2015年9月20日日曜日

最高のメッセージ

きょうのことを わたしはずっと 忘れないだろう。

真剣に向き合った相手から
最高のメッセージを受け取った。

ありがとうございます。
わたしもあなたとのあれこれを通して
いろんなことを学びました。
じぶんをほんとうの意味で認めてゆく
その作業のいちばん最初は
あなたと関わったことにあったと思います。
当時付き合っていた彼ではなく。

お互いこれからも
お互いとしてしっかり生きていきましょう。

うれしかったです。

いつか。いつの日か 笑って会えたらいい とおもうけれど、
それはきっとないことだとおもう。

でも、きょうのこれは
笑って会えたのと同じくらいの そんなメッセージでした。

お嫁に行くまえに受け取れたわたしは
ほんとうにシアワセだ。

ありがとう。
ありがとう世界。ありがとう人生。

2015年9月16日水曜日

子どものこと

9月も折り返しましたねぇ。秋。秋めき。

さて。子どものこと。
もう2〜3ヶ月にいちど めっさしょぼい月のものがくる
というだけのカラダであるわたしに
自然妊娠は難しい とおもわれます。

それでいい し、むかしは子のいない人生を望んでいたのだけれど。

最近になって、
子を産んだことが世の中に対してじぶんが成したもっとも尊いこと
という発言や、
次世代につなぐことの素晴らしさ
ということが ようやくようやく
胸にずしんとくるようになってきた。

つらい不妊治療をしてまで、とはやはり思えないし、
腰痛持ちだから、ほんとに妊娠したら
寝たきりを余儀なくされることもあるだろうなこわい
とかあって、そんなに積極的には
なれない甘えたアレなんだけれど。

もちろん 子を産んで次世代につなぐ 以外に
この世に対してできること というのはある というか
存在すること がまず大切なこと
と思うのだけれど、
わたしはほんとうにほんとうに
大きな何か をとりこぼしたのだなぁ というこころもちになる。

このかなしみともあきらめともなんともつかないきもち
と、同時にある、つなぐことの素晴らしさや、
子を産まなくてもわたしにきっと つなぐこと で
できることがある
そうできるわたしでありたい
というきもち。

まさかこんなこころもちになる時が来るなんて。ともかく、生きよう。

2015年9月12日土曜日

ちいさいろうそくのほのおのような

 さて。もう9月でございます。あんなに暑い夏だったのに
すっかり朝晩涼しくなって ちょっとさみしいくらい。

 いろんなことがあって。
ここ数年、とてもたのしいこと うれしいこと すてきなこと
も たくさんあったけど、人間関係で
中学生のころに戻ったかのような嫌われ方をしたりなどの
オトナになってからは経験しなかったような出来事もたくさんあった。

 わたしがわたしになっていくときの
潮目の大きな変化 みたいなものが起きているのだろう
ということはわかるし、嫌われるからには
嫌われるなりの何かはやっぱりあるということもわかる。
中学生のころのわたしの傲慢さ満載の立ち振る舞いのように。

 それでも その頃と違うのは
そんなわたしであっても こころから認めてくれるひと
というのが 少ない人数ではあるけれど 存在する
ということで そのことへの感謝を決して忘れてはならないし、
そこからわかるおのれの改善ポイント というのもあるとおもう。


 与えられたい とおもっていたのだ。


 口では理想を語っていても。
これまでの たぶんそういうことかな という
はっきり嫌われるきっかけになった出来事を振り返ると
共通しているのは 周囲よりもわたし自身を優先させていたこと
であったとおもう。

 これまでは、そうはいっても 何かを汲み取って
知らぬ間に触媒のようにはたらくこと を得意としていたから
目立たなかったのであろうとおもうけれど、
触媒のようにはたらく という意味ではない
相手の様子をしっかり見て そこに思いを馳せる
ということが わたしには足りなくて、そのことが
触媒としてはたらかないいまのわたしには
目立って表に見えているのだとおもう。
そして なぜそのことが足りないかというと 
ひとことで言えば
与えられたい ということなのだ とおもう。

 わかってほしい ばかりで思いやりのない最低な人間だ 
と言われたことがあるけど
きっとその通りなのだろうとおもう。

 でも そこを通らないと 触媒として生きた日々を
抜け出せなかったのだろう。わたしは。
思いやりのなさを 触媒として生きることでカバーしていた
だなんて ほんとうに残念だ。
けれど わたしはどこか これから について
希望を持っている。 最低 で 存在する価値がない
とは 思っていない。ありがたいことだとおもう。
そう思わせてくれるいまにいることを。



 いま 一緒に暮らしている彼から与えられるもの
彼の思い というものに胸をうたれることが多い。
ここまでしていただいてはじめて
実はわたしはいろいろなひとに ほんとうに愛されていたと
実感することができているようにおもう。
いままでだって ともだちや家族が
きっと示してくれていたであろうことを
わたしは信じてじぶんのねっこにすることができずにいて
ただただ 不安で確かめてばかりいたのだ
と いまはおもう。

 損ねたものは もう元には戻らない。
わたしはもう 1年まえのようなこころもちで
フラを踊ることはできないとおもう。
けれど フラをやめてしまっては
わたしは今までのわたしのままで 
また同じ何かを繰り返してしまうようにおもう。

 悲しいことだけれど いましばらくは
ここで細々とフラを続けて
情熱を傾けることはできなくても
奥底にある フラがすきだとおもう気持ち
からだを動かすよろこびは つないでいきたいとおもう。
ひとと最低限でもつながり わたしのいまの在り方
これからの在り方を示していきたいとおもう。

 いつかまた 何かが生まれるかもしれない。
損ねてしまったものとは違う何かをわたしは手にするだろう。

 こんなふうにしか進めないけれど
愛をもってそばにいてくださるひとたちがいる限り
わたしはわたしのなかにある
ちいさいろうそくのほのおのような
でもたしかにあるひかりを 信じようとおもう。