2016年6月29日水曜日

みんなだいすきアンパンマン

湿気が多くてぐずぐずに溶けそう。でろでろでろでろ。

突然に気づいたんですけど。

アンパンマン、キライでした。すごく。もうほんと なんなのあれ、てほどに。

しかしお子たちには爆発的人気。てか、あれがだいすきな時期をみんな通る し、
その後もキライになるひとは少ないだろう。熱愛、までにはならずとも。

が、わたしはずっと大キライだった。アンパンマンが。
たぶん最初にアンパンマンに違和感を持ったのは
元ネタの絵本を読んだ小学生の頃
だ(とおもうんだよ)。

「さぁ ぼくをお食べ。」
お腹のすいたひとに何の躊躇もなく顔を差し出すアンパンマン。

えええええええええ

って。なんだそれって。おもったのよ。


でも、わたしがそこに えええええええええ とか思ったのも
アレをキライやと思い続けていたのも
わたしにああいう しぜんとわきでる
自己犠牲の精神みたいなもの 利他の精神みたいなもの
が全然なくて、ないだけでなく、
その ないこと を にがにがしく思ってる なんてことも認めたくなくて
で、なんやねんあいつキライ
てなってたのかなー とおもう。

めんどくせえ。てか、ほんと、ひととしてどうよ、おれ。


まぁそんなこんなで
おもいやりというものがないよね
口先だけでは何とでも言うけどひどいひとだよね
と 言い放たれてしまうに至ったのでしょうなぁ。

てまた他人事みたいに書いちゃうけど。

ごめんね。そんなこと ほんとは口に(文字に)したくもなかったし、思いたくもなかったよね。わたしにそういうのを言い放ったみなさん。わたしのことがほんとうにキライでこれ以上つきあいたくない とか思ってしまったみなさん。

と、いうところにたどりついたところで
突如としておもいやりあふれるひとになるわけではなく
ここからはわたしの努力と心がけがすべて
なのだろう。 …とか言ってることが青年期。バカ。


さて。

それでもまわりにいてくださるひとに 媚びるのではなく
びくびくするのではなく
ただ どう在るわたしを還してゆくのか
という。そういうことなのよね。


ずっと長いこと
わたしはほんとはダメにんげんで、いつかそのことがバレるのでは
とびくびく過ごしていたために、1度目の結婚生活はそのままのものになったし、
その後も自信のなさから触媒みたいに生きる感じを長年やめられずにいた。
で、次に そこから抜けつつあったここ数年、今度は爆発的にひとから嫌われるなどのことに見舞われ、
それは 触媒ではないわたし や
職業的知見を引き出せないわたし には価値がない
とわたしが思っていた ということだけでなく
ほんとは自己犠牲の精神なんてあんまりないわたし を
認めてなかったこと にもあるのだろうな。

ああなんてながいみちのり。

もうほんとの意味でじぶんを認めたいし、自己犠牲の精神 ていうか 利他の精神 をなんとか少しずつでも
じぶんに植毛するみたいにちまちまとでも植えつけたい。

ともかくそんなきもちです。

だいすき にはならないけど、もう大キライではないよ アンパンマン。
顔を食べてもらう人生も、顔をみんなが力を合わせてリフレッシュしてくれる人生も、
あるよね、としんからおもう。

2016年6月6日月曜日

きょうのよきこと

帰りの電車で
前に立ってた女子高校生のリュックに
例のバンドのグッズがついてるのを見て
背すじがぴん と伸びるようなこころもちになりました。
こうして世の少年少女青年たちに愛される仕事をしてるのね今きみは
と目の前にわかるかたちで見ることができたので
わたしもがんばってこ
と 本気で思って しみじみありがたいと思ったのだ。
そして、その女子高校生が、かつて高校生だった頃のわたしに
ちょっとだけ似ていて、そのこともなんだか
うれしいことだったのだ。

2016年6月2日木曜日

最近のあれこれ

何度目かの 村上春樹まつり が終わって
これまた何度目かの ばななまつり がはじまったところだ。
(それと並行してなぜか 日出処の天子 を読んだけど)

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春樹まつりにしろばななまつりにしろ
(さらに日出処の天子にしろ)子どもを宿したりする
などのテーマがそれなりに出てきて,
ほんとうにじぶんでは子を産まないことになった人生を
またすこし ちょっと残念だったな としみじみ考えたりしたのだ。

子を持ったところで 何かがミラクルに変わる
ということは決してないのだろうし,
けれどわたしは 子を持つひとにしかわからないこと を
経験しそこねたし(もちろん 子を持つひとは逆に
子を持たないからこその人生を経験しそこねるわけだが)
それよりなにより いのちのバトン のようなものを
途絶えさせてしまったのだなぁ とおもうのだった。

しかも オットのほうのバトンをも。
オットのご両親は わたしが彼と結婚することを
ほんとうに何の反対もせずに受け入れてくださったけれど
でも まさかほんとうにほんとうにバトンをつなぐ可能性すらなくなっている
なんてことは 思っていらっしゃらなかったかもしれない。

オットは仕事がたいへんすぎてつかれてしまっていて
実は入籍するまえからそもそも 子どもができる可能性のある行為 は
ほぼほぼおこなわれなくなってしまっていて,
ちょっとさみしいけれど,まぁそれはそれで致し方ないことだ,
お互いちゃんと思い合っているのだし とか思っていたけれど
ほんとうにそうなのだろうか。

欲 的なものはどうとでもなるし 本質はふたりの精神的な関係である
ことに きっと変わりはないのだけれど,
その 欲 的なものがオットから湧いてこないのは
疲れだけでなく わたしにもう 可能性がない からなのでは
という説が ふ とよぎって おそろしくなることもある。

とはいえ お互いがお互いをえらんだのであるし,
バトンが途切れたのは わたしだけの運命 とかそういうことでなく
彼の いえ も わたしの いえ にとっても運命で
それぞれがそれなりに考えたり感じたり受け入れたりなんだり
していくことなのだろう。

わたしのせい と思うのはそれこそ傲慢だわよね。
と はなしことばになってみる。

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それからそれから。

本もそうだし,その他の場面でも 思考が具現化する 的な
そういうテーマの何かを見ることが多かった。

ここしばらくの 絶賛嫌われ期 だとか
かつてもうまったくさっぱりモテることのなかったあの時代 とか
それもぜんぶ そういうことなのかなぁ
みたいにおもったりもした。じっさいのところ。

で もう細かいところは省くけど たぶんいま
わたしの顔がおかしくなってないから大丈夫だろう
ってこと。

むかしのわたしはやっぱり不細工だった。つくりは同じだけど
写真にうつったあの顔あの表情は すべて
なんというのか 卑屈さが根底にあって そのうえに重ねられたもの
でしかないような。そういう気がする。

それにひきかえ いまのわたしの顔は
たとえばフラ教室で なんて思いやりのないひと かなんか言われて
嫌われているけれど,でも
顔つきがちゃんとしている。とおもう。うつくしく
なっているとおもう。

なのでね。大丈夫だとおもう。イヤな顔になっていない。

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あと。思いやりがない の件。
というか 親切 というのと こころ というのは別だ
親切 というのはこころがなくてもできるんだよ みたいなことや
それに類似するはなしを春樹くんもばななちゃんもしていて
なるほどな とおもった。

わたしがうまくいかなくなったひとたちはたいてい
わたしの職業的な知識や 表面の親切にひかれてやってきていた
ようにおもう。 わたしは職業的な知識を親切に基づいて出していた
というか それを道具にひととつきあおうとしていたのかもしれない
とおもう。

ほんとうのやさしさがない 思いやりがない
ということもあるかもだけれど
職業的知識を取り払って
ひらいてつきあうことができなかったひとたちが
はなれていったのかもしれない などとも思った。

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ともかく 次のステージにいっていいんだろうな
と いままでと違う感じで響いてきたので
わたしはわたしの顔を信じて いまからを生きようとおもう。



2016年4月28日木曜日

夢の作業

なんとなく今朝はすっきりしているようなこころもちでいて
なんでかな と思って通勤している途中に
今朝見た夢のことを思い出した。

むかし付き合ってたひと ーくわしくは誰だかわからないけど、
たぶんこれまで付き合ったことのある3人と
例の若者くんのぜんぶを合わせた集合体みたいな存在だったとおもうー が出てきたのだ。

そのひと(?)に、「元気だった?どうしてるかたまに気になってたんだよ。
元気なのがわかってよかった」というような趣旨のことを言われ、
ほんとうによかったなぁ
と思った夢だった。

ああ神様(のようなもの)。わたしの夢の作業はようやく
ここまできたのですね。


そんなわけですっきりしたこころもちだったようであるわたしは
行きの電車で聴いてたあいちゅんから
エレカシの「さよならパーティー」が流れてきた際、
あ、そっか。
このうたはこういうことだったのか
とかなんとか 思ったのだった。
いや、宮本くんの思いはまた別にあるにしても。
このうたがいまのわたしにとって示してくれている意味が
すうっと 入ってきたのだった。

さぁ。もうパーティーからは抜けて、わたしはわたしの暮らしへ
もっともっとコミットしていこう。

2016年4月22日金曜日

信じるとか信じないとか

また同じこと言ってるよこのひと、てやつですね。ええ。
でもたぶん おなじようなことをぐるぐるしておなじようなことを言ってるように見えても
0.1みくろんくらいは何か違ってて、なのでそうやって
少しずつ変わったり バージョンアップしたり
根付いたりなどなどしていくのだろう。な。

で、わたしは基本 ひとに好かれると思ってないんだな
というのがね。抜けてないわー、と。

ここしばらく わたしは不安でいっぱいで、オットの言動の裏を読んでは勝手にかなしむなどし、
わたしは〜なのに みたいなことを思ったりしてつんつんしたり
弱ってみたりしていたのだけれど、
それがなぜ起こってるかって
相手の好意を信じられてない からなんだよね、という。

もちろんむかしはもっとひどかったので、
どーせ言うほど思われてないのだから
と根底で思ってることを言い訳にして
こっちの気持ちをさんざんぶつけたり、言い募ったりしていたのです。 と、いうことに数年前に気づいたんだけど、
最近また似た傾向になってる気がして。相手が信じられてないから
ちょっといつもと違うことされたら
ああこのままきっとダメになっていくんだ と勝手に思い込むなどしてかなしんでしまい、
そうじゃなくて 相手の状況がいつもと違うんじゃねーの?ということに思いを馳せられない。

馳せてるつもりで馳せてない。なぜならわたしを思ってるわけがないことゆえの行動に違いないと思ってるから
みたいなね。そんな感じのもうね。ははは。笑うしかない。


アレです。もうじぶんのことに必死なわけね。相手の基本にも愛があることを信じることができてない状態なんだからね。

おそろしいことです。

でも そうじゃないんだよなぁ。


すべての人間関係にこの法則があてはまり、わたしの残念ぶりが引き起こしたことである
とは思わないけど、でも、わたしはもっと
これからわたしの在りようを変えてゆくことができる
というか、その準備はさんざんしてきたのだから
もうあとはそこに委ねるだけじゃん
と思ったのだった。


何言ってんだかな。ははは。人生は続く。

2016年4月13日水曜日

絶賛嫌われ期

さて。新年度になりましたが、何年か前よりその片鱗が垣間見えておりました 嫌われ期、
絶賛継続中でございます。

別に継続したいわけではないんであるけれど、まだ続いているからには
わたしにはまだ 学び終わってないこと があるのだろう。

わたしがわたしであること をうまく扱うことができずにいるということなのかもしれないな
と常々思っていたけれど、なんかもう、いろんなものが漏れ出て、
それがいろんなひとのこころにいちいち
かちんかちん当たっておるのだろう。

だいたい。Facebookのようなツールでも あきらかにわたしの投稿は非表示にしてるんだろうな
というひとが何人かいるし、
軽い写真だけのツールでも、なぜか突然 やりとりを停止されたりなど。
写真についての「いいお天気ですね」的やりとりしかしていないにもかかわらず。

いるだけで嫌われる、疎まれる という経験は小学校高学年から中学校在学中ずっとあって、
そのときの感覚を思い出す。

高校から すとん とその感じから抜けたけど、わたしの根っこにはきっと
あのときの感じが残っているのだろうなぁ、ともおもう。

何様やねんあいつ、感。

ちょっとお高く止まる感じが、なくはない。たぶん。
むかしよりずっと減ってるけど。
そんなのが、「いいお天気ですね」にもあらわれてしまっている
ということなのだろう。

そして、触媒みたいに合わせるというのがなくなって自由になったりしたというのとそのへんとが相俟って
もうそれはそれは
鼻持ちならない感じ に見えることがあるのだとおもう。


ともかく。ちゃんと学んで、ちゃんと抜けられるといいな とおもう。

2016年2月15日月曜日

基本性善説に基づいてひとを見ている とおもう。
けど、なんだか信じられないようなことを身近な信頼してるひとから聞くこともある。
と、同時に
ひとの気持ちがびっくりするくらい
急速に変わっていくのも目の当たりにしている今日この頃だ。

そしていちどそちらに振れると、もう二度と戻ることはない。
あのひと こういうひとだから
イヤなひとだから
と一度思われたら、何を見てもひとでなしな言動に見えたりして
キライ とか イヤ は加速する。

じぶんを守るために
より一層加速する。

だから、わたしはきっと もう二度とあの場所でみんなと仲良くなることはないだろう。
わたしもじぶんを守りたくて、
分析を施しだしている。

でも辞めないでいるのは、そんなこと思ってるじぶんを
そんなことないよと守りたい
という やっぱり残念な理由が大きいのかもしれない。

2016年1月6日水曜日

この先につなぐもの

あしたで冬休みが終わるので、
本気で重くなった腰を上げ、婦人科に行ってきた。
直截に言って 閉経かも てことで。

もう5ヶ月くらい血を見てないし、
だからたぶんもう終わったんだけど、
万が一何か困った病気とかだったら
ということでね。一応ね。

で、調べていただいたところ、
もうこれは十中八九 終わった感じですね、と。
まだ若いので、骨粗鬆症が心配だから、
むりくり月のもの起こす治療したほうがいいかも
と言われまして。
それはその通りと思うし、
もうわかってたことだけど、
やっぱり ほんとにそうなるのは
ちょっぴりさみしいし、すこし悲しい感じ。

あぁもうほんとうにわたしに子が生まれることはない。

オット、ほんとにこれでよかったのかな。
こんなわたしでよかったのかな。


もうわたしは 直截的な方法で次の世代につなぐ ということはできない。
そしてわたしには、世の中にものすごく役立つすごい能力 とかもない。

そんなわたしだけれど、次の世代が生きる世の中の、
ほんのほんの少しの栄養の何か、みたいな
そんな働きができたらいいなとおもう。

きょうはしみじみこのことを噛み締めます。

そして明日からまた がんばろう。
子はできなくとも、次に何かをつなぐ夫婦になれるよう
オットとたのしく暮らしていこう
とおもう。

夢見る期

 年が明けて 2016年になっています。
オットは年末から12連勤して きのうようやく1日だけおやすみで
きょうからまた働いている。えらいなぁ。

 さて。ここ数年、とくに去年かな。
夢を見ない期 が続いていたのだけれど、もしかしたら
これからは 夢見る期 に突入かも
と思うような夢を見た。おとといだったか。
ほぼ初夢に近い。

 あんまりたのしい夢ではなくて
けっこう壮絶、といっていい感じの。

 どこかの大学とか(そしてそこは
どうやらじぶんも通っているか関係しているか 
な場所なのだけれど)がある駅にきて
その場所に行くのだけれど、
それまでの間 どうやら死体があったり
人殺しがいたりするから気をつけないとね
ということになっているのだ。

 もうストーリーはおぼえていないけれど
何かにぐるぐるつつまれたものがあって
それは死体だなきっと しかも けっこうな
惨殺死体なんだろうな 見えなくなっているけれど
みんな気づいていないけれど と思ったり
途中 かなづちで殴り殺すタイプの殺人鬼もいるから
気をつけないと ってなっていたり
ひとりはじぶんの頭をかなづちでごんごん殴りつけて
顔なんかわからなくなってるみたい とか
そういう情報だけがなぜかじぶんの中に入ってきたり
そういうような夢だった。

 嗚呼。 とうとうきたよ夢見る期。
そして。これはたぶん
去年までにわたしが経験したことごとやきもちや
その他もろもろの そのあと処理をすることになるのだ
ということなのだろう とおもう。
けっこうな壮絶な何かをわたしは落とし込むことになるんだろう。

 去年まで現実にただただ体験することだけを
主にやっていたけれど わたしはそのことを
またちゃんと落とし込む作業をしっかりやることになるのだろう。

 
 惨殺死体そのもの とか 殴りつけてるその現場 を
見ないあたりがわたしっぽいけど。

 さて。そういうふうに新しい年。
ほんとうにほんとうに あたらしい 年。