2014年2月25日火曜日

ことばのこと その後

 ことばについて をせんじつ書いて
それを読んでいて あぁそういえば はじめてBlogを書きはじめたのは
まだケッコンしていて そして ことば を封じられている気がして
つらくてつらくて仕方がなかったときだったな というのを
あらためて思い出した。

 わたしはことばを使ってこそわたしで 
ことばはわたしをいつも守ってくれたし
わたしはことばの内側にいた。 だから
ことばを煙幕みたいにして わたしはわたしを
見ないようにもしていたし その あやふやなことばから
わかってほしい とばかりおもっていたし
ことばのとげで どんどん相手を刺すことだってできた。

 ことば はわたしをあらわすときの
中心にあって そこからわたしは成り立っているかのようだった。


 けれども。 いまはもうわたしは
そんなふうに思わなくてもいいし 
わたしのことば を気に入ってくれるかどうか とか
わたしのことば じゃないところを気に入ってほしい とか
そういうことから 気がつけば 抜けているのだな
とも おもった。

 もちろん わたしの発することばをすきだ と言われたなら
それはうれしいことだけれど、
それが わたしを知ってもらうときの おおきな必要不可欠な要素だ
ということは もうないなぁ というような。

 どこをどういうふうに知ってもらうのか
見てもらうのか わかってもらうのか は
ひとそれぞれで そういうことをもうたのしんでいこうじゃあないか
ということをね、 て超遅い気づきだが。

 ことば も つかう と書いた。そのとおりで
これからもわたしは ことば とつきあっていく。
でも もう いろいろと解き放たれていいのだ。
さまざまな痛みは 解き放たれてゆくときに
どうしたって 生じた何か だ。 だからいい というのでは
なくてね。 ここ重要なのだけど。

 わたし は わたし だ。
わたしらしいなにか ではなくして。

 

2014年2月23日日曜日

ことばのこと

 わたしの ことば過多 な性質は
歳とともに目立たなくなっていっている ような気がしなくもないけど
でも こうしてBlogに長文を書きつけてみたり Facebookにも
そこそこな口数でものを言っているところを見ると
やはり ことば過多 な方であることにはかわりがないのだと思う。

 わたしはプロになることができるほど文章が上手なわけではないけれど
素人としては そこそこ みっともなくない程度に文章を書くことができて
それもあって むかしから BlogをしたりTwitterをしたりすると
コアなファンのようなひとができたりしたりもした。
そこを入り口として 仲良くなった(しかも相当に)ひとたちもいたし
わたしの ことば というものは わたしをつくる かなり
重要な要素だった とおもう。 わたしのことば によって
わたしはいろいろなひととの関わりを得たし、ことばがあったから
つながったひとたちがたくさんいた。

 ことば というのは それを発しているひとの感じとか
そのたたずまいとか そういうことと 
わかちがたく結ばれていて なので いちど 
発しているわたし本体 についての価値に疑問が生じたらもう 
そのわたしが発することば には まったく意味がなくなるし
それどころかおそらく それまでに発していたことばたちも
空虚で 何の意味もない 陳腐で残念なもの に
なってしまうのだろうとおもう。

 あたりまえだけど。 そういうのもぜんぶ
決まっていたことで それをどういうふうに じぶんのものとして
受け止めて 活かしていくのか ということだけが
わたしにできること。 おなじようなこと何度も言ってるけど。

 いまのわたしが なにをどういっても
こころの奥に通じていない ことばあそびをしているにすぎないのだ
としか思わないひともいるとおもうし そう思われるに至ってしまったのは
もうどうにも致し方ないことだとおもう。致し方ないことだけれど 痛い。

 こういう思いとかすべて ぜんぶぜんぶを やってゆくのが
じんせいで わたしをまたわたしにひとつ近づける
唯一の方法なのだとおもう。 そしてその過程にあって
わたしはいまも こうして ことば をつかう。
ことば も つかう といったらいいのかな。 がんばろ。





 

 

2014年2月21日金曜日

後輩くんと

 昨日は後輩くんとひさしぶりに2人で飲みにいった。
うちの近所の焼鳥やさんで鴨のハリハリ鍋とか食べて
あまりにおいしかったものだからたくさん飲んで
いろんな話して ほんとうに気楽で たぶんおたがい
一緒にいてたのしい とおもっているのだろうな と思えた。

 でもその気楽さは 恋愛とかを超越したところからきていて
超越してるけど おたがいが 男 であり 女 であるという
そのあたりがまた 絶妙な感じで。

 そしてゴハンもお酒もおいしすぎてたのしすぎて彼は終電を逃し
うちに泊まっていったのだけれど 
じぶんでもびっくりするくらい そのことに動揺がなく
実際何もなく ほんとうに女の子のトモダチが泊まりにきた
よりももしかすると気楽な感じで過ごした。あたりまえに
わたしはベッド、彼は床に ふつうに寝て 朝起きてまたいろいろ話して
ふつうに湯につかりふつうに朝ごはん食べたりした。うっかりしたら
彼の前であたりまえに着替えそうになるくらい 動揺がなさすぎた。

 相当にいい歳をした男女が ひとばん一緒にいて本気でなにもない
なんて たぶん誰も信じないだろうし、じぶんでもそんなことがあるとか
びっくりするけど でも 彼とは自然にそういう なにもない夜 になる。

 まえにもたぶん書いたことがあるけど
おたがいを 異性だ とおもっている感じがあってこれ というのが
不思議だしおもしろいし おそらく わたしたちにしかないトモダチ関係だ
とおもう。

 彼はほかのひとがいるときによく さらっと 
わたしの外見が若い頃よりどんどんよくなってる とかいって
ほめてくれたりするのだけど なにかのサービスだろうか。
まぁそういうふうにして わたしが残念な思いをしないように
気を遣ってくれているのだろう。そういうことひとつひとつ
なんだかありがたいし なんでも話せてうれしい。

 だがしかし。 この先をこのひとと生きていく とか
そういうのとはやっぱり次元が違っていて 
わたしたちはどこまでもトモダチなのだとおもう。

 不思議な縁だけど こんな感じで続くといいな とおもう。
おたがいに彼女や彼氏ができたら もう2人だけで会うことは
ないのだろうけれど。 それもまたよし(©コイソモレ先生)。



 

2014年2月17日月曜日

あのひとに

 たぶんだけど。

あなたがおもっているより

ずっとずっと いいかんじのわたしとして

いま ここにいるのよ

と 言いたい。 

言いたいけど でも

一切 伝えるすべがないほどに

遠く遠くにもう

はなれてしまったわたしたちであることも

わかっている。

2014年2月16日日曜日

かんがえてみたりかんじてみたり

 やっぱり 切る ていうのは苦手だな とおもう。
切ることができないから 続ける理由を思い込んで
みょうなかんじにのめりこんでいく ということは
もう する必要はないから やってないとおもうけれど。

 このたびのミッションはなんだろうか。
なんとなく切らずにいたら それなりのなにか は
出てくるのかな。 もうすでに こういうふうにやってる感じが
あたらしすぎて 驚くんだけど。

 ということで こういう面ではまだまだ
思春期青年期の課題をやってるんだな とおもいます。
まぁいいか。 あたらしい感じはたのしいんだよね ちょっと。
こころのこえ みたいなものを無視しきらないこと
思い込もうとしないこと を目標にしようとおもう。



 さて。 いろいろ気付いてきたところで
やっぱり これでいい ということはないのだろうとおもう。
またつぎが出てきて 気付くべきものに気付いて
それと対峙することになる。

 外向 とか 内向 というかんがえかたがあって
わたしはじぶんが 内向 だとおもっている というか
内向でありたい ようなところがあった。

 それはそのまま 放っていたんだけれど
きょう読んでいた本に 外向にしろ内向にしろ
対象に向かう という点では同じだ というようなことが
書いてあって あぁほんとうにそうだなぁ
おなじことなんだよなぁ とおもったのだった。
おもいいたったのだった。

 内向でありたい 内向である とおもっていても
うちにあらわれるモチーフや感情やイメージといった
意識しているこのわたし というものとは離れた
対象 と出会うことになるわけで
それは 外向 といわれる まわりの人とか
出来事とか そういうものから じぶん というものを
感じ取りつくっていくことと
本質的には同じ作業なんだな みたいなね。

 外のことであろうと 内のことであろうと
生じたものに真摯に なのだよきみ。
だから わたしは 内向でありたい とおもうこともないし
もう両方がある。あたりまえだな。ははは。

 開いてこ。 あらゆる方向に。


2014年2月13日木曜日

それだけのこと

 なにが どうなっていくのか わたしには わからない。
わたしには はかりしれないなりたちの世界に住んでいるひと
というのが 確実にいて そういうひとたちもふくめて
世界が成り立っている ということだけ わかっている。

 世界は ともかく いまあるこのようなかたちでもってして
世界なのだし。

 どうしてそうならなければならなかったのか
とか もうそういうのもぜんぜんわからなくて
でも とにかく そうあることは そうあるべきように
そうあって だから もう このままいくしかないんだ
と。 そのことばかり おもって。

 なんだったの?

 て なんでもないんだよ。 ただ そうであった それだけ。


2014年2月8日土曜日

びーるをのみながら

 きょうもびーるがおいしい。 シアワセ。
ひとりで飲んでるけど シアワセ。

 こんなふうに ほわー っとしたきぶんになって
うふふ あはは って 気兼ねなくおもって
こうやって生きてこう みたいなことをおもって
わたしはほんとうにいま 生きててよかった。

 たくさんの後悔や たくさんの失敗や
たくさんの残念なことはあるけど
いまわたしは こんなにすばらしい世界のなかにいて
そのことは だれにも邪魔できない。

 まだまだ格好つけたくて 格好いいこと言ってしまうことも
あるけど わたしの最近は わたしのきもちに逆らっていないし
わたしのきもちに忠実にいるとおもう。 

 ありがとうかみさま(の、ようなもの)。
ありがとうわたしをとりまく世界。

 

2014年2月3日月曜日

まだまだ

どーにもさばけきれんくて、意味のないウソをつく。
まぁみんなわかってたとおもうけど。かくじつに。

ついうっかり て四十路にもなって言えないのは、
なんでだろうなああああ。

ごめんねみんな。納得したフリをさせて。てへ。

それはともかく。

やっぱり違うもんは違うし、そして、
すこしでもジョシ扱いしてくれるひとがめずらしいからといって
しがみつく必要もない。
というか、このたび、しがみつく必要も感じなかったし、
去年のアレのように減った感じもなかった。
わたしも ちょっとそうしてみたかったからだろう。
愛のなさはともかく。
この執着のなさに、おのれの進歩を感じたりして、てバカかおれ。

てことですべてはまなび。遊びならいいです、て占い師さんも言ってたし。
(こういうときに使う)

さ。節分。次、いってみよー!