2014年6月27日金曜日

「俯瞰で見る」という慢心

いやそりゃもちろんたいせつなんである。
「俯瞰で見よう」とすること。

これがないと、ただただ事態に埋没、疲弊したり振り回されたりしただけで終了〜 とか あらやだあの裸の王様ったら きゃ
てなことになりかねず。

自身の仕事においても、俯瞰で見よう、とするのは
とてもたいせつで、これを常に問いかけていないと
相手をつれてどこまでも迷い子、という
プロとしてどうか、ということになってしまったりなんだり。

でもね。俯瞰で見ようとして、
あーいまこんなふうになってんのね、
ここの集団の力動はこんな感じなのね、
てなことを わかった気になってるとき
が いちばんおそろしいなぁ
なんてこともおもった。

特に、俯瞰で見た(つもり)のことを誰かとシェアして だよね〜 なんて
言ってるときなんてほんとに。

俯瞰で見ようとしてるからって、じぶんが高みにいるわけではないんだ。

し、その事態に埋没するというか、コミットして泥だらけに、
みたいなことの、真の尊さがあって、
俯瞰で見ている「つもり」と、
そうと気付かずみずからを「高み」に
据えてしまう行為は、
この尊さからわたしを遠ざけ、
さらにはわたしをどんどん下劣なにんげんへと
作っていってしまうだろう。

俯瞰で見ようとすることのたいせつさもわかっているけど、
それこそそこに溺れないこと。

改めて考え直し、肝に銘じたい。

2014年6月24日火曜日

バカ!

 大槻ケンヂが相変わらずかっこよすぎてどうしよう。

 というのはともかく。

 むかしのむかしのそのむかし
幼少のみぎりに 母親がわたしを占いに連れていったところ
「この子は色情で身を滅ぼす」と言われたらしく
その点にもんのすごく気をつけるように ということを
色情ってなんやねん というお年頃からずっとずっと
言われ続けてきたことを勝手に そのとおり と思い込み
生きていた時代がございました。

 結果 ジョシぽく在ることを 恥ずかしい
と思ったり ちやほやされることにものすごく憧れてたくせに
そんなこと全然うらやましくないもんね ってふうに
やってきていたわけですけど
いまになってわかるのは わたし そういうことを
実際には残念ながらもんのすっごく求めてる
ていうことなのよ。

 ちやほやされたい。

 その意味するところが 単に男子の カンタンにやりたい
という欲求を満たすところのものである と重々承知であっても。
そうじゃないかもしれないじゃん てことに
賭けてみたくなるくらいには ほんとうに残念なわたし。

 ちょっともちあげられると ついつい それに
乗りそうになるんだな。それがいかにバカげているか
わかっていながら。
 

 もうそういうじぶんをわかって開き直って遊んでやろうか
と思ったりもするけど でも そんなことを続けたら
わたしのたましい みたいなものがものすごく疲弊してしまうと
わかっているから やっぱりわたしは わたしの存在をたいせつに
矜持をもってすごそうなるべく とおもうのだった。



 あーもう。みんなこういうのをもっと若い頃にやってるんだよね。
バカ! おれのバカ!

 でも それがたのしいのも うそではない のよね。

2014年6月23日月曜日

ひらいているの

 要は ひらいてるか とじてるか なんだよ
って けっこう聞いたことがあって
それに対して えー とか思っていたんだけど
最近 ほんとにそうなのかも と思わなくもないのであった。

 ガードを低くしてると 低くしたなりのことが起きて
あ そうですか とおもう。 それが いいかわるいか は別にして。
ひらいておく の意味がすこしずつ わかってきた
ような気がする。




 

 てことで まだまだこれから いろんなことがあるんだろうな
たのしみだなぁ と おもう。

2014年6月19日木曜日

ねじれの位置

FBのタイムラインに、思いがけないことがらが
思いがけず登場することがここ最近あって、
でもなんかそれでもそこまでもう動揺もしないし、
けど、それをこうして報告しちゃう程度には
こころにさざなみ。

ていうおのれを 意外とかわいいとこあるじゃん
ていうか はっきり言ってちょっとキモいぞ と
冷静に観察してみるおのれもいらっしゃいます。

えーと。結論として、おれ、めんどくさいι(`ロ´)ノ

いちどは交わったはずの線はどこまでも離れてゆくばかり、
なのではなくて、そもそもねじれの位置にあったものが、
たまたま なんかのはずみや
時空の歪みなんかの作用で
ほんの短い夢みたいな何かを見せてくれて
そのときが終わって また
もとのねじれの位置に戻ったのかな
とおもったりして。

でも、わたしにきっとまだぐずぐずとした
過去の栄光みたいのにすがりたい気持ちがあって
それが思いがけないタイムラインへの登場を
よんだのだろうかな
とおもう。

ともかく時は流れ、いまはいまで、
いまやねじれの位置にあるあのひとが
なんかものすごくがんばったり
時代に乗っかったりして
ちゃんと開いていってて
負けちゃいられねぇ
と思うのだった。わりと本気で。

2014年6月11日水曜日

考え続けること感じ続けること問い直すこと

何かコトが起きたときに、どうしても じぶんがまちがってたとか正しかったとか
そんなあまり意味のない基準でじぶんを防衛するしくみを発動させそうになるんである。

全面的にいい も 全面的にわるい も実は同じことで、
そうして固まった時点で思考停止で、何かに発展する芽が
絶たれてしまう感じがする。

といって、正しいとか間違ってるとかじゃないんだよ
両方に何かあるんだし、
のとこで終わらせても それはまた
思考停止 なのだった。

起きた(ている)事態のしくみやなりたちを、なるべく把握しようとすること、
その中で、みずからが引き受けるべきことを引き受けて真摯におこなうために、
考え続け、感じ続け、そして 問い直すことを
やめないでいたいなぁ、と
おもうのだった。

という一連のいとなみを、
引きずるとかそんな残念なことにすることなく
放棄という残念なことにすることもなくおこなう
というのは ほんとにたいへんだなぁ、とおもうけれど、
そういうふうに在りたい 在ることができたらいいな、とおもう。

2014年6月5日木曜日

甘くみあわないトモダチ

 さいきん右目のまぶたが顔面神経痛 て痛くないけど
まぶたが ぴくぴくっ てなるんである。
なんかあるんやろな。 そして 完全に なんかある ときに
最高潮に ぴくぴくぴくぅっ てなる。


 それはともかくですよ。


 そういえば 見てくれてるなー とか思うと
そのひとをすきになってみたりしたものだったけど
さいきん じぶんのいいところもわるいところも
よくわかってくれてるな って思う男子が
大学時代からの友人にいる。いまやふたりとも 
ものすごくいいトモダチ とおもう。
恋をしようとおもえば できるかもしれないけど
あえてしなくてもいい感じで。

 もし 彼らにそれなりの駆け引きぽいものを感じたら
わたしはすぐに 恋におちてしまえる とおもう。

 でもそうならない。

 で それは あたりまえよな ということに
この歳でようやく気付く。 
いい面だけでなく 悪い面もしっかり見てる て
それって むこうがこちらに いちみりも 恋愛的要素を感じないから
できることだよね って。

 川上弘美ちゃんの小説に
お互い甘くみあわないでどうして恋ができるだろう 
みたいなくだりがあったとおもう(ニシノユキヒコ だったとおもう)。
あぁほんとうにそのとおりだなぁ とはじめてその小説を読んだときも
思ったはずだったけど 最近また ほんとうにほんとうにそのとおりだな
と感じ入っているのであった。

 そういうことなのよ。 いい面も悪い面もしっかり見て
それを長年にわたって受け止めてくれてる って
それは恋になりっこないよね。 愛にはなりえても。


 だから何 ではないけど まぁとにかくね
よく見てくれて 適切な助言やらなにやらしてくれるトモダチがいて
シアワセ っていう そういうことです。

 

2014年6月3日火曜日

いまはいまであってあの頃ではない

 振り返ったところでどーしようもないのだけれど
そうとわかりつつ、 本気で あとちょっと のところで
身を滅ぼしそうになっていたころ のことを振り返ったのだ。

 あんなことをしないといられなかっただなんて
なんてかわいそうだったんだろう。 そして なんてバカだったんだろう。
もう二度と あんなことはしなくていい とおもうけれど
でも あの頃のわたしも 申し開きのないほどわたしで
そのことが いまのわたしを脅かしそうになることも 正直ある。

 あのころのアレは 一体なんだったんだろう と 
いまのわたしは それしか思わないとしても。

 

 当時のわたしもそのことには薄々気がついていて
いつか いまじぶんがやっていることが 将来のじぶんを苦しめる
それがこの報いだろう なんて思っていたりもした。

 

 過去は過去で いまはいま であるとおもう。
過去がなかったことにはならないし
その過去のせいで じぶんを汚くおもうこともあるけど
でも わたしは いまのわたしがすきだし
めちゃくちゃな過去をとおって それでもこうして いま
になった ここにたどり着いたわたしを誇らしくおもう。


 いまのこころもちは 前の前に別れたひとと
一昨年あったときと 似たようなこころもちだ。
あのころのわたしは いま いちみりもいないし
いまはあのころではなく いま でしかない ということ。

 そうとわかっていても たまに波のように来る何か を
やりすごしたり たちむかったり ともかく
わたしは わたしとして生きるための作業を
これからもずっと 続けるのだな とおもう。


 


2014年6月1日日曜日

わたしのたたずまい

 ひとはみな それぞれのじんせいをそれぞれ生きていて
それでも 10代のころのたたずまい というのは
そうカンタンにはなくならなくて そのなつかしい雰囲気を
どこかに保っているようにおもう。

 ぱっと見た感じとか 考え方が大幅に変わる ということはあるし
ひとは変わっちゃうよね 関係というのも日々変化するよね
なんてことも思うけれど でも 高校時代のトモダチとかそういう
ものすごく長いスパンで知り合いでいるひとたちと会ったときの
すぐに感じられる あの当時がすぐによみがえるような懐かしさ
みたいなものを感じるたび ひとはそうそう変わらんのだなぁ とも
おもう。

 変わるし 変わらない。

 きっと じぶんを変えたい と切実に思うときであっても
その変え方は じぶんがそもそも持っているなにか に準拠したようなそれ
であるのだろうな。

 初対面のひとにあたえるような印象の違い とか ぱっと見たときの違い
みたいなものはどんどん変わるのかもしれないけれど。


 わたしは じぶんが変わった とおもう。 でもやっぱり
ずっと変わらずわたしであるところもあって
だから 10代のころのトモダチと会ったとき お互いを本気で認め合えるのだ
と そうおもう。




 いろいろな意味をこめ そして つらいことや
後悔するようなことがたくさんあっても でも
やっぱり いまがいまで ほんとうによかった。

 この週末 わたしは 高校時代のトモダチと
フラ教室で仲良くなったトモダチと に会ってきたのだ。
むかしからのトモダチと あたらしいトモダチ
双方に対し 両方 わたしがわたしでいる と思って会うことができていて
わたしはほんとうにうれしかった。