2015年12月30日水曜日

ありがとう2015

 とうとう12月も30日で 去年のいまごろは
オットと付き合うことになって わー ってなってたという
そういう時期だったわけですが、なんと!ことしは!
ヒトヅマとなって迎えています年の瀬を。きゃ。
きゃ じゃねぇよ。

 ともかくね。去年の今頃のわたしは
人間関係もなにもかもがうまくいってる
なんて思い込んで まぁ挙句ぎっくり腰ですけど
とにかくことし経験する大転換期の下準備みたいな
そのちからをためるみたいな時期だったのかも
と思います。

 トクベツなわたし 非凡なわたし な、わけではなくても
わたしはわたしだから大丈夫だよ ということを
去年までで学び 
けど わたしはまだ そのあたらしいわたしを
扱いきれていない感じでいたのかも 
あたらしいわたしにうかれていたのかも
などと考えさせられたのが今年だった。

 けれど すっかりこれからのステージへ向かう
とりあえずの準備が整って
そうしたら いろんなことがはっきりした
というのがいまなのかも とおもう。

 
 そうするなかで ずっとずっと
かわらずにいてくれるトモダチがわたしにはちゃんといて
しかも わたしの本質のようなところを
短いあいだに深くつかんで一緒にこれからをともにしてくれる
オットがあらわれて
何を怖がったり不安がったり
つらくおもったりする必要があるだろうかいやない(反語)。

てなわけで わたしはちゃんと
わたしが経験すべきことを経験していて
ジョシのあいだでうまくいかない とかそんなのも
この世をすべからく知る というか
わたしがこのさき生きるために知っておくべき何かとして
生じたものなのだと ほんとうに思えるのだった。

 ことしまで長いこと
夢を見ない期 が続いたけれど
それは 現実の世界でのいろいろをたくさん体験する時期
だったからなのだろう。
いろいろがあったその変革期の頂点たることしが過ぎたあと
きっと来年くらいからはまた
夢を見る期 になるのかもな と思っている。
ちゃんとわたし全体でことしまでの出来事を咀嚼しないと。
落とし込まないと。 って 無理にすることではないけど
きっとそっちにむけていくのだろう とおもう。


閑話休題。


 結婚式とか披露宴とかをするって決めた頃に
ジョシ世界の人間関係がうまくいかなくなって
なんて不幸 とちょっとだけ思ってたけど
いま思えばそんなことなくて いろいろ残念なことはあっても
わたしをほんとに大切に思ってくださるひとが
きてくださることになるだけだから それでいいのだ と思った。
て、親友だ とおもうひとたちの何人かは
違う国にいたり 小さいお子がふたりもいてしかも遠方だったりで
きていただくことがかなわないのだけれど
でも なんかここ数年で わたしはほんとうに
わたしがたいせつにするものや そうすべきものを
ちゃんと見ることができるようになっていて
だから 大丈夫だ とおもう。


 そういうことでね。2015年、つらくてかなしくて
でもそれ以上に うれしくてシアワセな すばらしいいちねんでした。
みんなみんな いちみくろんでもかかわったすべてのひとたち
すべてのものごとたち ほんとうにありがとうございました!

2015年12月27日日曜日

うらとおもてと

無事24日に仕事を納めたわけです。が、オットはまだ納まってないので
あんまり仕事納め感のない感覚ではある。

それはともかく。

先日、こんど結婚式で司会を頼む友だちとオットと3人で飲む機会があった。

その際に、わたしがいつものごとくちょっとした失言をしたのだけれど
オットが慌てて「このひとなんの悪気もないんです」ってわたしのかわりに言い訳して
友だちは「うんうん。わかってます。
ほんと、うず子(仮名)は裏表がないから」と答えたのだった。

その後、わたしに昔から裏表がなくて、このままのひとだ、という話になり、
そこがいい点である的にそのときにはなったのだけれど、
その点はわたしのいいところもわるいところも すべてを集約した何か
だと思ったのだった。

前にも似たことは書いてましたよ。母の天真爛漫さをわたしは受け継いでしまっているなぁ、とか。
でもあんまり、そのことが示す中身をしっかりはわかってなかったな、とおもう。

じぶんで言うのもナンだがわたしはアタマのいい(理解力が早い)ところがあるので、
その賢さみたいなものや、落ち着いて見えるところ、
でもなんか開けっぴろげである感じとかに
ひとがすごい勢いで寄ってくることがあった。
このひとならわかってくれる と。

でも、そんなんは幻想で、わたしはみんなの期待にはだいたい応えることができず、
そのかわり 開けっぴろげ な自由なところがほんとに自由で 腹立たしさを生むのだろうとおもう。

裏表がない と昔からの友だちやオットにも言われる というのはちょっと意外ではあった。

じぶんとしては昔は特に
空気読んで場に応じて動いてるつもり(あくまでも)だったので、
裏表がない 見たまま と言われるとは
まったく思っていなかったのだ。

しかしながら。

わたしがどうやら生まれつき持っている 天真爛漫さ 裏表のなさ
というのは、たたずまいとして
おもてにずいぶん見えていたらしい。

わたしはそのひとの中にある、
そのひとが思ってる何か を
取り出して それをわたしもそう思ってるよ
みたいにして大きく見せることに
ほんとに長けていたとおもう。触媒みたいに。
でも もうそんなことはしなくなった。必要なくなった。

そうしたら、勝手で自由なところばかりがおもてに目立ちだしていて
それがいまだとおもう。

苦しく悲しくなることもあるけれど、
これからのやり方で わたしはわたしの裏表のなさと付き合っていこう。
その在り方をすこしずつ作っていこう
とおもうのだった。

みずからを認め受け入れ、しかし開き直りすぎず、卑屈にならず。