2013年9月23日月曜日

うがー

 うがー。 とかいう題。
うずりんぐるはジョシとしてのおのれへの自信を
またもちょっと なくしつつあるのですよ。

 まぁ 単に そのとき がきていない っていう
それだけのことかもしれないんだけど
まだまだ なんだなー。

 きのうは 大学時代の同級生男子(独身)に
うず潮ツアー に連れて行っていただいたわけですが。
なんかこう ひととして の由緒正しいおもてなし を受けた
というか わたしが 見たい見たい と言い募ったものを
ひととして しっかり見せてさしあげましたよ 以外の
なにものでもない空気がすごくて ほんとうにごめんよつきあわせて
ていう そういう感じでありました。

 わたし だいじょうぶだろうか。

 でもまぁ いいもの見たし これはこれでよかったかな と。
高校生のデート みたいだったけど いまになって
そういう ひととして なつきあいがたのしめるのは
オトナになったからこそ なんだもの。

 さ。 日々をがんばろう。わたしをもっと 深めてゆこう。

 それだけだよ。わたしにこれから できることは。


2013年9月13日金曜日

そういう いま。

 すがすがしくて ちょっとかなしい。


ここのところのまいにちは そういうかおりのなかにある。

 おまつりがいちばんもりあがっていた
2ねんまえの今ごろまでよりも そのあとの 
じくじくした1年数ヶ月のこれまでの時間のほうが 
わたしにとって ずっとずっと たいせつなものになっている 
とおもうし、とくに ハワイから帰ってのち 徐々に 確実に
でも実はけっこうな速度でいろんなことが変わっていったことを
わたしはきっと きっとわすれない。 
5年後 とか 10年後 とかになって なつかしく思い出すのは
この ハワイのあとのいろいろなんだろう とおもう。
おまつりがあったことよりも。たぶん。

 
 いまのわたしは フラだったり ともだちとの日々だったり
仕事だったり ともかく 日常生活 というものを
じぶんですべて経験しながら 噛み締めるようにおくることが
できてきている とおもう。
これまで感じたことがなかったような
いま ということに焦点が当たった感じとか
とにかくそうして 目の前のことを ということが
こころの底からの思いとしてわきでている
そのシアワセを いとおしくおもっている。

 すがすがしい のは そのきっぱりとした いま。

 ちょっとかなしい のは
もう二度と出会うことのない 過去。 
わたしはもう あんなふうなこころもちで 
誰かと関わることはないだろうし 
もう二度と とおもうほど 離れてしまったことに
胸がすこし いたむ。 いくらもう いまではそう在りたくない
とおもう関わりかただったとはいえ 
あのときのわたしは真剣だったし 
そばにいたひとたちを たいせつに思っていたのだ。

 けれど そのかなしみをわたしはきちんといだいて
そのうえで このすがすがしさをしっかり感じて
そうして また次の場所にゆくのだ。

 いろいろなことがすばらしくて わたしはいま
すぐに泣いてしまう。 あぁどうしてああいうふうにしか
いられなかったのだろう とむかしのことを思って
その感傷もあるのかもしれない。




 

 求めよ さらば与えられん。 望めば 叶う。 
よく聞くこれらのことばのほんとうの意味は 
みずからときちんと向き合い
みずからに真に必要なものを感じるちからをつけなさい
ということなのだとおもう。 そしてそのことに
素直で忠実で誠実であること。

 2年まえのわたしよ。2年前にあなたが想像していた未来に
わたしはいないけれど でもたぶん あなたがあのとき想像していたいまより
現実のいまはもっともっと ちからを持っているよ。



 

2013年9月6日金曜日

かないますように。

 きょうは健康診断が終わったので
ひとりだいすきないつものビアカフェに
飲みに行きました。

 びーるもおつまみも おなかいっぱいになるまで。
いつもならやめとこかな ってとこまで たらふく。

 ひとりでお店にいって
特に誰と話すこともなく
おいしいお酒と おつまみをいただきつつ
ぼんやりして 考えごとして
むかしなら ほんの数年前までなら
落ち着かなかったであろう そういう時間が
とてつもなくシアワセで 
そのことだけでも 生きててよかった とおもう。

 かみさまありがとう ほんとに人生はすばらしいです。
これからどれだけ いま想像もつかないたのしさがあるのか
とおもうと ほんとうにたのしみ。
もちろん それと同じくらい
想像もしていないような悲しみや苦しみも
あるかもしれないけれど。 でも。それでもなお。

 
 この感じをいつかちゃんと向き合えるひとと
わかちあいたい。 それがいまの わたしののぞみ。

 

 

2013年9月2日月曜日

秋になる夜

 夜の風が涼しくなったからだとおもう。

 またすこし こころぼそいような 
そういうこころもちに なっているのは。 
こういう波を どれだけ越えると
このこころもちが もうずっと過去のものになるのだろうか。

 なーんて。 いうのもまたプレイ、というか
わたしはまだまだ いうてもひとりじゃんバカ という
自虐プレイを 完全にはやめられないでいるらしい。

 
 だれかとつくってゆくものの その途方もない険しさと
けれど ひとりではなしえない輝きと その両方に
わたしは焦がれているのだ。 わたしはそのどちらをも
まだ見たことがない。 そうなるまえに すぐに手を離したし
手を離された。 嘘。 手を離されるよう しむけた。

 アタマでは ともにつくってゆくことを望んでいたけれど 
きっとわたしには まだ準備ができていなくて 
それで ニセモノのあまい何か
糖衣錠のような うさんくさいあまさをまきちらして
そして そんなものはすぐに 粉々にくだけてしまって
わたしのこころのそこから出たのではないあまさは
消え去ってしまった。 わたしが彼らに求めたものは
おなじような ニセモノのあまさだったのではないか。
そんなニセモノがお互い続かないとわかっていたから
苦しかったけれど わたしは 手を離されたことに
手を離したことに どこかほっとしていたのではなかったか。
そして そのことに薄々気付いて それに慄然として
それがまた わたしを絶望(と言っていいかもわからないくらい
ささいなものだったのかもしれない)させたのではないか。

 
*******************


 わたしはうつくしくなった。 おそらく
いまじんせいでいちばんうつくしいのではないかとおもう。

 こうして書かなければならないくらいだけれど
つい誰かに たしかめたくなったりしてしまうけれど
わたしは2〜3年前におまつりがいちばん盛り上がっていた頃より
ずっとずっと うつくしいとおもう。 
わかるひとにはわかるだろう とおもう。

 けれどもしかすると それは単に
わたしがいま ニュートラルな 出発点のようなところにきた
というだけなのかもしれない。

 うつくしくなった ということはつまり
後ろ指さされるような不細工ではない と ようやくようやく
思えるようになった ということで そもそも
そんな不細工であること自体あまりないことなのであって
その 妄想 といっていい呪いから わたしがようやく
解けた というただそれだけのことなのだろう。


*********************


 失恋してすぐに わたしはフラを始めて
今月でもう 1年8ヶ月ほどになる。

 当時いろんなものがぼろぼろだったわたしの
フラは希望だった。 わたしはこれをやらないとダメだと
必死だった。 いま フラはとてもたのしいけれど
しかし だれかとつくってゆく 険しさへの覚悟をまだ持ったことのない
つまり ほんとうには 愛 をしらないわたしに
フラを踊る資格があるのかどうか わからない。

 いつかもっと上手になって 技術の壁以上のことが
たちあらわれるときが来たとして そのとき
わたしには ALOHA を表現するだけの それだけのものが
果たして備わっているのだろうか。 その入り口に立てるのだろうか。


*********************


 いまはひたすらただ 踊るしかなく
ただひたすら 目の前に起きることすべてを
貪欲に経験してゆく という ただそれだけなのだ。
愛 はいつかついてくるのだろう。 時がくれば。

 もし くることが必要であるならば。


*********************


 ほんとうに だれかとつくりあげることを
ニセモノではないあまさを わたしはこころの底から
にじみ出させることができるだろうか。

 その愛を持っているかどうか 
その愛を経験するに値するにんげんなのかどうか
というのが わたしの次の課題なのだろう とおもう。