2013年3月29日金曜日

えがお

 愛想がない といわれ続けてどのくらい経つだろうか。
わたくしには愛想がないようなのです。

 おそらくそれは ふためと見れない不細工だ という
かつての自己認識とも大きく関係しているとは思うのですけれども
ながらく わたしの笑顔はふつうにしてるよりもっと汚い
と思ってきました。真剣に。

 というのもあって ひとさまに迷惑をかけないように
なんて思って笑わないでいたところもあったかもしれません。
もちろん トモダチと話しててたのしい とか
そういうときは普通に笑っていたと思うのですが
たとえば初対面のひとに対して たとえば知らないひとと話すとき
たとえばバイトで接客の際 など わたしはあまり
笑わなかったのではないか と思います。

 高校のときも大学のときも大学院のときも
第一印象は こわいひと(こわい先輩) だったし
高校のころ 渋谷でクラスのジョシのみなさんと一緒のときに
大学生くらいの男の子たちに声をかけられるなどした際には
おそらく鬼の形相だったのだろう。「ねー 怒んないでよー」 
と言われたことを鮮明に覚えているし その後大学生になって
喫茶店で働いた際には ひととおり仕事を覚えたかな、くらいのころ
せんぱいに「りんぐるちゃんはあと愛想があれば完璧なんだけどねー」
と言われたものだった。

 その後 大学院に進んでのち いまの仕事に就いてからは
こわい とか あんまり言われなくなったので
もうむかしほど 笑わない というわけではないんだろう
と思っていたのでした。 

 が。

 言われるのよー。フラ教室でー。
「ほら!うずちゃん! えーがーおー!!
あなたは笑顔が足りないのよ! そう そのくらいの顔
いつもしときなさい」 って。せんせいに。


 いやぁ。出るのですね。そういうのって。
いまでも じぶんの笑顔はちょっと残念だな と
じぶんを客観視した際に思うことがあったりもしちゃうけど
でも 笑っているひとを見てイヤなきぶんになるひとはいないし
わたしはじぶんがそこまで不細工だ とはいまは思っていないのに。
のにもかかわらず 笑ってないんだなー。

 踊りには そのひと が出る という。
どんなことでも しぐさややり方などのはしばしに
そのひと というのはにじみ出るものだとしても
フラの際のわたしのあれこれ は おしなべてすべてわたし。
じぶんをよくあらわしているなぁ と感心したり
あたらしくじぶんを知ったり などするのです。


 フラを続けて もっとふだんから笑顔でいられるように
というと すごくつまんないことのような感じもするけど
でもなんだか わたしにはとても たいせつなことのような
気がするのでした。 あかるくえがおで! みたいなことが
かならずしもつねにいいことだとは思わないけど 
わたしがわたし自身を生きていたら
きっと笑顔にちかい表情にならざるを得ないのだろう と思うから。

 


 

2013年3月25日月曜日

はるやすみ

 3月も終わりにちかづきました。春休みです。
あたらしい年度になるそのさかいめ。
さくらが咲きはじめて しろい木蓮もふわっと咲いて
まちがはなやいでくる という そんな感じです。

 去年のあの頃から ほんとうにまた1年が経ったんだ。

 もっといえば アタマの悪さMAX みたいな
ことしの正月からは約3ヶ月。 正月なんて ついこのあいだ
のはずだけど もう遠いむかしのようにおもう。
そのくらい ほんとうに一昨年の秋の終わりのあのときから
わたしには ものすごい勢いでいろんなこと(心的に)があって
あのねぇもう Aloha 'Oe を踊ってるときには
危うく泣きそうになるほど ですよ、えぇえぇ。

 ともかく。 わたしはいま なんだかすごく
シアワセなの。 フラがたのしい。 下手だけど
もっとうまくなりたい。 ハーラウのせんせいみたいには
絶対なれない(身体能力っていうのがあるじゃん)けど
これは わたしが一生 わたしのからだやわたしのこころもちにあわせて
ずっとずっと 続けてゆけるものだ とおもうし
踊ろう と思ったときに フラを選んだことは
わたしがこの人生でなした 数少ない 正しい選択 のひとつだ
とおもう。 

 もっと身体能力が優れていて 筋肉がうまれつきやわらかかったら
と思うけど でも フラはわたしの アタマとこころと身体を
すべて感じさせてくれる ものすごいしくみなので 
わたしは一生 これを手放さないだろう。 なんて。


 わたしはこれまで ずっと アタマのなかだけで考えて
そのことで すべてが完結していたなぁ とおもうの。
何もしなくても もちろん誰かと会ったりとか
そんなこともするんだけど それよりなにより
じぶんのアタマのなかであーでもないこーでもないって
それこそがすべてで こと 現実世界において
じぶんで行動を起こす ということは 
ほんとうに苦手だったし しようとはしなかったの。

 ちょっと現実と離れた あと一歩でどうにでも
おかしな方向に進んでしまうような そういうところばかり
行動して わたし自身が ほんとうに 人生を
わたし自身で 行動して 経験する ということを
ほんとうにしてこなかった とおもうの。

 いま。 わたしは わたしの現実の この 生きている世界で
いろいろな経験をしている とおもうし
もっと経験したいし 世界がもっともっと 
あの ひかっている あかるい方向にも ひろくひろく
ひらけていることを わたし自身で知りたい。


 そのツールのひとつがフラで
そこがはじまりで わたしはもっと世界とつながるんだ。






 神様。 この春休みはまた わたしにとって
とてもすばらしいものになると思います。 春休みだけじゃないけど。
この先ずっと。 何があっても。 すばらしい とは
とても言いがたいことは いくらでもあるだろうとおもうけど
わたしはこの先も もっとわたしがわたしになることに集中します。


 だいすきなひとと もっと出会いたいし
たいせつなひとたちをもっとたいせつにしたいし
これからをともにするパートナーと ちゃんと出会いたい。


 



 

2013年3月23日土曜日

ふわり

 もちろん まだまだものすごくへたっぴだし
これからも たとえばステージで中央に立つような
そういうじょうずなひとになることはありえないのだけれど
いまわたしはフラがほんとうにたのしくて
ちょっと恋をしているみたいに夢中だ。

 まぁとはいえ いかんせん中途半端でなまけものな性質だから
徹底した練習をしているわけでもないし おもうように動かないところは
まぁきょうはこんなくらいで とかいってあっさり練習をやめたりするけど
でも 明日も踊ろう いつかあのステップができるといいな
あの手の動きがあたりまえになるといいな なんて ほわん
と思うことができるのは わたしにとっては
ほんとうにすごいことだな とおもう。



いつかレフアの花の写真をハワイ島で撮りたいな。これはレフアとは無関係なふわりとした木蓮。



 じぶんのどこかにある いいこちゃんで できないことがイヤな
完璧主義ぽいところ というのも むかしよりずっと
意識できているから そういう子がちょっと出てきても
それなりにコントロールできるし いいこちゃんでいたいばかりに
できないことを認めるのがイヤで仕方なかったことからは
多少解き放たれているから ぷっつりなにもかもやめてしまう
ということもないとおもう。

 フラはおもいのほかアタマも使うけど
アタマでっかちでどうしようもなかったわたしにとっては
やはり からだを多く使うことなので そのことが新鮮なのだし
おもうようにからだが動いたときのよろこび というのは
ほんとうにすばらしいものなのだった。 まぁ おもうように
ていう そのレベルがまだ低いのだけれど。

 来年のいまごろ どういうふうにからだを動かしているのだろう。
わたしのフラは どのようなものになっているのだろう。
そのあたりがやわらかく変容していったらいいな とおもうし
それにともなって わたし自身も やわらかくなることができたら
と願わずにはいられない。 レフアの花みたいに。
ふわり としたものになりたい。


 

2013年3月22日金曜日

きらり

 ここしばらくで またいちだんと
周囲がわたしをどう思うか とかそういうのから抜けた。

 でもそれは わたしひとりでできてきたことではなくて
わたしのまわりには わたしを支えるたいせつなひとたち
というのがいて そのことをいろいろなかたちで
感じさせていただけているから である。

 そのことがあるから 周囲に対して自由になるのだろう
とおもう。 まわりのひとがわたしに何を求めてこようとも
それはそのひとにとってのわたしに対するものでしかなく
けれども
わたしがわたし自身であろう ということに一生懸命になっていれば
まわりがわたしに求めるものも わたしに見合った何か
になってゆくのだなぁ ということを感じたのだった。


 すこしまえに わたしは勝手にわーっと寄ってこられて
期待はずれ! と去っていかれる みたいなことによくなってて
でもそれはじぶんが引き寄せてたことなんだろう と書いたけど
それは わたしがわたし自身になろう としていなかった
ということと同義なのかな とおもう。 わたしは誰かにとっての何か
になりたかったのだろうとおもう。だから なにかすごいんじゃないか
みたいなことや このひとはわかってくれるんじゃないか みたいなことを
強烈に感じさせるような何か を ぷんぷん振りまいては
おかしなことになっていたのではないかなぁ とおもう。


 でももう 誰かの何かになろう などと思わなくていいのだった。
わたしがわたしになろうとすること がほんとうにたいせつなことだし
ほかにあるとすれば たいせつにおもうひとたちが 
わたしを認めてくれている そのこと自体を真摯に受け止めて 
ほんとうにそうあるようにしよう とおもうこと くらいだからだ。

 
 そういうふうに しんに感じることができている
と実感できたとき こころがふるふるとなるくらい
これからのことがたのしみになって 世界がきらりとひかった。





 バカにしてくれてもいいよ。 いいことばっかりある
ていう意味じゃなくて 世界がわたしに対してすこしまた
開いてくれたとおもったんだ。 それは わたしが世界に対して
すこしまた開いたから だとおもう。


2013年3月16日土曜日

ありがとう神様

 きょうはTwitterで知り合った 超ご近所さんと
うちでワイン会をいたしました。 酒の肴を持ち寄って。

 まえに 物心ついてからはじめてすきなひとがいないかも
と書きましたが、いまそのかんじを心から平和にたのしめて
で トモダチと会ったらうれしいし 何も(マイナス方面に)
こころを揺さぶる何かもないし とてもシアワセだなぁ
と実感したのです。
 
 40年生きてきてやっとこの境地。
ありがとう。ほんとうにいまわたしはシアワセです。
いろんなことがあったけど なんかもう
いまみたいな心持ちになれるようにすべてがあったのか
と思うとほんとうにすばらしい と思います。

 人生はパーフェクトですね。

 

ありがとう神様。






*きのうほどよく酔って とてもいいきぶんでこれを書いたのだった。
 もちろん またこれからもいろんなことが起こって わたしはこころを揺らし
 いろんなことを感じたり考えたりして つらくなったり かなしくなったり
 うらめしくおもったり 腹立たしくおもったり などもするのだろう とおもう。
 けれど こういう いまのようなこころもちのことがたしかにあった ということは
 わたしのこれからにかならず活きるとおもう。 パーフェクトだ と
 いうところを信じることができるとおもう。

2013年3月10日日曜日

矜持

 矜持 ということばがある。

 このことばを知ったのはいつのことだろう。
高校生だか大学生だか そのくらいの頃だった
ような気がする。 ゆうめいじんか誰かが使ったのだったか
教科書のなにかに出てきたのだったか
もうはじめてきいたときの詳しい状況のことはわすれてしまったけれど
はじめてのときの なんかこう 身が引き締まるような
というよりも こんなことばをきちんと使えるオトナに
わたしはなることができるんだろうか と考えてくらくらした
その気持ちのことをとてもよく覚えている。

 いまでも 矜持 ということばを思い浮かべると
ちょっとまごまごしてしまって おてんとうさまは見てるわよ
とか言われでもしたかのような なんだかこう
落ち着かないこころもちになるのだった。
はたしてわたしは このことばをきちんと使いこなすに値する
そういうにんげんになっているのだろうか?


 くらくらしてしまったほどだから
このことばに対しては そこそこの 思い入れ が
わたしにはあるのだろうとおもう。 が 最近なのだ。
やたらと「矜持」がわたしにおりてくるのは。
そして わたしはまだ 自信をもって
矜持 を使いこなせるわたしです! とはとても言えない
そういうにんげんでしかない とおもう。

 ほんとうに 最後のところで甘い というか
すっとうつくしい立ち姿をたもってさいごまでそこに在る
ということがどうしてもできなくて
つい ぐにゃっとしてしまうのだった。
ぐっとこらえることが やっぱり苦手なのだった。

 そして いちばんダメなのは こうして
苦手なのだった とかいってまだやってる という
そういうところなのだろう とおもう。

 
 去年はどうしたって苦しかった。苦しいなりに
わたしとしてずいぶんがんばった というところもある。 
が やっぱり がんばりきれずに おかしなところで
格好わるいところを山ほど露呈してしまった ともおもう。
そのたびに わたしのアタマにおりてきていた
矜持 ということば。

 これまでの人生で 矜持 ということばを気に留めたのは
はじめて知ったそのときだけだったようにおもう。
それが この1年間は かなりの頻度で
わたしは 矜持 ということばを脳裏に感じていた。



 そろそろ わたしの感情が とか きもちが とか
そういうことだけを言っていないで わたしがどう在るか
ということに もっと真剣に取り組みなさい というしるし
なのかもしれない。

 きょうもわたしは 矜持をたもつことができなかった。
わたしが在りたいわたし と きょうのわたしの態度は
遠く離れていた。 泣き言のようなものを言って
わたしがこういういまに在ることを 許してもらおうとしたのだろうか。

誰に?




 

 わたしを許すものがあるとすれば それはわたし自身でしかなく
それをほかの誰かにしてもらおう なんてほんとうにひどい話だ。

 これからのわたしが 矜持 ということばを使いこなすに値する
そういう人物となってゆけますように。



2013年3月3日日曜日

この先のこと

 ずっとこのまま いまの職場を軸にしてはたらいて
歳をとっていくじぶん というのも想像できるのだけれど
いつかわたしはとうきょうに戻ることがあるのかもしれない
と ぼんやりと思ったりもするのだった。

 ケッコンしよう という方向に動いていた
前回の恋愛のときは そうかわたしはとうきょうに戻るのか
と やっぱりしょうがないか みたいにして思ったものだったけど
その話がなくなって そして すっかりそのへんのアレから
離れてきたいま でもやっぱり もしかしたらとうきょう?
というか とうきょう生活圏内? というのも
可能性としてゼロではないんだな と思わなくもない。

 そのへんがよくわからない。 というのが正直なところだけれど。

 このまま関西にいる というのも悪くない。
特に いまのしごとをするうえで 
いったいどこの出身なのかわかりにくいことばを話している
ということが持つちから というのを感じることも多々あるし
なんというか 両親のいるとうきょうと 両親の生まれ育った広島の
あいだの土地である ということも じつはわたしにとって
据わりがいいような そういう感じもあるのだった。


 まぁ要するに 40にして まだこの先どうなるかなんて
なんにもわかんないなー ていう そういうことなのかもしれない。

 将来のビジョン なんて いましてる仕事の本業のぶぶんに
死ぬまで細々とでも関わってゆけたらそれでいい というのが
いちばん大きなもので そこは決まってるから もうあんまり
こわいとかないし 子どもを持つかどうか でいうと
この1〜2年が正念場だけど それももう あがいたりなんだりして
どうこうなるものでもなくて 子ども ていうことがあるかもだし
ないかもだし どっちでもいい としか言えないのだった。

 きっと 決まっているのであろうわたしの運命。
でも それをどう感じ どうわたしのなかに落とし込んでいくのか
は 自由であるわたしの人生。

 どうなるかなんて ほんとうにわからないのだな。

 てことで とにかく じぶんにとってきぶんのいいこと を
していこうとおもいます。




 

2013年3月2日土曜日

わたくしのこのみ

 これから というのはどうなっていくんだろう。

 このブログをはじめてからも 何度か
やっと次の場所にきた と思う瞬間があって
てことは なかなか すっきり次 というふうには
ならなかった ということを示しているのだけれど
でもやっぱり いまは あぁ いちばんしんどかったときとは違う
次の場所なんだ とおもう。

 きょうはなんか とある身近にいる既婚の男性に対し
あぁわたしはこういうひとをやっぱりとても好きになるな
とおもって というか 前から わーこのひとが独身だったら
絶対好きになってるわー とおもってたんだけども
ともかく ですよねー とじぶんの気持ちをあらためて
確認したのでした。 そのひとがどういうひとなのか
というのは一言では言いにくいのだけれども
それでもがんばって言うならば 思慮深くて
たたずまいはくっきりしているんだけれど
しかし 印象がソフトなひと という感じか。
なんだそれ。


 なので もしかすると 恋愛することは しばらくないかも
と感じたのです。 もうへんなふうにじぶんをおしこめたり
焦ったりすることもないわよね って思うと
わたしがじぶんのこころに背かずに 大手をふってすきになり
愛を伝えることができるような相手は そうカンタンには
見つからないだろうな と。 わたしがすきな感じのひとは
たぶんおそらくたいてい結婚してるもん。 そして
ちゃんとパートナーと関係を築こう と真摯に向き合ってるひとだもの。
そういうところを より いいなぁ って思うんだもの。


 いろいろ遅すぎる。わかるのが遅すぎる。
しかし 今になってこういうじぶんの好みとか
じぶんがほんとうに求めるものがわかったことも
わたしがわたしとして生きてく過程のひとつで
だから ほんと これからもこうやって生きていくだけ。

 ほんとうにいいな とおもうようなひとが
どういうひとなのか ということを 多くのひとが
恋愛したり 伴侶をみつけたりする時期に
とらえることができなかった。 そういう時期は
解離してたから どうしようもなかった。
情けないなぁ 残念だなぁ とおもうけど もう
いまあるわたし がすべてだ。

 とにもかくにも これからは わたし自身にいつも忠実でいたい。
いま をしっかり経験しつくして ひとつひとつを味わうこと
だけを考えて。