2014年12月31日水曜日

とてもシアワセな

 はいどうも。大晦日です。2014年もとうとう。
わたしがいまのわたしのように感じることができるようになった
そのこと自体がクリスマスプレゼントみたいなものですよ
とかここにも書いた10日前だったのだけれど。

 その後10日でまさかこんなことになるとか
想像だにしていなかったけど 起きるときには起きるのね。

 冬至で新月で という19年に1度しかないその日に出会ったひとと 
わたしはそののち おつきあいすることに。
きゃー。

 こんな冗談みたいなシチュエーションで
わたし騙されてるんじゃ? とか考えたりすべきかな
とも思ったけど、何かが走り出すときの
いいタイミングでことが起きる流れとか 
そういう感じのほうを 
一緒にいてイヤじゃない むしろ ちょっと知ってみたい 
と思ったその感じを
わたしは信じてみよう と思った。

 しかも。こんなことははじめてだけど
彼はわたしの笑顔にやられたそうだ。
(これはさすがのおれもBlogにしか書けない(照))
これまでのわたしは ネットが何らかのかたちで
介在したツールによって知り合ったひととばかり
つきあっていたから、わたしを気に入るルートは ことば
だった。 それが。 はじめて ことば ではないところから
わたしを知ったひとに いいな と思っていただけたというのが
ほんとにうれしかったし 斬新! なことなのだった。
わたしも ことば からのたたずまいではなくて
そのひと本体からのたたずまいを気に入って そのひとと
つきあってみよう とおもうことができたわけで
そのことも 斬新! なことなのだった。

 もうひとついうと わたしにとって
うまれてはじめての近距離恋愛で、たぶん徒歩10分以内のところに
彼は住んでいる。近すぎて大丈夫か? とちょっと思ったけど
うまいぐあいに仕事の休みがわたしと違っているから
徐々に仲良くなってゆくこともできそうだし
ほんとに仲良くなったら 休みが違っていても
近さを活かして 会いたいときに会うこともできそう
というなんだかちょうどいい感じなのだった。

 
 冬至で新月で あぁほんとうにこれからあたらしい年
と思っていたら そのタイミングでこういうことがあって
だから わたしはこの縁を大事に育ててみよう とおもう。

 フラを中心に というのは変わらないんだろうな
とおもうけど、このひととの関係が わたしのフラに
プラスになるようにもおもうし
きっといまこうなったからには こうなるなりの何か が
あるのだと思えるから。

 ひさしぶりにちょっと浮かれてます。うれしい。しあわせ。

 2014年のしめくくりにこんなことがあって
名実ともに ほんとうにシアワセないちねんになりました。
ありがとうございました。

 2015年も引き続きどうぞごひいきに。よろしくおねがいいたします。




 
 

2014年12月29日月曜日

誰かの何か その後

 トモダチのBlogを読んでいると
生じている出来事や、実際の物理的な動き方 というのは
もちろん違っているけれど、人生でやっている課題とか
そういうのがとても似ている と思ったりすることがある。

とてもはげみになるし じぶんを顧みるときの
別の視点を提示してもらったみたいな気持ちにもなるので
ありがたいな とおもう。 それぞれのことは
それぞれにしかわかりえない としても。

 人生がラクになったのは 相手に求めるぶん
じぶんをがちがちにする ということがなくなったからだろう
とおもう。

 あなたは求めてばかりの最低なにんげんだ というようなことを
言われたことがあって、そのときはただただ傷ついたし
でも そうなのかな と思うところもあって 
これを認めないといけないのかな と思ったり
でもこれって 言ってるほうも
わたしにそれを求めてるんですよね と分析してみたりもして
ぐずぐずしたとおもう。

 それが。やっぱりフラがわたしをしらないあいだに
ここに連れてきてくれた とおもう。そこで出会った人々や
踊るときのこと。 その日々を過ごしているうちに
わたしはそこからだいぶ抜けたのだ。

 わたしは誰かの何かになりたかったのと同時に
誰かにわたしの何かになってほしかったんだろう。

 けれど。 わたしがわたしでいさえすれば。
わたしがわたしでいさえすればなんでも ってむかしから
口では言っていたけれど そのほんとうのところに
わたしは気がついていなかったのだろう とおもう。

 誰かの何か というところが 知らない間に
気にならなくなっていた。ここまでくるのに
最低のにんげんだ ということを言われないといけなかったなんて
返す返すも情けない感じだけれど。 言ったひとも
とてもとても傷ついただろうから こういうことは
なかったほうがいい出来事だけれど でも 起きてしまった。
起きてしまったのなら そこからわたしは学ぶしかないのだし
そうしなかったらそれこそどうしようもないんだろう とおもう。

 
 なんて。そのあたりがすっきりしてきたら
なんだかいろいろ動き出している ようにおもう。
ひさしぶりのきもちにも なりつつある。ふふふ。

 なんてすばらしいまいにちなのでしょう。

2014年12月20日土曜日

もうすぐクリスマス

 そんな題にしてみたんであるけれども ことしほど クリスマスだ!
ということを感じていない年もなかろう というくらいには
クリスマス感のない年の瀬である。

 一昨年クリスマスの日に親指の甲を包丁で削いだのに続き
この時期の何か として ことしは ぎっくり腰 をやらかした。
ずいぶんと ぎっくり腰そのものではない と思おうとしたけど無理で
結局のところは 中程度のぎっくり腰ですね と言われるような
そんなアレだった。1週間痛かった。 特に月曜日あたりは
もうどうしようかっていうくらい。月〜水のおれ GJ。お仕事だって
月と水は半日ずつ休ませていただいたほどだったのだから
よく耐えました。がんばりました。仕事よりねっしんに
整骨院に通った1週間。 フラをはじめてから練習をしない日が
5日も続いた はじめての期間。

 ことしもわたしにとってはかなりいいいちねんだったとおもうし
去年よりさらにわたしはじぶんの顔が好きになったし
てことで このまますっと終わらせてくれてもよかったと思うのだけど
そうは問屋が卸さないのがおれクオリティ。 やっぱりびしっと
どこか振り返らざるを得ないようにできているのだ。


 ところで。 最近Blogにもあまり書くことがなくなって
というのは むかしTwitterをしていたころには
顔本 と呼んで非常に恐れていたFacebookに いまや
わたしはすっかりなじみ、あらゆる知り合いのいるそこに
わたしをすっかり提示することを厭わなくなり
そうしたら ここでこそ書けること ここでこそ書かねばならぬこと
のようなものはなくなってきた という感じなのである。

 もちろん これでいい ということはなく
きっとまだまだこれからいろいろあるし
いろんなことが変わってゆくのだとおもう。

 わたしがFacebookを怖がっていたのは
いわゆるリアルの 現実世界でじぶんがなじめているのか
いつも不安だったから だし 裏を返せば
じぶんをトクベツに価値あるものと思いたくて
現実世界となじめないもの に仕立て上げようとしていたから
とも言えるとおもう。 いや、もちろん(?)なんていうか
生きにくさ のようなものはあったかもしれないけれど
それはわたし自身が作り出したそれ だったような気がするのだ。
わたしは残念ながら そんなにトクベツではなく
しかしまた同時に そういうこととは関係なく トクベツな
たったひとりのわたし であるのだ。 あたりまえだけど。

 わたしの場合は 世の中の多くの人ががんばって営んでいる生活に
がんばって追いつくことをしなかった。 がんばってもできなかったら
という気持ちもあっただろうし そこになじんでしまって
じぶんの価値が見えなくなるのが怖かった。 それで
なじめないのだ ということにして努力をしない方法を選んだところがある。
おそらく その方法のなかでもがんばってきたこと
やりたい とおもった仕事に就くためのこととか そういうのは
やってきたけれど でも わたしはどこか
生きにくいひとプレイ をしていただけなのではないか
という気もしているのだ。

 今となっては プレイであってもわたしの本質のようなものと
わかちがたくなっていることがたくさんあって
本気で いい! と思うものがちょっと一般的ではなかったり
などのこともあるけれど でもそれは 表面的な
ほんの瑣末なことなのではないか と思うのだ。

 わたしはどうしたって 非凡ではないわたし を
認める必要があったのだとおもう。これまではそういう道のりで
だから わたしの一見非凡そう というか 変わってそう
に見えるところに飛びついた人たちとは 別れなければならなかった。
かなり ひどいかたちで。

 もうわたしは わたしのことを 変わっているね とか
変わっているその仲間だよね というかたちでおもうひとと
付き合うことはないのかもしれない とおもう。
そういう観点からの付き合いのあったひとが 実はここ数年で
みんないなくなってしまったようにおもう。

 わたしがわたしをトクベツに思いたかったばかりに
傷つけたり 同時に傷つけられたりしたことが たくさんあって
そのことはずっと痛みとして残るだろうけれど。

 
 よくわからないけれど 去年行った占いのひとが言う感じからすると
わたしのあんまりよくない運気 みたいなのは
ことしあたりで終わって 次からはまた はじまっていくとき
なのだとおもう。 長い長い何かが ほんとうに終わったのだとおもう。

 こんなことを思えているのが ある意味
クリスマスプレゼントみたいなものだよなぁ とおもう。
ほんとうにありがとうございます。

 
 さて。 わたしがここまでくるのに
BlogなりTwitterなりFacebookなり
ことば を使うツールにはほんとうにお世話になったとおもう。
わたしはあとにまで残ることばを紡ぐことは生業にしていないけれど
そろそろもうすこし ことば をいたわって
こうしてお世話になった ことば に感謝するような
そんな文章を書けたらいい とおもう。

 て、言うても文章が急にうまくなるわけもないし
程度は知れているわけですが でも わたしのことば として
もうすこしていねいに ここには発信 というか
表現できたらいいな と思っている。ことばのために。

 ありがとう2014、ていうかここ数年。 
しにものぐるいでそういってた2年前3年前とは
ぜんぜん違うこころもちで やっぱり 人生はミラクル! と
わたしは言います。 



2014年11月29日土曜日

言い訳としての

 ここ数年ですっかり変わってしまった
というようなはなしばかり ここではしていて
でも もちろん 変わらないこと もたくさんある。
あたりまえだけど。 そして すっかり変わってしまった
というようなことも ある日突然 がらがらと
という変わり方とは違っていたとおもう。
がらがらと音を立てて と言いたくなるくらい
短いあいだに気付いた変化であったとしても。

 変わったり 変わらなかったり で 全般的には
わたしがその時々に そうあるしかないわたし
となっていくわけで。 そうしたときに 変わる
ということにわたしはかつて とても抵抗を感じていた。
すっかり変わる ということがおそろしく
うそくさい感じがして わたしはこれまでずっと連綿とあったわたし
を 見失いたくないとばかり思っていた。

 でも なぜ抵抗していたのかといえば
変わるのがおそろしい というよりも 変わる勇気や
変わるまえとしての いまのじぶん を動かす勇気がなかった
というほうが強かったのでは と思うのだ。

  動くこと をおこなわない言い訳 というのかな。
動こうと動くまいと どうしたって何かは変わっていくし
なるようになっていくのにね。

 動くときには動いてみるようになって
あたらしいことがたくさんあって わたしがいまのようになって
こわがらなくても わたしはずっとわたしだとわかったし
変わる ということを目の敵にすることはない
ともわかった。

 かといって 変わろう とするわけでもないし
わたしはとにかく 目の前のことを感じたり考えたりおこなったり
そうすると 変わったり変わらなかったりして
結果 わたしはある意味ちゃんと わたし になるという方向に
変わるのだ。

 あぁわかりにくい日本語。 でも そうなのよ。
変わったり変わらなかったり なにがあっても
ちゃんと わたしはわたしだ。

2014年11月16日日曜日

そだつ人間関係

 気がついたらもう11月も半ばだったりして
最近 長文を書く欲求 がそんなに生じないなぁ
という感じなんである。

 言いたいことはそこそこ ふだんすでに言えてる
みたいなところがだいぶ強くなっている のと
いまは感じたことをアウトプットするまでもなく
とりあえず体験しとけ っていう そういうときだ 
ていうのと両方あるのかな とおもう。


 さて。フラのステージがこれから半年くらいのあいだに
大きいのが3つあって それに全部出ることにしていて
そんなじぶんにびっくりなのだけれど
それはともかく そういうわけであたらしい人間関係も
ちょっとずつ育ってきているなぁ というところなんである。

 あたらしい人間関係がつくられてゆくとき
ものすごい勢いで変わってしまって終了しちゃったひとたちとの関係を
ちょっとだけ思い出してしまったりする。 職業とかがかぶっていて
そうすると共感のしかたみたいなところが似ていて
またおなじようになったりしちゃうのかな などと思って
ひやっ としたりするのだけれど でも 似ていることがあっても
違うのですよねあたりまえだけど。

 そしてなにより もうわたしの在り方が変わっていて
だから どうしたっておなじにはなり得ないのだ とほんとうにおもう。
わたしの職業による知識に惹かれるひとは  きっといまでもいるけど
でも それはわたしの本質ではないし わたしはもう
わたしの職業による知識を盗もうとするひとと付き合うことはないだろう。
ようやく そのことをわたしのウリにしなくてもよくなっているのだから。
(この書き方にはちょっと語弊があるけど、なんていうのか
知識を必要とされたときに そこがよくて付き合われているのだ
と卑屈になる必要はない ということに近いかもしれない。)


 ともかくやはり わたしがフラをはじめてから学んだことは
おのれのひらき方 というものだとおもう。 ひらく ということを
ほんとうの意味で 流れにゆだねるということを
わたしはすこしずつ ほんとうにじぶんのものにしてきている とおもう。

 人生はこうしてすすんでいくのですね。



2014年10月30日木曜日

だれかの何か

 繰り返し書いていることだとおもうけれど。
ほんとにむかし わたしは だれかの何か になりたくて
トクベツな何か になりたくて仕方がなかった。
わたしはわたしの価値をだれかに決めてほしかったのだろう。



 メサイアコンプレックス というのがある。
わたしとおなじような仕事をこころざすひとに
ままありがちなそれ。 救いたい のは 救われたい から
という それ。
じぶんのなかにそういう要素がないかは つね自問自答していた
つもりだったけれど そしてわたしには
救済者になりたい というまでのものは確かになかったとおもう
けれど でも 誰かにとってトクベツな何かになりたい という
そのこころもちが わたしをいまの職業に導いた部分は
決してゼロではなかったとおもう。わたしはマザーテレサではないのだ。
いやらしい下心的な何かが  なかったとは言い切れない。
残念ながら。

 
 仕事の部分では その部分が知らずと出てきて
残念なことに というのはほぼ なかったとおもう。
慎重にやっていたとおもう。

 でも。 プライベートではどうであったか。
わたしは 誰かにトクベツに思ってほしくて
誰かに すごいね あなたが わたしの唯一の存在
くらいなことを思ってほしくて でも
そんな中身が伴っていないこともわかっていて
びくびくしながら わかったふり をすることで
トクベツに思ってもらおうとしたのだ。
仕事の知識や仕事から得た態度でもって
トクベツな何かになろうとしたのだ。
事実、そこに飛びついて来たひとがけっこういたとおもうし
でもそんなメッキのようなものは すぐに剥がれてしまうものだ。
そして わたしはその無意味さを
ほんとうにほんとうに 身を以て知ることになった。
ここしばらくはそのためのいろいろだったのだろう とおもう。

 

 やっと しみついていたその感じが わたしから離れつつある。
わたしはわたしだ。 わたしは誰かのトクベツであるために
何かをおこなったり 何かを纏ったりしなくてもいいのだ。

 おそろしいことではあった。 何もなくて  メッキもなくて
わたしは受け入れられるのか と。
ところが世界は わたしが丸腰でぶつかると
やわらかくひらき そこにあった。
わたしが 何者でもないわたし である  という
そのことが肝要なのだと感じさせてくれる人間関係がそこにはあった。


 これからもきっと 必要なことや 必要ではないことや
とにかく わたしが経験することになっている運命がどんどん
わたしにやってくるだろう。 でも わたしがわたしでいるかぎり
ほんとうの意味で わたしがそう在るかぎり
生きてゆける とおもう。 劈いてゆける とおもう。
 


2014年10月19日日曜日

写真を載せる

 まだまだ定期的に わたし大丈夫だよね? と
あらゆる側面から言ってやらにゃならんくらいには
たよりないわたしである。

 ということできょうもまた懲りずにそういうようなことを
おれは書くのだ。かたかたかた。(タイピングの音な)


 この歳になってというか四十路すぎてからようやく
外見でちやほやされる ということがごくまれに
生じるようになってきた。ジョシ同士のアレとかじゃなくて
初対面の男性とかに という意味で。

 もちろんそういう ごくまれ な場面でも
あわよくば と先方が思っているから言ってるお世辞であるのは
そうなんだけど お世辞でもそんな経験がなかったから
まだそういう事態に遭遇すると ちょっと浮かれる。
でも 浮かれていられるのは 社交辞令よね と
思っていられるあいだだけで。
で ちょっとほんとに言ってくれてるのかな
とおもうと 怖くなったりする。

 まぁ ごくまれ だからそんなにたくさん経験はないけど
でもそんなふうに言われても こっちはそこまでそのひとを
いい とは思っていなかったりするともうダメで
どうしたらいいんかな と 思ってちょっと居心地がわるいような
そんな感じになる。 そのひとに対して
こっちがニュートラルなのであれば そのひとの好意を
とりあえずありがたく享受しながらじぶんがどう感じるのか見極める
ていうのできっといいんだろうけども
そういうことがどうしてもできない。

(ちょっと前まではもっともっとダメで
いいように扱われるとのぼせてわたしもそのひとを好きかもくらいに
すぐ 思っていたわけだけど。つまりそこは抜け出した わけだけど。)


 ところで。 自撮り という行為がありますね。
そしてそれを SNSにうpする という行為もありますね。
頻繁にされる方 いらっしゃいますね。

 そうしたひとがSNS上の友達にいるのだけれど
そのひとが 自撮りはただの見て見て!ちゃんじゃなくて
じぶんをあらゆる角度から冷静に見つめるためのもの みたいな
そういうことを言っていたわけだけれど
たしかにそういうふうにやってるひともいるのかもしれないけど
わたしはそういうふうにはならないなー と思った。
わたしは自撮りはほぼしないけど、じぶんの写真をSNSに載せるときは
じっさいのところ ねぇけっこうよく写ってね? とか
いまのおれむかしよりましじゃね? っていうのを
見てほしくて載せてるところがまったくないとは言えない。
だから 褒められたら そんなことないよ〜 じゃなくて
ありがとう! て言うけどな。ぐへへ。

 もし 自撮り写真をみんな載せるように なんて ことがあったとしたら
きっとわたしは自撮りを じぶんでも気付かなかったじぶん
じゃなくて わたしがいいとおもうじぶん になるように
なんども撮り直すなどするであろうとおもう。


 何が言いたいのかよくわからん感じになってるけど
えーと。 わたしはじぶんの顔がましになってきている若いときより
と思っていて、それをあらゆる方法で確認しようとしてしまっている
ということなのだな とおもう。 プレイです。つまり。

 もしじぶんの外見を 確認しなくてもいいくらい
認めることができるようになっても わたしはたぶん
自撮りを  あらゆる角度から見つめる ためには
できないような気がする。 それを公開する時点で
ひとの目にどう映るか ということは意識されているわけだから。

 
 てことで。 いまのわたしがじぶんの写真をSNSに載せるのは
わたしがまだ あらゆる方法でじぶんの外見を確認しなければ
気が済まないから だということだ。おそらくそういうことだ。

 ちやほやされていい気になったりうろたえたりすることも
世間的にはバカみたいだろうけど わたしにとっては
いま経験すべきミッションだから起こっているんだろう きっと。

 起きていることはぜんぶ きのうのエントリに書いたことも
きょう書いたことも そのほかもぜんぶぜんぶ
いまのわたし がみっちりと詰まっている何か なのだ。たぶん。







2014年10月18日土曜日

盗まれるとか入られるとか

 ものごっつい直截的な題だけれども 残念ながら
身の回りにそんなことがあって というのは
1年以上まえからわかっていたけど放っていたら
なんだかもっと残念な事態になっていて という
そういういまなのだった。

 えー そんなことあるん? 
とおもうけど あるんだなー。
大きな金品を狙ったどろぼうなら
警察の対応ももっと優しかっただろうし
被害届も出しやすく 捜査もしてもらいやすかっただろうけど
日用品を地味に盗られ続ける というのは
そんなに相手にしてもらえない。状況的に犯人がわかっていても
証拠がないと動いてもらえない。 致し方ないけど
疑わしきは罰せず が警察の方針だ。

 というのはともかく。

 実は 盗難の被害にあう というのは
実家や祖母のところでここ数年だらだらと続いていることで
もちろん悪いのは犯人だし こんな目にあうのは
リフォーム業者がわるものだった とか 隣人がおかしかった
とかいうのが理由で 単なる事故 ともいえるけど
やっぱりどうしても そういう事故を呼び込むなにか があって
なにかのめぐりがそうなってて
(ムスメとしてすごくダメだけど) いま になってようやく
わたしもちょっと関わらなきゃならんな と
いう気持ちになった(つまりようやく否認抑圧しないで
我がこととしてぐあいわるいと思う様になった)というのには
意味があるんだろう とおもうのだった。

 なんの過程なのか。 

 でもきっと その布置を解き明かすためにも
わたしはもうすこしこの事態にコミットしたほうがいいんだろう
とも思う。 実質無視してたぶん わたしもしばらくは
イヤな思いをすることになるのだろう。当たり前だけど。



2014年9月28日日曜日

長い髪

 髪が伸びました。まだ伸ばしてるさいちゅうだけど。
いま脇くらいの長さまで。いわゆる ロングヘアー ちゅうやつ。
美容院行ったら ロングヘア料金 とか
とられちゃうアレ。

 で。じぶんでもそこそこ似合ってるとおもいます。
むかしみたいに わーにあわねーきもちわりー とか
おもいません。

 まえにつきあっていたひとは 髪の長いおんなのひとが
すきでした。たぶんそうだったんだとおもう。
わたしにもほんとうは髪を伸ばしてほしいみたいだった。
でもわたしは だって似合わないし とにべもなく突っぱねて
伸ばそうなんてさらさらおもわなかったのでした。

 それがいまでは。フラをしていて 別に誰に頼まれたわけでもなく
いまだって わたしが髪を切ったところでおそらく
せんせいに怒られたりすることもなく でも 怒られるもんだって
なんて理由をつけて 伸ばしている。 切るつもりはいまのところないし
切りたいとも思わないわたしになったの。

 それでたまに思い出す。 髪を伸ばしてほしがった彼のことを。
なつかしいな。 元気だといい と本気で思えました。




 わたしの髪は まだまだ伸び続ける。わたしがどんどん
変容していく。伸びたぶんだけ わたしが積み重なる。

2014年9月25日木曜日

わたしのしごと

 どうなっていくんかな とおもうわけです。
正直なところ。 でも なるようになっていくんだな
ということは ホネの随から感じてきているので
そうなるんだろう とおもいます。

 なーんて どうあがいても あがかなくても
なるようにしかならないから当たり前なんだけど。

 
 この先わたしはどんな人生を送るんだろ。


 恋愛したい とおもうし ケッコンもしたい とおもうし
でもね 実は。 わたし このままかもしれないな
とも思っているんですよ。

 それでも。 たとえば両親も死んじゃって
なんていうときがきても パートナーできなくて
わたし自身がのたれ死んだりとか そんなことがあっても
やっぱりわたし いまじぶんがしてる この仕事を
死ぬまでやっているだろう とおもうし
いま踊っているフラを 趣味として 
死ぬまでやっているだろう とおもうの。

 それだけでも シアワセなんだろうなぁ って。

 
 だが。 いまのわたしはまだ貪欲だから
恋愛がないままなんてとってもイヤだし
男子としかるべき関係になりたい と思っています。

 
 思ってるけど。 はっきりわかってるのは
いまの仕事を死ぬまでしたい という この気持ちと
きっと ほんとに死ぬまでこれをするだろう ということ。
それだけ。

2014年9月21日日曜日

潮目とジョシ

 「潮目が変わったんだね」とトモダチは言った。
そうだなぁ とおもう。いろんなことが ほんとうに
変わってしまった。すごいことだ。
痛みも悲しみもあって でもそれ以上に 
解放感とか(縛っていたのはじぶん自身だけれども)
よろこびを感じる そんな日々。

 「うずちゃん(仮名)はジョシだよねぇ」と
また別のトモダチは言った。
ほんとうにね。むかしはイヤでしかたなく
絶対にそうなりたくない と思っていた ジョシ という生き物。
でも わたしはかなり ジョシだとおもう。
まぁもう40すぎてジョシってのもいかがか と
思う方が大半だとおもうのでそのあたりを慮る
(これが「おもんぱかる」と読むのもアリと知ってから
どうしたって おもんぱかる としか言いたくない)と
女という生き物 だとおもう ていう表現になるわけだけど。

 切るのが苦手だし みんなでわーってしてるのも
そんなにキライじゃないし お揃いの何か みたいなのも
けっこう好きだったり わたしの成分には
だいぶ ジョシな感じが含まれているのだよね。

 ということを ちゃんと認められるようになった。
それがわたしやん ていう。そういうことが大丈夫になって
そういうことが表に出るようになって
それだけならばまだいいが わたしがわたしを認めるようになって
そしたら やっぱり在り方って変わってしまうんだな とおもう。

 もともとわたしにそういうジョシなところがある
ということに ちょっと深く付き合った人は気付いていただろう。
けど、そういうのをうまく出せない感じとか
そうしてじぶんを認めたくない感じから出る
いろんなものに合わせたりすることでなんとか認めてもらおうとする
そんなところがなくなったうえでさらにその性質 というのに
耐えられなくなったひとも いただろうとおもう。

 あぁわたしはこれまで中学時代以降
爆発的に嫌悪されるようなことをほんとうに避けてきたんだ。
それは わたしがわたし以外の何かになろうとしていることで
成り立っていた 避け で それじゃあいろいろ歪むわよね。

 期待されるわたし を呼びこんだのは
何かに 誰かに 期待するわたし がいたからだよね。

 なんてことをいろいろしみじみ思いつつ
わたしはきょうも 仲間とたのしくフラを踊りました。
ステージがたのしい。みんなと踊れるのがほんとうにたのしい。

 ていう わたし。


 

2014年9月12日金曜日

変わりゆくわたし

 過ぎ去っていった日々 というのは
振り返ってみると いつだって そうせざるをえなかった日々
で、必死でなんとかこの局面を乗り切ろうとする試みの積み重ねなのだ
ということをおもう。

 たくさんのことを 思い込もうとした なぁ と
ふりかえる。 ほんとうは少し感じていた違和感とか
ちょっとした何かを 悪い予感を振り払うかのように追いやっても
結局はそのことがなんらかのかたちで具現化したようなことが
やってきてしまう ということばかりの人生なのよね
なんてことを いまになってしみじみと感じ入る。

 想像だにしなかったことが起こる のも人生だし
うすうす感じていたことがそのうち現実になる のも人生で
だからといって うすうす感じていることと
きちんと向き合って精査する という作業は なかなかにくるしい。

 でも やっぱりその作業は 怠らずにしたほうが
わたしの人生にはプラスなのだろうなぁ ということを
このたび感じました。 が やっぱりこのことすら
感じるべきときに感じるようにできていて
もういまでしかあり得ない思いなのだろう とおもう。

 じぶんがうすうす感じていることから目をそらす
というのは わたしの長いあいだのやり方でもあった。
でももう そんなことしなくてもいいし
そんなことをしない時につらいであろう作業も
わたしはやっていけるんだろう とも おもう。

 それでもなお 当時思い込むことも含めてあったいろいろ は
わたしがいまのわたしになることを助けてくれたし、
あれがあっていまがあるんだなぁ と強く思う。
傷つけてしまったことは反省するけど でもたぶん
おなじくらい傷ついていて だからやっぱり
とき というのは そのとき になると どうしたってやってくるのだな
とおもう。

 わたしはどうなってゆくだろう。変わってゆくこと つまり
わたしの芯を持ちつつどういうわたしになってゆくのだろう
ということが いまは楽しみだとおもう。

2014年9月6日土曜日

外身のこと

 ここでもさんざん わたしは5年前とも3年前とも違うし
変わった なんて言ってて、中身についてはともかく
外身については じぶんが鏡の中のじぶんや
写真にうつるじぶんを見ててそう思ってたんだけど
まぁそれは じぶんの思い込み みたいなものや
じぶんの願望 みたいなものも 反映していることだ
とは 思っていたのです。

 でも やっぱり 変わった(それもいい方に)のは
たぶん確かで とはいえ それはわたしがそう思えていたら
もうそれでじゅうぶんなこと とも思っていたのだけれど。

 まわりくどい感じの文章になってきていますけれども。

 先日フラで知り合った仲良しと飲んでいて
「そうそう うずさん、この間のステージの写真見て
しみじみ思ったけど、髪の毛長いの似合ってるよ〜。
短いときの印象があんまりなんだよねいま思うと。」
て言われたので 「あー でもわたしたぶん
顔つきが変わったんじゃないかって思ってて」と言って
その場でかつての写真といまの顔を見比べてもらったところ、
「わ。ほんとだ。これ、カットがどうこうとか
髪の長さがどうこうってことじゃないねぇ。
顔が変わったんだわ〜」 と言われたのでした。

 とうとうそう言われるまでに至りました。
正直うれしかった。 あぁわたしはほんとうにほんとうに
外身に変化が生じるくらいに 変わったんだな と。

 さらに。11年前の まだお子だったたゆをだっこしている
ていう写真があって それがねぇ 若さがない。
いまより老けて見えるかもしれない っていうくらいに。
もちろん その写真拡大したりしたら いまあるしみとかがなくて
肌は若いのかもだけど なんかね 若くないんですよ。

 まぁとにかく ここまできたの。
にしても それだけ外身が変わったんだもの
そりゃあ中身も変わったはずだよ。周囲との関係も変化するわけだよ。

 いろんなことを納得しました。

 さみしいしかなしいしうれしいしたのしい。

 ね。 42歳はもっともっとそういうまいにちになるよ。

 
        (3年前と全然違うこころもちで っていうだけでなく 全然違う外身のじぶんが見た I♡湯。 )

2014年9月2日火曜日

このままいくね。

 もうあっというまに世の中は9月で秋。

 諸行無常 なんだけどさ 
そういうことは わかっていたけれど。

 これでいい というのと いやいやちょっとまて
というのと その分量がどのくらいでやっていくのか
は ほんとうに難しくて でも そのさじ加減こそが
じぶんのじぶんたるなにか を如実にあらわしていて
それこそが わたし自身 なのかもしれない
などとおもった。

 言い訳みたいになっちゃうけども
わたしはわたし以外の何者にもなれない。
ちょっとまえ までの人生において
おのれの小中学校でのいけすかない態度丸出し
が原因でいじめられる というとき以外で
誰かに爆発的に嫌われる ということは
なかったとおもう。 のだが
そういったことがここ数年で
それこそ爆発的に生じたのには
とても意味があったとおもう。

 わたしの触媒的なぶぶん が
爆発的に嫌われる ということからわたしを遠ざけた。
けれど わたしがもともともっている何か が
あらわれたとたん やっぱり爆発的に嫌われる
という事態が あきらかに 生じたのだ。


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 多くのひとに 明るくなったね と言われる。
そうなんだろうとおもう。 わたしの顔も
わたしから醸し出されるなにかも
3年前や2年前とは 違って来たのだろうとおもう。
それはわたしがもともと持っていたなにか で
しかしそれとひきかえに わたしは触媒的に
生きていたころのなにかをなくしたし
その在り方でつながったひとと別れなければならなかった。
きっと それとは別に わたしをキライだとおもうひとも
かつてより増えているのではないか とおもう。
そのかわり わたしをこのましく感じてくれているひとも
かつてより増えているのではないかな ともおもう。
ひらく とはそういうことだろう。

 おなじようなことをここでも繰り返し書いているけれど。

 わかっていても 終わる ということは
かなしくさみしいものですね。 あれだけ強固におもわれた
そういうものであっても やはり その とき が
すぎれば 終わるしかないこともあるのですね。

 わたしがこのわたしでやっていくしかないのだ
ということを わたしが感じたことから目を背けても
どうしようもなく だからやっぱり このままいくね と
それをこうして表明しているだけなのだ。

 わたしの さじ加減 を常に考えながら。感じながら。




 

 

2014年8月30日土曜日

そしてまたたんじょうび

 またあれからいちねんが経って
わたくしは本日めでたく42歳とあいなりました。
おめでとうおめでとう。

 外的な事象としては残念ながら
なにひとつ去年とかわらぬことしではあるけれど
いちねん経ったなりのわたくしの変化 
というものはあったなぁ とおもうのでありました。
去年よりもっと たのしくなっている。
去年よりもっと いろいろな予感もある。

 ということで
これからもっとたのしくなる道のり。
ALOHAのこころをわすれずに というか
ALOHAのこころを体現できるわたしをめざし
日々すごしたいとおもいます。

 みなさまありがとう。
愛しています。

        (きょねんとちがい、ひとりでまるいケーキを買わない分別があるおれ)

2014年8月29日金曜日

たびするということ

 旅をしてきたのだった。
3年前には 当時つきあっていたひとと行った、
芸術祭に湧いていた あの瀬戸内の島々に。
こんどは 高校時代の友人とともに。

 行ってみて、3年前のあの旅は
今回のための予習だったのかなぁ とすら思えた。
あのときでは体験できなかったものを わたしは体験した。
それから、3年前のその旅の途中で知った
恩師の訃報のこともわたしのアタマにはあったから
せんせいのことも 存分に思い出したりして。


 今回の旅はあらゆることが奇跡のようにうまくいった旅だった。
ずっと傘マークの天気予報だったのに
一度も傘をひらかずにすんだ とか
美術館までのバスがないようどうしよう
という事態が 偶然のいろいろにより解消された とか
宿についたとたんどしゃ降り とか
ちょっとのサイズの違いの組み合わせにより
トモダチとわたしのスーツケースがひとつのコインロッカーに
ぴったりおさまった とか
ともかくいいタイミングでいいことが起き
なんというのか その場に委ねていたら
そのままひらけていった という そんな旅だった。

 トモダチとわたしの 旅に対してのスタンスや
行動するペースが似ていたことも幸いした。
彼女とわたしは高校時代の同級生で けれど同じクラスになったことはなく
唯一の接点は スキー学校でおなじ班になった という
ただそれだけのものだった。
だから、卒業後会うことは去年まで一度もなかったし
連絡をとることだって もちろんなかった。

 オトナになったわたしたちが再会することになったのは
世の中の例に倣ってFacebookで、たまたまお互いちょこっと走る
ということで 小布施のハーフマラソン大会に出よう と
盛り上がったその中にいた というのがきっかけだった。

 去年ことしとともにハーフマラソンを走り
Facebookで近況にコメントなどしあう ということを
していたのだけれど ひょんなことから今回の旅を
ともにすることになったのだ。

 当時ももう少し何かあれば 仲良くなったのかもしれないけれど
きっと いまだからこそ の関係なのだろう ともおもう。
いま お互いいろいろを経て むかしよりは
じぶんの中にある なにか をちょうどいい具合に表現したり
しなかったりすることをおぼえて だからこそ
通じ合えるところがあったのかもしれないな などとおもう。

 特にわたしは 高校生当時からとても閉じていたし
最近のわたしでなければきっと こんなふうにともにいることは
できなかったのではないかなぁ とおもう。どうやらやはり
わたしはずいぶんと ひとに対して ひらいてきた
のだろう。

 そのことが 今回の旅に いい影響をもたらした
というか 旅がもたらす何かがわたしをより
彼女に対してひらいた態度にさせたし
そのことがまた 旅という場にわたしをひらかせたのだ
というような。

 今回わたしは3年前よりずっと 島々がわたしを
受け入れてくれている ような気がしたし
わたしも島々のなにかに わたしを委ねることが
できたように思っている。 すばらしい体験だった。



*************



 たびするということ は わたし という存在を
その場にゆだね その結果に対してみずからをひらいてゆくこと
なのかもしれない。そのことで その場の風景や 風や 空気や
とにかくあらゆるものがわたしとの交感を果たし
わたしの奥に なにかがそだち わたしの核がまたできてゆく。
そんなことをほんとうに感じられたので 
旅をしてほんとうによかった と こころのそこから
おもうのだ。 
 
 この旅をともにしくれたトモダチには感謝しかない。
いまのタイミングを逃さずいられたことを忘れない。

 こうしてわたしはすすんでゆく。もうすでに3年前のわたしは
ずっと過去の なつかしいかわいいだけの存在に なっていた。




2014年8月16日土曜日

トモダチと会った

 トモダチの存在はとても偉大で ほんとうにありがたいなぁ
と しみじみとおもういちにちを過ごし わたしがわたしでいること に
またすこし しっかりした実感が加わった。

 なんだかんだいっても わたしは 去年
思いやりがない と言い放たれたこと および
それだけでなく その感じにまつわるいろいろ 
深く傷ついていたし(そしてきっと同じくらい傷つけもしたのだろう)
何より でももう このたび終わった関係いろいろを
どうにかしよう というきもちが どこを探しても実はない
というそのわたしの中の事実にも びくびくしながら
気がついて愕然としていたのだった。

 もちろん そういう 思いやりがない という表現に
象徴されてしまうことに結びつく何か がわたしにあったことは
否めないことであろうけれど 
そういう激しい表現をされなければならないほどの何か が
わたしだけの要因として存在していて、それを
この先もずっとずっと 深く反省して
落ち込んだり 立ち止まったり ということが必要であるのか
というと 違うようにおもっていたのだ。

 いろいろ考えたし悲しんだし すこしは怒ったし(やっぱり
わたしには 怒り という機能があまり発達していないのだ)
でも それはもうじゅうぶんおこなったのだな ということだ。

 そして きのう もう人生の半分トモダチでいるひとと会って
いろんな話をして 一緒に過ごして そうしたら
まえにもここで書いたように わたしから離れていったひとたちとは 
ただともにいる時が終わったのだ という その感じだけが
つよく立ちのぼってきたし、
わたしが 彼女ら彼らとの関係を どうにかしよう というきもちが
どこを探しても実はないというのは
そういう理由からなんだな とほっとすることができた。

 さみしいことではあるけれど でも
どこかでうすうすわかっていたことだとおもう。
しかも 最初から。

 そして わたしがこれまでやってきた
触媒機能を差し出すことで気に入られようとするそのやりかたが
もうほんとうに終わったんだな と こころのそこから 思えた。

 さようなら。ほんとうにさようなら。


 もうきっとわたしは 何かを得たくて何かを差し出すとか
期待したくて期待されることを呼び込むとか 
そういうしくみをもとにした人間関係を
ホンモノだとおもって おこなっていこうとすることは ないだろう。

 そう考えると いまもなお付き合いのあるむかしからのトモダチは
そういう残念なところを超えた きっとわたしの奥にある何か
たましいのたたずまいみたいな そんなものをしらないうちに感じて
そうして付き合ってくれていたのだろう とおもうと
そのありがたさに涙が出そうになる。

 これまでのいろいろもすべて必要な というか
わたしの力量では通らざるをえなかった道だ。
ここまで来ることができる底力のようなものは
きっと両親やみんなにもらったものだとおもう。

 これからはどんなことがあるんだろう。 
わたしはわたしだから きっとやっていけるとおもう。





2014年8月13日水曜日

しあわせ

まー ベタな題ですよ。
ひとによっては、「無理すんなよ〜」なんて
ひとことをかけてくれかねない、
そんな題ですよ。

でもね。なんかいま電車乗って
友だちとの待ち合わせに向かってるさいちゅうで
Facebookとかでは
高校のときちょっとすきだった男子に
お誕生日おめでとう! なんて言って
ありがとう! とか返事してもらって
お互いいい感じの人生だよね〜
とかなんとか言い合えてて
なんか ものすごくしあわせなんじゃない?
と 思ったわけですよ。

すごいね。不満とか愚痴とか言い出したらキリがないのかもだけど、
それよりも シアワセだな
てほうが
先に出てくるいまなんだよ。 わたしなのに(笑)!

わたしが経験すべきことも
そうでないことも
とにかくものごとは起こるけど
せっかくだから わたしのものに
わたしが経験すべきことだったな と
思えるように ちゃんと経験していこう。

それだけできっと
もっとわたしのものになるんだよ。
人生というのは。

2014年8月10日日曜日

きっとそのうち

なにかどきどきすることが
あるとおもう。

なんでかっていうと。

わたしのかおが なんだかちょっと
いいぐあいな気がするから。

わたしの手が なんだかちょっと
いつもよりキレイな気がするから。

そんなふうにおもえて
いつもより 口角だって
あがってる気がするから。

この感じをわたしはすなおに
おもてに出して 過ごせばいいんだろう、とおもう。

きゃー

久しぶりに夢を見たのよ。

わたしはつきあってるひとのおうちにはじめて行って
これから泊まるんだな、ていう
そんな雰囲気で、一緒にいろいろ整えたりなどしてた。

それはいいとして。

問題は 夢において つきあってるひと としてでてきたひと
のことなわけですよ。
たぶんだけど、まえにつきあってたひとだったわけですよ。

なんでよー!

まだここで、夢における「友だち以上恋人未満」の定番
キムタク が出てくるなら許せる。
が。 なぜ3年前に別れたひとが。

はっきりとそのひとだったわけではないけど、
たたずまいが当時のそのひとだったことは確かで
彼 というときのイメージが
わたしのなかではそのひとのときから更新されてない
ていうそういうことなのかな と。

わー。残念。すごく残念。
もう出てきたところで動揺、ていうのではなく
じぶんのイメージが更新されていないことに
本格的にがっかり。

もうほんとに次の恋愛がしたいです。
恋愛したい ばっかり言ってる四十路
具合悪いけどな。でも、ほんとなんだもん。

2014年8月9日土曜日

動いてきている

 台風が近づいてる ということで
きょういくはずだったステージがなしになって
なので 家でのんびりしている。 のんびりしすぎている。
すきなもの作って おまけにポテチなどふだん食べないものまで
ばりばり食べてびーるを2本ほど消費して
ケーキまでちょっと食べたりなんかして 
肥えるよね確実に 不健康だよね確実に
ということをしてみたりなんだり。

 てとこまで書いて すでにそもそも 何を書こうとしてたか
忘れそうになるほど 家で飲むとすぐ酔ってしまう。
さみしいな。

 
 ま 350mlのびーる2本ごときではすぐに思い出すんですけど。


 2年前のね 写真をね 見たのね。
2年前のいまっていったら まだ40になる直前で。
そう。あと20日ほどもすればわたしは42歳。 

 でも 2年前のじぶんより いまのほうがいい。
いまのわたしのほうが ずっと動いてる。 

 2年前のいまは フラを始めてまだ半年ちょっとで
日々の必死感もまだとれてなくて
でも コンタクトを作ってみたりして
わたしはこれからまだまだやるんだ みたいな
そういうことを思っていた頃で。ハワイに行く 直前で。


 2年経って。
交友関係にはだいぶ動きがあって
決定的にわたしと付き合いたくない と
言う人がいたり
逆に これから仲良くしましょうねぇ と
思い合えるひとがいたりなんだり。

 あたらしい恋がはじまるでもなく
まぁその寸前 みたいなことはあっても
タイミングが全然合わない とか 相手に全然気に入ってもらえない
とかで 結局なにもなく。 結局 はそうだけど
そうなるまでの何か があるようになったのは
いままでと違うかな。


 とはいえ。 結局何もない というのは
おもてに見える何か であって
わたしの根本の何か ではないのよね。
根本の何か が変わったら おもてに見える何か も
もしかしたらきっと 動いていてしかるべき なのかもしれないけど
でもやっぱり みたところ変わらなくても わたしはずいぶん
2年前とは違うところにきたよね とおもう。


 どうなっていくんだろう。

 そのことが たのしみなこのごろ。
離れてしまうことになった 深く深くつきあったひとたちも
元気でいたらいいな とおもう。


 

2014年8月5日火曜日

タイミング

 合わないんである。 タイミングが。

 いまはそういうときなんだなぁ とおもう。
全然合わない。なんでか合わない。あらゆるひとと 合わない。

 けど だから もう ダメだ というよりは
こんなときだから 無理はしないし
でもまたいつか タイミングが合うときがきて
うまくいくようなことだって あるかもしれない
と そうおもう。

 おもうけど 2回声かけてくれて
2回とも たまたまその日は〜 っていう そういうのだと
このひととはもう縁がないんだろうか ともおもったり。
が それでもなお タイミングが合うときがきたら
そのときは それなりのことなんだろうな とも おもう。

 ていう ただ それだけのことなんだろうな。
わたしとそのひとにちょうどいいように 縁が続いたり
続かなかったり するのだろうね。

 

 声をかけてくれるひとがいる というだけでも
とてもありがたいし そういうことへの感謝を忘れずに
いま目の前にあるたいせつなことをたいせつにしていたらきっと
なにかひらけてゆくんだろう。 あるべきことがあり
起こるべきことが起こり というようにやっていくんだろう。

 それで タイミングが合わないな なんて感じたりするような
そういう出来事がある ということがもう
むかしのわたしとは ちがうわたしなのだな とも おもうのだった。

 あともうすこしで いろんなことがきちんと噛み合って
なにかがまわりだすような そういうこころもちが 
じつは とても とてもとても しているいまなのだ。