2017年12月31日日曜日

2017年のおわりに

 そうです。きょうは大晦日で、明日から世の中は
2018年になるんです。ずいぶん放っておいたブログ。
誰も見ちゃいないブログ。でも、ここ数年
書いてまとめるみたいな部分を
ずいぶんと担ってくれました。ありがとうブログ。

 それはともかく。あいかわらず続いてるのよ
絶賛嫌われ期。もちろん みんなに ではないし
仲良しとは仲良しだし、オットともそこそこ
関係を作っていけていると思う。

 けれど 多いのはアレです。Face Bookで
あきらかにわたしの情報を非表示、もしくは
見ないようにしている というひと。
しかもそこそこの仲良しであったひとで。
どうして?何か嫌な思いをさせた?
と 聞けばいいのかもしれないけれど
聞く勇気がない というより 聞いてなんとかしたい
というほどに思えていないところが問題な気がする。

もちろん 何か嫌な思いをさせたから
こうなっているんだろう。それはよく考えたら
わたしもやったことがあることだから。
当時仲良くしていたひとが とあるひとに
とっても傷つけられた、ひどい という話を聞いて
わたしも それはひどいなぁ と思ったときに
色々総合して そのひとと交流することが
当時仲良くしていたひとにいやな思いをさせるのでは
というほうを優先させて そのひとの記事の
表示をさせないようにしたり反応しないようにしたり 
ということを確かにしたことがあるわけです。

それがじぶんに返ってきただけのことなんだよね。
全然別のかたちだろうし、理由も違うだろうけれど
このひとの様子は見たくない 見るに値しない 
と結論づけられるに至ってしまったのは
そういうわたしが呼び込んだこと。

 アホである。 やっぱりね
じぶんがどう思ったか じぶんがどうしたいか
が大事なんだよねぇ。わたしの触媒的なところは
わたしがじぶんを何かから守るための
ずるい道具でもあったんだ。それを手放せずに
いるところがあったのかもしれない と思う。

 ことしはもっと主体的にやっていくことを
怖がらず、もっと責任を持っておのれを生きることが
本気で求められている(神様のようなもの に)
とおもうのだった。

 でも わたしにはそこまでの わたし が
もしかするとないのかもしれないなぁ
とも感じる。 あるけど ない っていうか。
そういうところがわたしの個性なのかもしれない。
中途半端の中途半端たる所以な。

 
 わたしの発言だけを無視するひと
というがいたり、上記のようなことがあったり
というのがあるともちろん傷つくけど、
その傷つきからじぶんを守ったり
立ち直るために そのひとたちを
悪 とすることのないようにしたい。
気をぬくとすぐそうしてしまいそうになる。
名越せんせいは 悪というのはいったん住み着くと
どんどんその勢力をひろげていってしまう 的なことを
言っていた。ほんとうにそうだ とおもった。
その悪を立証するために、いろんなことを
その悪の根拠としてしまうというようなこと。
そうならないようにしないと。

 傷ついた ことは そりゃないほうがいいことだけど
いい とか 悪い とかではなくて
そうあっただけの事実。そのことを忘れないでいたい。
傷つけたひとが悪い あのひとはこうだから
あのひとはああだから とならないようにしたい。
というか、そうすればするほど わたしのこころは
どんどん豊かさをなくし、貧しくなってゆくだろう。

 2017年に学んだことの結論はないけれど
学んだことを2018年につないで、わたしの旅路を続けよう。