2014年9月28日日曜日

長い髪

 髪が伸びました。まだ伸ばしてるさいちゅうだけど。
いま脇くらいの長さまで。いわゆる ロングヘアー ちゅうやつ。
美容院行ったら ロングヘア料金 とか
とられちゃうアレ。

 で。じぶんでもそこそこ似合ってるとおもいます。
むかしみたいに わーにあわねーきもちわりー とか
おもいません。

 まえにつきあっていたひとは 髪の長いおんなのひとが
すきでした。たぶんそうだったんだとおもう。
わたしにもほんとうは髪を伸ばしてほしいみたいだった。
でもわたしは だって似合わないし とにべもなく突っぱねて
伸ばそうなんてさらさらおもわなかったのでした。

 それがいまでは。フラをしていて 別に誰に頼まれたわけでもなく
いまだって わたしが髪を切ったところでおそらく
せんせいに怒られたりすることもなく でも 怒られるもんだって
なんて理由をつけて 伸ばしている。 切るつもりはいまのところないし
切りたいとも思わないわたしになったの。

 それでたまに思い出す。 髪を伸ばしてほしがった彼のことを。
なつかしいな。 元気だといい と本気で思えました。




 わたしの髪は まだまだ伸び続ける。わたしがどんどん
変容していく。伸びたぶんだけ わたしが積み重なる。

2014年9月25日木曜日

わたしのしごと

 どうなっていくんかな とおもうわけです。
正直なところ。 でも なるようになっていくんだな
ということは ホネの随から感じてきているので
そうなるんだろう とおもいます。

 なーんて どうあがいても あがかなくても
なるようにしかならないから当たり前なんだけど。

 
 この先わたしはどんな人生を送るんだろ。


 恋愛したい とおもうし ケッコンもしたい とおもうし
でもね 実は。 わたし このままかもしれないな
とも思っているんですよ。

 それでも。 たとえば両親も死んじゃって
なんていうときがきても パートナーできなくて
わたし自身がのたれ死んだりとか そんなことがあっても
やっぱりわたし いまじぶんがしてる この仕事を
死ぬまでやっているだろう とおもうし
いま踊っているフラを 趣味として 
死ぬまでやっているだろう とおもうの。

 それだけでも シアワセなんだろうなぁ って。

 
 だが。 いまのわたしはまだ貪欲だから
恋愛がないままなんてとってもイヤだし
男子としかるべき関係になりたい と思っています。

 
 思ってるけど。 はっきりわかってるのは
いまの仕事を死ぬまでしたい という この気持ちと
きっと ほんとに死ぬまでこれをするだろう ということ。
それだけ。

2014年9月21日日曜日

潮目とジョシ

 「潮目が変わったんだね」とトモダチは言った。
そうだなぁ とおもう。いろんなことが ほんとうに
変わってしまった。すごいことだ。
痛みも悲しみもあって でもそれ以上に 
解放感とか(縛っていたのはじぶん自身だけれども)
よろこびを感じる そんな日々。

 「うずちゃん(仮名)はジョシだよねぇ」と
また別のトモダチは言った。
ほんとうにね。むかしはイヤでしかたなく
絶対にそうなりたくない と思っていた ジョシ という生き物。
でも わたしはかなり ジョシだとおもう。
まぁもう40すぎてジョシってのもいかがか と
思う方が大半だとおもうのでそのあたりを慮る
(これが「おもんぱかる」と読むのもアリと知ってから
どうしたって おもんぱかる としか言いたくない)と
女という生き物 だとおもう ていう表現になるわけだけど。

 切るのが苦手だし みんなでわーってしてるのも
そんなにキライじゃないし お揃いの何か みたいなのも
けっこう好きだったり わたしの成分には
だいぶ ジョシな感じが含まれているのだよね。

 ということを ちゃんと認められるようになった。
それがわたしやん ていう。そういうことが大丈夫になって
そういうことが表に出るようになって
それだけならばまだいいが わたしがわたしを認めるようになって
そしたら やっぱり在り方って変わってしまうんだな とおもう。

 もともとわたしにそういうジョシなところがある
ということに ちょっと深く付き合った人は気付いていただろう。
けど、そういうのをうまく出せない感じとか
そうしてじぶんを認めたくない感じから出る
いろんなものに合わせたりすることでなんとか認めてもらおうとする
そんなところがなくなったうえでさらにその性質 というのに
耐えられなくなったひとも いただろうとおもう。

 あぁわたしはこれまで中学時代以降
爆発的に嫌悪されるようなことをほんとうに避けてきたんだ。
それは わたしがわたし以外の何かになろうとしていることで
成り立っていた 避け で それじゃあいろいろ歪むわよね。

 期待されるわたし を呼びこんだのは
何かに 誰かに 期待するわたし がいたからだよね。

 なんてことをいろいろしみじみ思いつつ
わたしはきょうも 仲間とたのしくフラを踊りました。
ステージがたのしい。みんなと踊れるのがほんとうにたのしい。

 ていう わたし。


 

2014年9月12日金曜日

変わりゆくわたし

 過ぎ去っていった日々 というのは
振り返ってみると いつだって そうせざるをえなかった日々
で、必死でなんとかこの局面を乗り切ろうとする試みの積み重ねなのだ
ということをおもう。

 たくさんのことを 思い込もうとした なぁ と
ふりかえる。 ほんとうは少し感じていた違和感とか
ちょっとした何かを 悪い予感を振り払うかのように追いやっても
結局はそのことがなんらかのかたちで具現化したようなことが
やってきてしまう ということばかりの人生なのよね
なんてことを いまになってしみじみと感じ入る。

 想像だにしなかったことが起こる のも人生だし
うすうす感じていたことがそのうち現実になる のも人生で
だからといって うすうす感じていることと
きちんと向き合って精査する という作業は なかなかにくるしい。

 でも やっぱりその作業は 怠らずにしたほうが
わたしの人生にはプラスなのだろうなぁ ということを
このたび感じました。 が やっぱりこのことすら
感じるべきときに感じるようにできていて
もういまでしかあり得ない思いなのだろう とおもう。

 じぶんがうすうす感じていることから目をそらす
というのは わたしの長いあいだのやり方でもあった。
でももう そんなことしなくてもいいし
そんなことをしない時につらいであろう作業も
わたしはやっていけるんだろう とも おもう。

 それでもなお 当時思い込むことも含めてあったいろいろ は
わたしがいまのわたしになることを助けてくれたし、
あれがあっていまがあるんだなぁ と強く思う。
傷つけてしまったことは反省するけど でもたぶん
おなじくらい傷ついていて だからやっぱり
とき というのは そのとき になると どうしたってやってくるのだな
とおもう。

 わたしはどうなってゆくだろう。変わってゆくこと つまり
わたしの芯を持ちつつどういうわたしになってゆくのだろう
ということが いまは楽しみだとおもう。

2014年9月6日土曜日

外身のこと

 ここでもさんざん わたしは5年前とも3年前とも違うし
変わった なんて言ってて、中身についてはともかく
外身については じぶんが鏡の中のじぶんや
写真にうつるじぶんを見ててそう思ってたんだけど
まぁそれは じぶんの思い込み みたいなものや
じぶんの願望 みたいなものも 反映していることだ
とは 思っていたのです。

 でも やっぱり 変わった(それもいい方に)のは
たぶん確かで とはいえ それはわたしがそう思えていたら
もうそれでじゅうぶんなこと とも思っていたのだけれど。

 まわりくどい感じの文章になってきていますけれども。

 先日フラで知り合った仲良しと飲んでいて
「そうそう うずさん、この間のステージの写真見て
しみじみ思ったけど、髪の毛長いの似合ってるよ〜。
短いときの印象があんまりなんだよねいま思うと。」
て言われたので 「あー でもわたしたぶん
顔つきが変わったんじゃないかって思ってて」と言って
その場でかつての写真といまの顔を見比べてもらったところ、
「わ。ほんとだ。これ、カットがどうこうとか
髪の長さがどうこうってことじゃないねぇ。
顔が変わったんだわ〜」 と言われたのでした。

 とうとうそう言われるまでに至りました。
正直うれしかった。 あぁわたしはほんとうにほんとうに
外身に変化が生じるくらいに 変わったんだな と。

 さらに。11年前の まだお子だったたゆをだっこしている
ていう写真があって それがねぇ 若さがない。
いまより老けて見えるかもしれない っていうくらいに。
もちろん その写真拡大したりしたら いまあるしみとかがなくて
肌は若いのかもだけど なんかね 若くないんですよ。

 まぁとにかく ここまできたの。
にしても それだけ外身が変わったんだもの
そりゃあ中身も変わったはずだよ。周囲との関係も変化するわけだよ。

 いろんなことを納得しました。

 さみしいしかなしいしうれしいしたのしい。

 ね。 42歳はもっともっとそういうまいにちになるよ。

 
        (3年前と全然違うこころもちで っていうだけでなく 全然違う外身のじぶんが見た I♡湯。 )

2014年9月2日火曜日

このままいくね。

 もうあっというまに世の中は9月で秋。

 諸行無常 なんだけどさ 
そういうことは わかっていたけれど。

 これでいい というのと いやいやちょっとまて
というのと その分量がどのくらいでやっていくのか
は ほんとうに難しくて でも そのさじ加減こそが
じぶんのじぶんたるなにか を如実にあらわしていて
それこそが わたし自身 なのかもしれない
などとおもった。

 言い訳みたいになっちゃうけども
わたしはわたし以外の何者にもなれない。
ちょっとまえ までの人生において
おのれの小中学校でのいけすかない態度丸出し
が原因でいじめられる というとき以外で
誰かに爆発的に嫌われる ということは
なかったとおもう。 のだが
そういったことがここ数年で
それこそ爆発的に生じたのには
とても意味があったとおもう。

 わたしの触媒的なぶぶん が
爆発的に嫌われる ということからわたしを遠ざけた。
けれど わたしがもともともっている何か が
あらわれたとたん やっぱり爆発的に嫌われる
という事態が あきらかに 生じたのだ。


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 多くのひとに 明るくなったね と言われる。
そうなんだろうとおもう。 わたしの顔も
わたしから醸し出されるなにかも
3年前や2年前とは 違って来たのだろうとおもう。
それはわたしがもともと持っていたなにか で
しかしそれとひきかえに わたしは触媒的に
生きていたころのなにかをなくしたし
その在り方でつながったひとと別れなければならなかった。
きっと それとは別に わたしをキライだとおもうひとも
かつてより増えているのではないか とおもう。
そのかわり わたしをこのましく感じてくれているひとも
かつてより増えているのではないかな ともおもう。
ひらく とはそういうことだろう。

 おなじようなことをここでも繰り返し書いているけれど。

 わかっていても 終わる ということは
かなしくさみしいものですね。 あれだけ強固におもわれた
そういうものであっても やはり その とき が
すぎれば 終わるしかないこともあるのですね。

 わたしがこのわたしでやっていくしかないのだ
ということを わたしが感じたことから目を背けても
どうしようもなく だからやっぱり このままいくね と
それをこうして表明しているだけなのだ。

 わたしの さじ加減 を常に考えながら。感じながら。