていいだろう)
のほうが わたしにとって 大きい意味を持ったかもしれない。

 おもてだった苦しみや かなしみ のようなものは
もちろん 去年の失恋のほうがずっと大きかったけれど
わたしがじぶんの未熟さや それだからこそ
かもしれないエネルギーや きもちの動き方というものを
まざまざと見せつけられることになったのは 
あとのことによるものだった。




 思っていたよりもずっと 好意に甘えていたし
あぐらをかいていたし 支えにしていたのだな
ということには あとになってから気づいた。

 そんなものだ。

 そういう じわじわとした衝撃への作業を
わたしは身体を動かすこととともに やってきたのだとおもう。

 あぁもう次こそは こころに出てくるすべてのことに
きちんと向き合うような そういうふうなわたしのままで
だれかとともにいることをやっていきたい。 
身体をうごかしながら暮らすことは そのためにもおそらく
必要なことなのだろう。

 もし だれかといることが わたしの課題として
ふさわしいことであるならば。

 ひとりでいるのが課題だとしても 
やっぱり 必要なことなのだろうけれど。

 ねぇ。 時は流れてゆくし ほんとうに
時がくると ものごとは ただ 終わってしまうんだね。

 なんていう ぐずぐずしたわたしも まだいるのがわかる。
でも 相手への執着 ではなくて これはもう
思っているじぶんへの執着 のようだ。 あとすこし。


2012年11月18日日曜日

とけだしてゆく

 じゅうぶんに身体を動かした日は
やはり こころもちが とても軽くなる。

 走ったり 踊ったりしているときに
要らないものが勝手に溶け出していってくれているのでは
と 思わざるをえない。 さるをえない。きーきー。



 ちょうどそういうタイミングで
わたしが仕事で書いたものを読んでくださった先輩から
ちょっとした感想のようなものがメールで届き
それが好意的なものであったことで
さらにさらに わたしのこころもちは軽くなる。

 わたしがわたしとして生きること
わたしとしてきちんと感じ 考え 反応し
そうやって暮らしていくこと。

 それができていれば わたしはきっと 大丈夫なのだ。




どーにも

 休みの日の朝 が苦手になっている。
ここ数ヶ月の話ではあるのだけれど どーにも休みの日の朝
すっきりと起きることができなくなってしまっている。

 数年前までたしかに いつも休みは昼過ぎまでぐずぐず寝て
という生活をしていたわけだが そのときの感じ というか
そのときのような 起きてもいいけど寝る じゃなくて
起きるのがつらい という そういうような雰囲気になっている。

 疲れがたまっているのかなぁ とも思うけれど
なんだかちょっと この状態がさみしい。

 きょうもむりやり10時に起きたけれど いままた
カラダが横にならせろ と要求してきているのだ。
12時にして。


*************


 夏やすみにハワイにいって 
わたしはじぶんの一部をそこに開け放ってきた という
そういう感覚があって 世界はこれから
もっと開かれたものに感じられるだろう と思った。

 開かれた世界 というのはつまり 開かれたじぶん
ということなのだけれど これまで 世界に 流れに
わたしの深いところに わたし自身を開いて過ごしてきたか
と言われると そうではなく その 長い年月のやり方は
そうカンタンには 離れてくれないのだなぁ とも感じている。

 春のあの 新しくはじまってゆく感覚と
夏の わたしを投げ出す 開け放す 解き放つ感じという
それらは わたしのこれからのやり方として
身についてゆくものかもしれない。 夏以降のわたしの日々は
そのやり方をわたしが身につけてゆくための
修行のような そういう日々であるのだろう と思ったりもする。

 わたしは世界に 流れに わたし自身に 
わたしを開け放すということを やっている と
思い込もうとしてきたけれど でもやっぱり などと
じぶんを引き止める 不安におもうところも
どうしてもあるのだった。

 アタマでは わたしがこれから先 ひとりで生きるのであろうと
だれかと出会ってともに生きるのであろうと
それはすべて 起こるべくして起こることで 
わたしがわたしになってゆくために必要な過程であるのだ
とわかっている。 わかっているけれども
ひとりかもしれない と思うと まだまだおそろしい
と思ってしまうのだ。 

 ほんとうは おそろしくともなんともない
わたしのための過程でしか ないのにね。
解き放てば そのぶん かえってくる そういう世界であるのにね。


*************


 ということで、わたしはその あたらしい作業を
している途中で 休みの日にねむいのは 
この作業をやっている という そのしるしなのかな
なんて じぶんを甘やかしてみたり しているのである。

 もっともっと 開け放して 解き放ってゆけますように。






2012年11月15日木曜日

はじめてのこと

 人生初 のことを成し遂げたのである。

 とか たいそうに言ってみたけれども
なんのことはない ひとりで飲みにゆく という
ただそれだけのことである。

 ただそれだけ のことなのだけれど
わたしにとっては とてつもなくハードルの高いことだったのだ。
なにしろ40年生きてはじめて なのだからそれは推して知るべし
であろう。

 きょう行ったお店は もう何度もいろんなひとと行ったことのある
そういうお店で なので ここならひとりでももしかしたらあわよくば
ということは なんとなく思っていたところであったのだ。

 それでもほんとうに行くことができたのは
きのうのめきめきとした新月感と
いちねんよくがんばったじぶんを振り返ったときの
こう なにかこみあげるようなものがあったから
だとおもう。

 はじめてのひとり飲みは 思ったよりも気楽で
今度は本を持っていったりして さらにゆっくり飲んでみよう
というような そういう心地よさがあった。
さすがにきょうは1時間くらいしか いることができなかったけれど。




 なーんて えらそうにいってみているけれど
実は このお店に初めて行ったのは
例の若者くんとふたりで一緒に だったので
ひとりできたことをついメールでじまんしたりしてしまったのだった。
矜持のない行動だ という意見もあるとおもうけれども
とりあえず酒のなせるわざだ ということにしておいてほしい。
違うけど。 これって 甘えてるっていうことなんだよね と
わかりながらやったことなんだよね。

 という 結局言い訳めいたことで終わるブログ記事。
わたしがかっこいいことを本気で書けるようになる日は
もうすこし 先のようである。

2012年11月14日水曜日

あたらしいはじまり

 きょうは新月でしかも日蝕で という日だということで
それにふさわしい感じ満載ないちにちだったとおもう。

 なにより わたしはきもちがとてもしゃっきりしている感じで
いろいろなものごとへの感覚がすっきりしていてシャープだったし
仕事上に起こるできごとも わたしが直接おこなうことではなくても
いまから始まってゆくための最初の一歩 のエネルギーや
覚悟のようなものを必要とすることが生じているようにおもわれた。

 むかしは そんな月だの星だのの動きが
ひとびとに影響を与えるだなんて迷信だ と軽くおもっていたし
満月だのなんだの言われても まぁそりゃキレイだしテンションあがるでしょ
くらいにおもっていたものだったけれど
ここ最近 ほんと1、2年かな そのくらいで にぶいわたしも
こうした月のみちかけや 星のうごきなどが いろいろな事ごとに
影響をおよぼしているんだなぁ ということを 
うっすらでも感じることが増えてきた。

 宇宙とかそういうものの 大きな流れのなかにわたしたちがいて
だから その大きな流れがフラクタルにわたしたちの身にも
起こっているのだなぁ とおもう。

 もちろん 新月だから棚ぼたでいろんなことが一新される
というわけでもないし 満月だから何もしなくても勝手に事が満ちる
というわけでもないとおもう。 
けれども そういうようなことが 背景のほうで起こっていて
わたしたちがじぶんの流れのようなもの わき起こることに逆らわず
きちんと作業をして暮らしていたら 目に見えるかたちで
一新されたり 満ちたり ということが生じるタイミングになるのだろう。

 なんだか 春によく感じた これからのことがたのしみで
どきどきするような そういう感じの もうすこし落ち着いて
じわじわする感じが きょうは感じられる。




 あしたはちょうど きょねんとてもつらいことがあった日から
いちねんになるし ここまで来たじぶんを讃えて
買い物したり ちょっとひとりで飲みに行ったり(!)してみようかな
とおもっている。 

2012年11月12日月曜日

ほんじつのまなび

 きょうはいつもと違う仕事の予定があって
はじめての場所に行ってきた。

 どうなるかなぁ なんて思っていたけれど
ふだんのじぶんの職場にいるかわいこちゃんたちの
仕事に関してのセンスのよさ みたいなのを
感じることができて 行ってよかったなぁ とおもった。

 そういうことを感じるために行ったわけではなかったけれど
でも 結果的にはそういうことを感じられたので
これからのわたしはますます かわいこちゃんたちの持ち味 とか
持っているもの を信じて それがすくすくと伸びてゆくための
お手伝いになることだけを考えていこう と思った。

 そして そのことには 本業に対し じぶんがいかにしっかりと
真摯に取り組むか ということが いちばんおおきく
ものをいうのだよね ということも再認識した。

 ちょっとめきめきとしたこころもちになって
でも疲れたのでコンビニでスパゲティを買ってきて食べました。





2012年11月11日日曜日

かっこわるいあめのひ

 朝からあめが降っていて きちんと起き上がって活動する
というきもちにはとてもなれなくて うつうつと過ごしていたら
あっというまに夕方になっていて もうあとはいちにちの終わりを待つばかり
という時刻になってしまった。

 そういえばこんなふうに ある意味不毛に なにもせずにいちにちを過ごす
ということが 何年か前までのわたしにはよくあった。

 遠距離でつきあっているひとがいて そのひとが月に1回くらい
会いにくるという そのとき以外はほぼ 誰かと約束したり 
ということもなかったし、走ったり 踊ったり もその頃はしていないから
休みといえば 家にじっとして うつうつとしていたように思う。

 それが変わったのは お祭り になった ちょうどいまから
3年前くらいの頃から だった。 Twitterをやりはじめて
ひょんなことからいろいろなトモダチができて 
いろんなひとと会う約束をしては外に出て行くようになった。
しかも おつきあいするひとができたりして それがまた
遠距離だったものだから まいつき交代で 東京に行ったり
東京から彼が来たり なんてこともしていて だから
土日はだいたい 何かしら出かけていたんじゃないか とおもう。

 去年のいまごろ その彼とも別れることになって
それからつい最近までも わたしが寂しくないようにしくんでくれたかのように
いろんなひとが声をかけてくれて なんとなく 毎週のように
どこかに出かけて行ったりしていた。 つい先月くらいまでは。
γ−GTPの値がどうかしちゃうくらいに 外でよく 誰かと飲んでいた。

 その波が 最近途切れてきたなぁ とおもう。
わたしはまた 予定があまりないわたし に戻りつつある。

 それでも 走ったり踊ったり しているので 当時と違って
まったくなにもしないで過ごす ということは少なくなった。
けれど 今日のようにあめが降っているとそうもいかず
ひさしぶりに 起きているのに何もしないでうつうつしている
という休日を過ごしたのだ。



 そうなってみて気づいたのだけれど わたしは基本
くるはずのない何か を つい 待ってしまう というところが
あるのかもしれない。 根本的な性質に そういうところがある。

 むかし じっとしていた頃も いまも どこか
なにかおとぎ話のような 魔法のようなことが しらない間に
起こったりしてほしい というようなことを 思っていたのかもしれない。

 いま わたしはその おとぎ話 のようなことがほんとうには
あるわけはない ということを ほら みたいに確かめているところ
という感じもある。 もちろん そんなことよりも
日々のくらしで起こる事ごとすべてが ほんとうは 
おとぎ話かのように 魔法かのように ミラクルで満ちているのだ
というそのことに あとすこしで たどり着けそうなのだけれど。

 でも そういうかっこいいことを言い切れてしまうまえの
まだ ぐずぐずっとした それこそ いつか王子さまが
みたいなことをどこかで夢見ているようなところが まったくないとは
どうも言えない状態の そういうわたしであるのだ。

 かっこわるいですね 猛烈に。

 そのことをだいぶ自覚せざるを得ない あめの日曜日だった。

2012年11月9日金曜日

しんとしている

 ひさしぶりに きょうは しん とした夜である。

 仕事のかえりに ネイルサロンに行って
またも四十路らしからぬかわいらしいつめにして
にやにや家にたどり着き ねこにゴハンをあげて
じぶんもゴハンを食べて そうしたら
なんだか ぽっかり と穴があいたみたいな感じが訪れて
音楽をかけることが なんだか不必要なことのように
思われたのだった。

 いつもなら フラダンスのれんしゅうだって
しているはずの時間だ。 なにしろあしたはレッスンの日。
けれども そこにも きもちはのらない。

 しん とした感じの中で じっとしているのがいい。

 じっとしているのがいい などと言いながら
こんなふうにパソコンのまえにすわって
文章を書いてみたりしているわけなのだけれども。



 ともかく この しん としたところで
ことばをつむぐ というようなことだけをすることも
わたしがたまに おこなわなければならないことのひとつ
というような感じがする。

 動的なことだけでも 静的なことだけでも 
わたしはもう わたしの過程をあゆむことができなくなって
いるのだとおもう。

 これまでは いつもどちらかにかたよったり
かたよりに気づかず だからいつも片方が暴走したりしていたのだ。
もう暴走したくない。じぶんを粗末に扱いたくない。



 

2012年11月7日水曜日

うみだされる

 先日 危険なメソッド を観たはなしは書いたけれども
そのブームに乗って 同じテーマの本「秘密のシンメトリー」(A.カロテヌート著)
購入して読んでいるのである。

 エピソードはだいたい映画で観たのと同じなのだけれども
そのあたりの詳細なものがびしっと載っていて 
ユング・フロイト・シュピールラインのこころのすさまじい動きと
そこから何かが生み出される感じが伝わってきて ぞくぞくする。
そして 生み出されるかたちになるまでに それなりの年月を
要しているあたりにも 深く感じ入る。

 読んでいておもうことは 映画を観たときとおなじで
なにごともじぶんで体験しつくさなければ 何かが生み出されることはない
というそのことに尽きる。 高見の見物をして ひとっつも傷つくことや
ナマで味わうことなく 何かを本気で打ち出すことは できないのだな
という そういうことだ。

 正面からぶつかるのが正解 という意味ではない。

 あたるにしても よけるにしても 少しずつ関わるにしても
ともかく 目の前の対象自体にコミットする ということだけを
よしとする のではなくて
目の前の対象について体験しているというそのことにコミットする
というのか。 あーうまく書けない。 でもともかく そういうことだ。
そのことを体験している 経験しているわたし にちゃんとコミットすること。

 わたしはそれをいま きちんとできているだろうか。

 と 振り返ると同時に 振り返るまでもなく そうできていないものは
結局わかった気になっても手痛いしっぺ返しがやってきて
何度でも ちゃんと経験しつくせるまで 経験させられることになるから
ま いいんだけども。

 わたしがこれから わたし自身の人生を生きてゆくにあたって
仕事をおこなうにあたって もうそれは かならずそうなることなのである。




 ところで。 手放せない という感覚からようやく抜けた例の件は
相手にとっても もっといい思い出になったかもしれないことを
台無しにしたのかもしれない と思ったりもしたけれど
それをまっとうするほど わたしはオトナではなかったし かっこよくもなかった。

 いつか 相手にとっても 残念 とかじゃなくて
あんなこともあったなー とおもえるようなことになったらいい。
そうなってくれたら ほんとうにうれしい。

 このことも この過程そのものにコミットしていけている感覚が
いまはある。 この感覚だけは のがさずにいこうとおもう。
そうすることでしか なにかを生み出す芽にはならないし
せっかくだったら なにかを生み出す芽になってほしい とおもう。


 

 

2012年11月6日火曜日

いちねんのつきひ

 断ち切ったり 手放したり ということは わかっていてもなかなかできない
そういうことだとおもう。 しかし できないんだから仕方ないよね
というところに安住しないで いい具合にその課題をやり尽くす というのは
その境目がはっきりしないだけに なかなかに難しいことだ。

 手放せないじぶん に悩んだり 手放せなくてもいいじゃん と思ったときに
そこに開き直りはないか と自問自答したりする作業をしたり まぁ
とにもかくにも そのあたりもぐちぐちとやって 最終的には
手放せないということを どれだけじぶんのなかで深く感じ入るか という
そういうことが必要なんじゃないか とおもうのだった。

 愛だとかひかりだとかは 去年 まだあらゆる意味でシアワセだった頃から
少しずつ感じ取っていたことではあったけれど おそらくそれは
そのあとに続く このたびの作業のための準備だったんではないか と
思いそうになるほどに もうなんか いまにならざるを得なかったのだ。



 去年のいまごろ ケッコンしようかとも思っていたひとに
別れたい と言われたのだ。 それから1年が経った。

 春ごろに 最初の抜けがきて でもまだ必死だったので
その必死さを指摘されると腹が立って仕方なかった。
しかもそれを 梅雨ごろに にくからずおもっていたひとに言われてしまって
わたしはいたく傷ついた。 が わたしが春までにその 抜け に
達するために そのひとを利用したのではないか と思うことがあったし
自業自得だな とも思っていたのだ。

 その後 ハワイにいって わたしは春に感じた 抜け の
本格的なものがきたことを感じることになる。
それで終わりかな と思っていたけれど 
なんと そのあとで 春の抜けまでのできごとが
そうやすやすとは 手放せないくらい わたしにとって
大きなできごとだったのだ ということに気づいてしまい
動揺したのだけれど でも こればかりはもう 利用することも
協力してもらうこともまかりならない とわかっていたので
じたばたして そしてこのたびの 手放す感覚 というところに
きたのだ。

 恋人と別れる とか たいせつに思っていたひとにわかってもらえない
とか そういうことは じっさいのところ 起こらない方がいいできごと
であるとおもう。 それがあったから成長できました とかそんなもんでは
決してないのだとおもう。 でも 起きてしまったことは
それがなければ いまのわたし にはならなかった という
そういうものであるのは たしかだとおもう。

 ああほんとうに長かった。 別れた当初は 1年後には
あたらしい彼氏とかいて いろいろ順風満帆になっててやる とか
思っていたけれど そんなカンタンなものではなかった。
まぁ 複雑にしたの じぶんなんだけどね。気づいてなくて。

 彼との別れと そのあとの若者くんとのいろいろとか
そういうのぜんぶ 通らないとここにこられなかったなんて
なんたることだろう とおもうけれど
わたしが経験しなきゃならないことは ぜんぶいつか
きっちり経験することになるので これが道なのだ。

 とか また繰り返しおなじようなことを言っている。

 

2012年11月5日月曜日

とつぜんの

 うっとおしく書きつのっていたら あれ っていう具合に
突然 抜けたことに気づいたのだった。

 きのうまで 手放せないだの さみしいだの ぐずぐずぐずぐずしたことを
わかったからおとなしくなんとかしろやぼけかすー といわれてしかるべきほどに
とにもかくにも 思うままに書きつのっていたわけである。

 それが。

 なぜか今日 職場で本を読んでいて(仕事の!)
そのあいまにふと あれ もうあんまり 手放せない感じとか
そういうのがない ということに気づいたのだった。

 さみしい というのも おそらく根本のところは相変わらずだけれど
俗っぽいほうの さみしさ は たいへんな勢いで薄れているのだった。

 やはりなにごとも なかったことにしないのがいいんだなぁ わたしにとっては。
とおもった。恥ずかしいけどみっともないけど ここに書きつのったことが
気づいて 連日言いつのったことが それらのきもちがわたしのもとを
旅立ってゆくのに役立ったとおもう。




 出てきたもんは そんなはずない とか思わずに とりあえず
そっかー めんどくせえなおれ とか思いながら受け止めておくのが
結局はそこへの執着から解き放たれる近道のようであった。

 まぁ 近道もなにも 手放せずにいた若者くんへのいろいろは
結局手放せないとかいうことに気づくまでにも半年はかかったし、
最終的にいまになるまで1年近くかかったわけだし。
それに比べたら 別れた彼への執着がなくなるほうがずっとはやかったな。
それは だいすきだった とかそういうことを認めていたから というのも
大きな要因のひとつなのだろう。
↑ いやこれいちばん大きい部分じゃないや。でもほんとのところを
 書くのは難しいからひとまずこのかたちで。

 とにもかくにも。 これからだって波はあるだろうけれども
もう次のステージでやっていく。 変容は それがどんなによいものであっても
エネルギーが要るし、それまでのやりかただって じぶんがそのとき在るために
必要だったのだから 変わりゆくことに抵抗をしめす何かがかならず起こるものだ
とおもう。 そういうのとも丁寧につきあって そうやってすすみたい。


2012年11月4日日曜日

さみしさのこと

 わたしひとりで生きてるわけではなく
トモダチとか知り合いとか仕事で関わるひととか
その他いろいろなひとがいて 世の中があって
そこの中で 生きているわけである。
(ここですぐに 親 とか 親戚 とかが出てこなかったのがひととしていかがか。)

 その世の中で ただ ほんとうに そのひとが生きている
というだけでいい と思えるような そういうひとたちがいて
それだけでも ありがたく 生きていくに値するのだとおもう。

 おもうのだが。

 ここしばらく 次の場所にきた というその感じや
世界が愛とひかりである という感じが 強まるにつれて 
それとは逆の 猛烈にさみしい というきもちに襲われることも
かなり 増えてしまった。

 たぶんそれは とても俗っぽい感じに。

 と同時に 根源的に ひとが持っている 何をどうしたって
一生どうにもならない感じの そういうさみしさ が
ぐわ とその姿をあらわした感じに。

 わたしは後者のその 一生じぶんとともにあるであろう
しかしいろいろなものの原動力でもあるはずの そういうさみしさを
いま やっと本気で抱えていこうとしているときなのかもしれない。

 その作業と同時に ものすごく俗っぽいさみしさも
わたしのこころをみしみし喰い尽くそうとしていて、
そのことを認めることもまた 求められているのだろう。

 かつて わたしは俗っぽいさみしさを認められずに
とてもおかしなかたちでそれを行動化していたことは前にも書いたけれど
もう そうする必要はないとおもう。

 いま感じている このさみしさもまた やり抜くことが
わたしの課題なのだろう。 さみしさにどれだけのたうちまわっても 
愛とひかりのほうを見ていくことが。



 

2012年11月2日金曜日

てばなせずにいる

 わかったようなこととか やっぱり言いたくなるんである。
こういうところに何かを書くとき むかしみたいに 誰かがかならず読んで
コメントをくれたりするのではないのにもかかわらず。
じぶんのこころもちを まとめている感覚が強いのにもかかわらず。

 わかったような かっこいいような もう抜けて次にきているような
そういうことを書いているわたしは そういうわたしになりたいわたし に
すぎないのではないか というくらい 突然に心細くなることが ある。
正直 ある。

 走っていると 踊っていると そういうわたしを ちょっと忘れて
からだのことだけ 考えたりできることもあるし
逆に そういうじぶんのことばかりがあふれてくることも あるけれど
それでも それがすこし 流れたり あぁそういうわたしでも 
ちょっと許してあげよう というこころもちになれたりすることも ある。
そして どんどんわたしのほんとうのこころもちは せまってくる。

                    ダイヤモンドヘッドくらいの高さの課題 だといい

 わたしはどうして こんなに手放すことが苦手なのだろう。

 もう 手放せた と思った瞬間は 何度もあって
そのことを ここでも書いてきたけど
やっぱりまだ 完全には 手放せていない。

 わたしにとって そんなにおおきなことだとは 思ってもみなかった。
でも ほんとうは どこかでわかっていた。 わたしのほうがずっと
頼っていたし 甘えていたし よりかかっていて だいすきだったことを。
しらないあいだにそうなっていたことを。

 でも 根底にはやっぱり どこをどう点検しても
相手に対して 愛 としか呼べないものが こころにながれていて
だから いつか手放せるだろう ともおもう。


 これからは どんなわたしでも 出てくるわたしを 決して
いなかったことには しない。 これをやりつくすしかないから。 
ほんと しつこいけど やりつくすから。

2012年11月1日木曜日

いまここで

 トモダチとメールでやりとりしたり 話をしている中で
ふ と気づくことがある。 そういう瞬間が ここ最近ふえているような
そういう気がしている。

 なんというか やりとりのそのさなかに その内容に
埋没してしまうのではなく そのことを発している相手とじぶんから
すこし距離をおいて ながめる というような感覚が突然やってきて
そのときに あ というような感じになる。

 そういう感じになっているのは 比較的 じぶんの今まさに の
課題について 話題がふれているとき のようにおもう。

 これまでそういったことは やりとりの熱いそのとき ではなく
のちにまた反芻したり などしているときに考え直していたようにおもうが
それが いまここで 起こる というような感じだ。

 そして そういうことになるやりとりをしているトモダチとは
課題が似ていたり もしくは 違うようでも通じ合うところを感じている
ようにおもう。さらに そのトモダチのことを大いに信頼している ということも
大きな要因になっていると感じる。

 必要なやりとりを 必要なときに おこなうことができているのだろう。



 ところで。

 わたしは春ごろから 世の中は愛でひかりだ ということにちょっと気づいたので
そのことを言い募ってきた。 春ごろは もちろんまだ必死だったし
傍目にも痛々しい状態だったはずで なので その後もずっと
そう言い募るわたしを かわいそうなものを見る目で見るひとたち
というのが少なからず存在したし、たいせつに思っていた 思いが伝わっている
と思い込んでいたかった相手にすら かわいそうなひと のように言われて
落ち込んだりも した。

 それからハワイに行って わたしの 愛でひかりだ という思いは
さらにわたしの奥深くに根付いたので あまり言わなくてもいいようになった。

 そうしてのち の いま。 やはり世の中は あいかわらず 愛でひかりで、
必要なときに 必要なことが あるべきことが あるべきように 起きている。

 こんなこと ほんとうは言わなくてもいいのかもしれない。
けれど きょうは なんだかうれしかったので やっぱり書くのだった。

 あのとき わかってもらえなかったのも かわいそうなひと のように
言われたことも それもすべて わたしが経験すべき何かで
これを越えてこそ さらなるわたしがあるのだ。