2014年4月29日火曜日

きょうは新月

 新月の夜なので しかも雨の夜なので
またちょっとばかりさみしいきもちになっているのだった。
情けないなぁ。たのしいこと、いっぱいあるのに。

 まぁ 先日書いた、安売りしそうになってたひと に
頼るとかアクション起こすとかやめよ って思って
つまりそれは あるいみお別れでもあり
そしてお別れというのは どのようなものであっても
なにかしらにダメージをもたらすものだったりもして。
どう考えても ない し どう点検しても
さみしさを埋めたいから という以外に
どうこうする理由もないから わたしはこれをまっとうするんだけど。


 それで ですよ。
残念ながら 女性 としての人生がひとつ 
わたしは終わりかけているのですね。
もうここ1年ちかく ちょくちょく月のものが飛びます。
もうなくなるんじゃないかな。 
こんなはやく閉経すると思ってなかったけど
たぶんもうわたしに子どもを産む能力はない。

 子どもがいてもいいな と思うようになったのは
ほんのここ数年のことで、わたしがそれを経験すべきなのであれば
しかるべきひとがあらわれて 子をもつことになる と
思っていた。 思っていたけど 相手が現れるもなにも
わたし自身に子どもを作るための物理的素地がなくなってしまった。

 きっとこれは ケッコン という形態を今後誰かととろう
と思うときにも ハンデになることなんだろうな とおもう。
おもうけど、でも そのことすら わたしが経験すべき
わたしが通らねばならない道なのだから 
もうどんなふうなかたちであっても 受け入れてゆくしかない。

 このひとと一生過ごしていこう と
一度でも思ってもらえたことがないわたしは
やっぱりなにかが欠けていて なにかが劣っていて
女性としても ひととしても 魅力がないのだろうな
という思いが どうしてもよぎってしまう。

 そのうえ ほんとうにわたしは 女性としての機能をひとつ
終えようとしていて。 あぁかみさま わたしがこんなに
ぼんやりすごしてきたから それなりの
それ相応のものは わたしは引き受けることになるのですね。

 子どもがいて死にものぐるいでがんばっているトモダチを見ていて
すごいな っておもう。 そのトモダチたちに
「いいわよね なんか 余裕がありそうで。でもアナタは
そのぶんこれを知らないでしょ」 と思われていても仕方がない
とすら思ってしまう。 わたしの被害妄想だ。もちろん。

 こういうところから解放されないかぎり
きっと わたしに 次 はないのだろう ともおもう。
誰か に認められることでじぶんを認めようとするのでは
きっとどうしようもない。 あぁだから
わたしは40すぎてからようやく じぶんがキレイになった と
思うようになったのか。 若いころからわたしがこう思っていたら
きっとすこしは男子からちやほやされて それで慢心して
いい気になっていたようにおもう。 そうならないために
わたしはいま こう思えるようになったのかもしれない。
いまなら ちやほやされることはないんだもの。
どうあっても。キレイでもどうでも。
それなのに わたしはちょっと こころのどこかで
ちやほやされることを期待していたのだ。
もうあるわけないのにそんなこと。 
れから先わたしを気に入ってくれるだろうひとは
もうそういう 外見がどうだとか そういうことじゃない
たたずまいを見て そう感じてくれるひとでしかないのに。

 わたしの課題は わたしのいま わたしのこれまで
すべてを含めたわたし を受け入れ 認めることなのだろう。
ほんとうの意味で。
プレイとしての反省や自己卑下をするのではなく。

 きょうは新月で あしたからまた あたらしい日々がはじまる。
わたしはもっとわたしになる。 わたしが出会うべきひとに出会い
出会うべき出来事に出会っていく。
ぜんぶぜんぶ 経験していくんだ。 もっともっと解放していく。
劈いていく。 開いていく。 拓いていく。

 



2014年4月26日土曜日

夢を見た

 ものすごい夢を見たのだった。

 あぁこんなふうに思い切らないと
わたしは思い切ることができないくらい
やっぱり深くかかわっていたのだな と
おもった。 そのことを 思い知った。

 そして じぶんを正当化したい というか
みとめてもらいたい みたいな 甘えたいわたし
もばっちり夢に出ていて 夢はすごいな
とおもったのだった。

 

 夢に出てきたあのひとは
驚くほどに派手な様子で登場したうえに
とんでもなく自由なふるまいをしていて
わたしをとびこえて勝手にわたしの母親とつながる
ということをしていて、それをわたしは許さず、
夢の中の母親も困惑し 退場してもらう という
そんな夢だった。

 わたしの中の物語は あのひとがわたしの 母的な部分
でもってわたしに引きつけられていたのだな
ということになっているのだ と思った。
母的な すべてを包み込むような部分がないわたしには
意味がないのだろうし わたし自身も そして
わたしの中にあるであろう 母的な部分もまた
そのことをよしとしないでいる という そういうことを
夢があらわしたのだろう。もうわたしは
つぎの局面に進んだのだよ と。

 もちろん あのひとにはあのひとの物語がある。
まったく違う物語だとおもう。

 けれど わたしがわたしの物語を生きるにあたっては
この出来事を わたしはこんなふうにわたしの物語に落とし込み
そうして次の物語を綴ってゆくしかなかったのだろう
とおもう。

 わたしはそれを 選んだのだ。
夢がそのことを 教えてくれた。


 そして 夢ではさらに そうしたことを
まわりのひとに弁明する場面が続いて
そこでわたしは 甘えたいわたし を認識したのだった。





 とにもかくにもわたしは いまここ にいる。
もうわたしは わたしが進むように進むのだし
これからが劈けてゆくこと にもじぶんを明け渡してゆく
しかない。 そのことをやってゆくのみなのだ。


****************


 ところで。

 安売りしそうになっていたひとに
もうそんなことをしなくてもいいんだなぁ と
ちゃんと思えた。 むこうも その気はないよ
って あらわしてくれたし わたしもそれをみて
あぁもう終わったんだな と思えたし。

 じぶんの課題にあったひととしか出会わないし
じぶんの課題をクリアするためのことがかならず起こるもの
なんだな。 なーんて。 事故みたいな ただそれだけ のことも
もちろんあるとはおもっているけれど。


2014年4月19日土曜日

なさけないわたし

 いやぁ こんな歳になってまで 恋愛のことで
まだまだバカだな とか思ったり そもそも
こうしてBlogにそれについて書く とかも いかがか
と思うわけですが ちょっとまだ じぶんのことが
信じきれずに 安売りしそうになるわけですよ。
ちょっと縁ができたら なんか しがみつきそうになちゃってね。

 まぁこのたびは 今までの何か よりはずっとずっと
冷静だ とはおもうんだけれども。 それでも
どうしてもじぶんに自信がないからか
ついつい っていう そういう言動をしてしまうのでした。

 こうなっちゃうのが ほんとにイヤで。
きっとわたしは もっとじぶんの感じたことを
寂しさとか自信のなさで取り消さないようにしていく
てことがいまの課題なんだろうなぁ・・・。
でも なんか やっぱりふらふら してしまっている。


 ださい。 ひじょーに ださい。

もうさ。 いいかげん 求められようとするの
やめようよ おれ。



 ということで ほんと なさけないな と思いつつ
こういうわたしだから 安く見積もられるし
もてないんだなー いまもなお。

 

2014年4月15日火曜日

わたしを生きる

 さてさてもう4月も中盤。 はやいものですね。

 人生はめまぐるしくいろんなことが起きる劇場みたいなもので
じぶんが何かに気付こうと本気で思って見渡してみると
それはそれはもう いろんなことが起きているのです。 ね。

 みんなそれぞれ生きてて ひとはそれぞれ そのひとの何か を
まっとうするために生きてて つい じぶんを肯定したいから
レベルがどうこう みたいなこと 言っちゃう。
じぶんが上で じぶんを苦しめたりなんだりしたひとが下で
とかみたいな。

 でも ほんとうはそういうことじゃないんだ。
わたしはわたしを肯定したいから わたしのいる場所を
上であると思いたい ようなこともあるけど
でも 上であることなんてなくて ただ わたしはわたしの場所にいる
という ただそれだけのこと。


 いる場所が違う という ただそれだけのこと。


 このまえ失恋したあのひとも
わたしよりいろんなことに気付けないひと だから
さよならしたんだ くらいに思っていたけど、
と いうよりも あのひとは あのひとなりの何かをまっとうするために
彼にちょうどいいところにいて それは
わたしより上とか下とか そういうことではないんだろう
と いまは思う。 わたしがわたしで在るために
彼が彼で在るためには 一緒にいても どうしようもない。

 それと同じで その後ぐじぐじした もんのすごく若い彼
とか その絡みで 異常なほどのスピードで近づき
それと同じスピードで離れていった彼女とも
ただもう それぞれがそれぞれで在るためには
一緒にいることは叶わなかったのだ と ほんとうに思う。

 かみさま(の ようなもの)。
わたしはいま わたしがいるべきところにいて
わたしの課題をやっているんだとおもう。

 どれだけつらくても どれだけなにがあろうとも
とにかく わたしはわたしのいるここで
わたしのことをするしかないのですよね。

 上 とか 下 とか 正しい とか 正しくない とか
なんかもう ほんとうにわたしはもう そういう二分法から解放されたい
し その二分法から解き放たれるための課題をずっとずっと
しているのだとおもう。

 つらいことはたくさんあるけど
それでもわたしはあいかわらず中途半端だけれど
でも わたしがわたしであるために これからも
こうやってすすむよ。

 がんばります。 わたし を生きます。

2014年4月8日火曜日

残念ながら それでもやはり 還したい

 結局のところ じぶんを肯定したい。

 結局のところ じぶんの在り方がこれはこれでアリなのだ と思いたい。

 ただそれだけ なのかな と思ったりする。残念ながら。
超絶にださいけれど。

 じぶんのじんせいが ものすごい勢いで劈けていって
とおもうぶん 痛いこともおなじくらい起きて
それでもわたしは いまのじぶんを肯定したくて
そのための言い訳をたくさんしているのに過ぎないのでは
と思うことがあるのであって。



 いまのじぶん に釣り合った じぶんに相応したひと
というのがあらわれて 一緒にいるとき が終わると去っていく。


 あぁかみさま(の、ようなもの)。
だから(だけど) やっぱりわたしはわたしを肯定します。
そうして できることをできるぶんずつ できる範囲で。
受け取ったら そのぶんきちんと 還せるように。

 

 

2014年4月6日日曜日

あしたから

 ながいはるやすみがおわって
あしたから新学期。 お仕事再開 です。
ことしのはるやすみも いろいろなひとと会ったり
いろいろなことがあって とてもたのしかった。
この季節は いろんなことをかんがえる。
いろんなことをかんがえて いろんなきもちになって。

 たのしい日々をすごしたあとは
ひとこいしくなる。 ちょっとだけ さみしくなって
恋愛したいモードが高まってしまう。

 でも このひとこいしいかんじが
そこまで長く続く気がしないから
さみしくて ついあまえたくなるのは
いまだけのような 気がするから
そういうふうには まだ あまえないでいる。



 過ぎ去ったむかし つきあっているひととか
つきあうことになりそうなひとに 
そういうふうに あまえることができたのは
もしかすると 相手のきもちがわたしにないことを
わかっていたからかもしれない。
最初から 見てもらってないから
テキトウにあしらってくれる とわかっていた。
わかっていたけど それはつらくてさみしいから
もしかしたら 見てくれるかも と
どんどんあまえたのだとおもう。
アタマがわるかったなぁ。

 いまは そのときとは違っている。

 お互いの立場とか 状況とか 
そんなのかんがえて 踏み込めないでいるけど
でも じぶんを安売りする必要もないから
矜持をたもっていられるように おもうのだ。

 なーんていっても ちょっとはあまえたいけど。
そういう夜が きょうだけど。

 
 あしたから 新学期だから。

 

2014年4月2日水曜日

葛藤しようぜ

 去年のいまごろにここに書いたものを
ちらちらとながめてみたのであった。

 そうしたら 似たようなことを書いている。
当たり前だけど。 でも ちょっと違う。
すこしずつ 大きいテーマとの向き合いかたや
切り口や とらえかたや そんなものが変わっていて
わたしなりの進み方をしているのだな と
おもうことができた。

 いまでもテーマは やわらかく在ること
主体性をもって わたしがわたしで在る こと。


***************


 誰かの何かを増幅させて示すこと で
トクベツに思ってもらおうとするようなことはやめたい
と、気付いた去年から言っていて
そんなことはしなくても大丈夫だ とだいぶ
染み付いてきた とは思うのだけれど
そうなってきたときに その感じ と 
場とのバランスがぶつかる感じ が
鮮明になってきたな などと思っている。
おそらく 誰しもがあたりまえに どーすっかなー
みたいな感じで苦慮してスタンスを決めたりしてきたところ。

 わたしは もともと触媒みたいなところがあって
拾って増幅させるのが得意だから そして かつては
それがわたしの存在価値であるとして疑いもしなかったから
あまり葛藤なくそうしていたようにおもうけれど
気付いてみれば 葛藤するものじゃないのこれって という
そういう事ごとであったのだ。

 えーと。 なんていうんですか。 
誰に対してもいい顔 って できないよね
ていう そういう。あたりまえすぎて死にそうなやつ。

 あなたは どう思うの? 
あなたは この人との関係をどうしたいの?

 みんながそのひととどんな関係でいて
どんなふうに思っているか に気付くことも
それはたいせつかもしれないけれど
わたしがどう思うか ということがいちばんたいせつで
そこをあらわすことができない限り わたしはまた
おなじ課題を何度だって ひどいかたちで繰り返すことになる。


****************

 という ひととして在るときにあたりまえの基礎
みたいなところを わたしはまだやってたりもするのだった。
それでもやはり 去年とは違うわたし。
いまこの瞬間に わたしをとりまく 
わたしの 外的 内的 双方の世界をたいせつにして
起きたことを 起きたこととして受け入れる作業を
これからも。