2014年6月27日金曜日

「俯瞰で見る」という慢心

いやそりゃもちろんたいせつなんである。
「俯瞰で見よう」とすること。

これがないと、ただただ事態に埋没、疲弊したり振り回されたりしただけで終了〜 とか あらやだあの裸の王様ったら きゃ
てなことになりかねず。

自身の仕事においても、俯瞰で見よう、とするのは
とてもたいせつで、これを常に問いかけていないと
相手をつれてどこまでも迷い子、という
プロとしてどうか、ということになってしまったりなんだり。

でもね。俯瞰で見ようとして、
あーいまこんなふうになってんのね、
ここの集団の力動はこんな感じなのね、
てなことを わかった気になってるとき
が いちばんおそろしいなぁ
なんてこともおもった。

特に、俯瞰で見た(つもり)のことを誰かとシェアして だよね〜 なんて
言ってるときなんてほんとに。

俯瞰で見ようとしてるからって、じぶんが高みにいるわけではないんだ。

し、その事態に埋没するというか、コミットして泥だらけに、
みたいなことの、真の尊さがあって、
俯瞰で見ている「つもり」と、
そうと気付かずみずからを「高み」に
据えてしまう行為は、
この尊さからわたしを遠ざけ、
さらにはわたしをどんどん下劣なにんげんへと
作っていってしまうだろう。

俯瞰で見ようとすることのたいせつさもわかっているけど、
それこそそこに溺れないこと。

改めて考え直し、肝に銘じたい。

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