2013年1月31日木曜日

きのうのつづき

 誤解を恐れずに言えば 
わたしは よくもわるくも 天真爛漫 なのだろう とおもう。

 天使か というようなあの母親の血を わたしもある程度は
受け継いでいるようだ。 ということを長らく認めることが
できなかったけれども これまでを振り返ってみると
どう考えてもわたしは わたしの思い のようなものを
ストレートに表現することで まわりとの関係を築き
つながってきたようにおもう。

 それは わたしの持って生まれたところ に近くて
なので そこがどうこう ということではないのだろう。
むしろ 母に反発するここころもちが強いあまりに
わたしがその 天真爛漫さ を認められず
ゆがんだかたちで抱えていたこと のほうが問題だったような気がする。

 「沈黙は金だから」
と トモダチは言った。 そのとおりだ とおもう。
ほんとうにじぶんと向き合い 抱えることができるならば。

 しかし 沈黙で守ったつもりもの を 知らず知らずに
他の人に投げかける ということをわたしはしたくない。
そうせずに ほんとうに黙すること は 悟りをひらく くらいの
ものすごい苦行と修行の果て なのではないか とさえ思ってしまう。

 わたしのやり方 があるのだとおもう。

 そもそもわたしは 天真爛漫さ のようなもので
ひとのあいだに入り ひととつながり やってきた。
先にも書いたように それはあまり 変える必要のない というか
変えることのできにくい部分なのではないか とおもう。

 わたしは じぶんと向き合うこと には
ひととぶつかるべきときにぶつかる というとちょっとアレなんだけれど
しかるべきときにきちんと対峙すること が 必要だと思っている。

 その 対峙 ということをわたしは すべてを受け止めようとすること
投げ込まれようとすること(あるいは 隙をみて投げ込もうとするような
こともあっただろう) で避けてきたようにおもう。

 そのやり方は わたしをぐにゃぐにゃにしたし けれど
わたしを支えた。 でも もう そのやり方で生きる時期は終わった。
あたらしい わたしがもっと わたしになる そういうやり方で
これからはきちんと 対峙すべきときには対峙すること を
こころがけて生きる時期になった。

 わたしはこれからも ひととのあいだで生きるだろう。
わたしはわたしの 天真爛漫さ を もっと認めて
そしてそのことを活かす暮らし方をしよう。

 制御されない 認められていない 天真爛漫さ は
これまであらぬところで暴走して そして相手が投げ込むものを
増長させ ときにはわたしはそれを感じとってアクティングアウトし
そして 相手とじぶんを 両方傷つけることがあった。

 もうそういうことはしたくないし せっかく受け継いだものは
いいかたちで活かしたい。



 

 

2013年1月30日水曜日

在り方のこと

 じぶんの蒔いた種 みたいなことしか起こらない世界です。
主には。 もちろん 天災その他 降ってわいたようなことも
起こるけれど たいていのことはおしなべて じぶんの蒔いた種
というか そもそもじぶんの何か をあらわすことが
起こっていて それを 事故 ととらえるか みずからのこと
としてとらえるか くらいの そういう違いのような 
みたいなことを この文章のようにとりとめのない感じで
ぼんやりと思っています。

 甘えをだだ漏れにされることをよし としていたわたし
というのはつまり 投げ込まれることをよしとする
ということであるのね なんていうこれまた当たり前のことを
考えまして たまに起きていた 爆発的に嫌われる という事象も
そのたまものだったのだろうなぁ と思ったのです。

 まぁだいたい キライになるひと というのは
じぶんにもあるそういう要素を拡大して表現しているひと
と言い換えてもいいわけですからね。 
わたしが 投げ込まれるのをよしとする在り方 で
存在していたことが かなりの大きさで要因としてあったのだわね。

 わたしを 大っ嫌い になって ぶちっとつきあいを切ったひとたちは
おそらく わたしの際限なく投げ込まれようとする感じ(しかし
表面的には言いたいこと言って好きにしているようにも見える) に
何かを動かされて反応したひとたち でもあるのだろうなぁ。

どういうことか というと わたしが そのひとがじぶんでイヤ
とおもうことを拡大してやっていた ということ 
というだけではなくて わたしが どんどん
あたりどころなく吸収しようとする感じ に じぶんのイヤなところ
をどんどん投げこんで それを大きくしてわたしの行動の
いろんなところにそれを見る というような。わたしの具体的な行動にも
もちろんそのひっかかりとなるもの(反省すべき点)もあっただろうけど
そのこと自体はむしろあまり大きくない みたいな。 わ。
わかりにくい文章。


 やはり わたしの在り方 がつくったものだったのでしょう。
相手の状況がどうか とかもあるにしても。
あ、相手側から見たら 相手側の物語がありますから
これがすべてではないけれど。 でも 他ならぬわたし に
こういうことが続けて起こった わたし側からの物語 としては
そういうことだったんだな と思いました。

 ちょっとまえに、なんだったんだろう と言いました。
なぜだかわからなくて こころのこりだ と。

 でも こういうことだったのでは とおもいます。
だから、たぶん理由を聞いても すごく意外か
それか それをイヤだと言われるのならもうどうしようもないね
みたいなことかのどちらかで 具体的に わかりやすく
わたしが努力して態度を改める みたいなことで
どうにかなることではないのだろう といまは思います。

 もっと根本の ひととしての 在り方 のこと。


 ほんとうに生きていると 痛いことがいっぱいある。
でも それでも生きていくし そこから学んで わたしはこの
じぶんの根本の在り方を変える作業を 粛々とすすめるしかない。


**************

 
 今朝ひさしぶりに見た夢で わたしはまだ 別れた彼と
つきあっていることになっていてでももう別れ際で 
さらに また両親が出てきたりもして しかも 
父の運転する車に乗ったりしていて まだまだわたしは
じぶんでいろいろなことを動かすちからが弱いのだ と
思い知ったのだ。

 がんばれわたし。ちゃんと立ちなさい。





2013年1月29日火曜日

変わりゆくこと

 引き受けるということが これまでたぶん 苦手だったから
誰かの 引き受けることができていないぶぶん にわたしはすこし 
きびしいのだとは おもう。

 ひとりで立つ とか きちんとひとに頼る とか
ひととしての在り方 のようなものを ずっとずっと 考えてきた。

 甘えてくれればくれるほど わたしはむかし うれしかった。
ダメなところをさらけ出してくれればくれるほど 
じぶんが認めてもらえたような そういう気持ちになっていた。

が。

 それだけ では その関係は 単に片方がもう一方を消費するだけの
そういうものになってしまうのだ ということに
本気で気づいたのは 恥ずかしながらつい最近だ。

 たいせつなひとの前では どんなに格好つけても
ほんとうのところ は伝わるものだし 弱いところや
苦しいところも 結局つつぬけになってしまう。
目指したいそのかたちとの葛藤は すべて 何かにあらわれて
そのことを感じとられている。

 それは だらりと甘えてだだ漏れにしてそれが伝わるのとは
まったくちがうものだ。 矜持を持った甘え っていうのでしょうか。
それと 相手への敬意が感じられない投げつけるような甘え は
ほんとうに違う。

 あぁまた当然のこと書いてるよわたし。






 ともかくわたしは 相手の だだ漏れの甘え を
引き出しやすい性質をもっていた とおもう。 だだ漏れの甘え を
わたしが よし としたからだ。それこそがじぶんに気を許してくれている
という証拠だと勘違いしていたからだ。 
わたし自身が じぶんに敬意をはらっていなかった。

 なにもかもが うまくいくはずがなかったのだ。

 年明けのことはわたしをひどく消耗させた。
かつてのわたしが誘発したであろう だだ漏れの甘えを
いろんなかたちで投げつけられたからだ。
そして相手の発した そのひとの状況のなりたちへの発言によって
わたしはすっかり じぶんのきもちがさめてしまったことを
いまになって気づいた。

 じぶんを低く見積もれば見積もるほど
相手はそれに乗っかってくる。 というか その程度のこと が
起きる。 そして 低く見積もるのと同時に 
モンスターのような強大な自意識がそこにはあって 
だからこそ こんなことが起きた。


 おのれのこれまでの在り方がほんとうに恥ずかしい。

 得たものもある。 たくさんある。 けれど
うしなったものも おもっていたよりずっと あまりにもたくさんある。
わたしがあのような在り方であったばかりに。

 けれど それも通ってきてしまった。 その事実だけがある。

 痛みとともに わたしは変わってゆく。

 

 

 


 

2013年1月27日日曜日

シアワセなことに

 きのう とあるひととの関係において
じぶんの側に 「大きく反省すべき点はみあたらないし」
と 書いていて なんだかすこし そうした表現に もやもや
していたのだが それが何か ということにいま気づく。
おそい。

 えーと。 ある意味 やっぱり上から考えて書いた という
そういうような。 どっちが よりよいのか とか よりわるいのか
とかいう不毛な視点で書いてたところがあったのではないか と。
そのことがわたしをもやもやさせたらしい。

 もっといえば なによーわたしわるいことしてないものー
みたいな そういうこころもちも どこかに。
わー。ださいわようずりんぐる。ちょうださい。


 できごとや状態をかえりみて そのうえで できうる努力をする
ということは怠らないでいたい。 し、これは
そのまえの 突然のリムやブロックについて書いたのとも
同じなのだけれど、わたしのなかに 傲慢さと他罰性がどこかあって
それが出た みたいなところもあっただろう。

 とはいえ。このたびのことでいちばんおおきいのは
わたしがさいきんめきめき認めるようになった
じぶんの中の いわゆるジョシ みたいな心性 が
はっきりと表にあらわれるようになった ということ
なのではないかなぁ というふうにも思うのだ。

 つまり。 もう 時が満ちて 時が過ぎて
一緒にいる時間が終わったのだ ということ。

 恋人同士とかにありがちなアレだけど
でも そのひととわたしは まるで恋に落ちるかのような
そういう速度で仲良くなっていったので
終わり方がそうなってもおかしくないなぁ とおもう。

 わたしがわたしの とある側面をひらき
より わたしになってゆく過程をすすんでゆくとき
その感じは 彼女の過程には添わない というか
彼女の何か をみしみしと刺激し イヤな感じしか与えない
そういうものになってしまったのだろう とおもう。

 もうわたしたちが一緒にいるときが終わったのだ。


 ということをおもったら ちょっとすっきりした。
わたしが悪かったとか悪くなかったとか 
彼女がおかしいとかおかしくないとか
そういうことでは あんまりないのだろうな とおもう。

 そんなことで。 そう思うと
いろいろなことがお互いに起こりながら 
お互いがお互いになる過程をすすみながら 
それでもお互いを認め合える関係 というのは
たいへんに尊く、そして なかなか得られるものではない
ということがよくわかる。

 わたしにはそういう友人が何人かいる。
そんなに多くはないかもしれないけれど
確実に いる。

 そのことのシアワセを噛み締めて ほんとうにほんとうに
そのことにふさわしいじぶんでいられる努力を
これからもしよう と深く深く おもっている。




 きのうは満月だったものね。
手放して解放してゆくとき。すばらしいですね。
生きてゆくって ほんとうに たのしい。 
ぜんぶがわたしの何かだということが ほんとうにすごい。
それがこうして 自然の大きな流れとともに起きてゆくことも
ほんとうに尊い。

2013年1月26日土曜日

さようならあのひと

 とあるひと(「女」と書いて「ひと」と読ませたいほんとうは。
そうしないけど)との関係において はしばしにじぶんが感じてきたたこと は 
はたして わたしのこころにとって ほんとうのこと なのだろうか
という検証を かなり長い時間かけてやってきた。

 年末ちかくにこたえは出ていたのだけれど
そのあとも しばらくわたしは じぶんの思い過ごしかもしれない
という可能性がなくなるまで はっきりとしたこたえを出さずにいた。

 が。 きのうはとうとう はっきりとこたえを出してよいわね と
わたしのこころが そう言いました。

 まぁもちろん ひととの関係で 片方だけがよくない なんてことは
ありえないので わたしにも問題はあるのだろう。 
だが あまり大きく反省すべき点 というのがみあたらないし
じぶんが消耗するばかりの関係を無理に続けるのも
それこそエネルギーの無駄遣いだものね などという
思春期のころで終わったと思っていたようなことを
いちいち考えるはめになったのは なんのめぐりあわせだろうか。

 ともかく。 わたしは わたしの感じたことと
たいせつにおもうひとに対してのわたしの在り方 にいまは自信がある。
だから そこがそぐわないひととは 離れるだけだ。


 こういうことにとても時間がかかる。
切るのは苦手だ。 けれどこれは わたしのために
わたしがたいせつにおもうひとたちへの在り方を 
これからも保つ(あるいは ブラッシュアップしてゆく)ためにも
必要なことなのだろう とおもう。

 こういうことが これまでの人生に そんなには必要にならなかったこと
は たいへんに恵まれていたとおもう。 けれど
必要なときは いつかくるのだ。



****************
 
 走りながら 正月すぎの 減った できごとについても
かんがえていた。 あれをちゃんと 減った と感じること
というのが あのときのわたしに与えられていたミッションだったのでは
などとおもった。 わたしはいま こころと身体とアタマを
むかしほど乖離させて過ごすことはない。 だからこそ感じられた
減り だったのだとおもう。 かつてあのようなことがあっても
減った とは感じられなかったのではないか。

 埋める ための行為のようで どんどん減ってしまう。
しかし 減っていることに本気で気づけないと 止められないだろう
とおもう。 わたし を構成するあらゆる機能が すみずみまではたらくことで
ようやく感じられること というのがあるのだとおもう。


****************


 またいつか わたしは彼女とこころからまじわることが
あるだろうか。 いまはほぼ そんなことは考えられないけれど。

 

 



2013年1月23日水曜日

こころのこり

 なんだかんだいって Twitterをしてた頃についての
こころのこり というか いまだ 消化しきれていないできごと
というものが 実はある。

 誤解されたり あるいは 理由もわからず のうちに
突然に嫌われてしまって ブロックされたりリムーブされたり
ということが 2回ほどあったのだ。

 あまりやりとりをしていなくて というひとにそうされる
というのなら まぁこの口数の多さとかそういうのが
気に入らなかったんだね 縁がなかったということで じゃ
などと気にせずに流すところであるが
この 2回 というのは 双方 そこそこ
なかよくしていて やりとりもしていて というか
あまつさえ 会ったことすらある そういう相手からのそれで
なので さすがのわたしも当時たいそうへこんだものだった。

 1回目は 先方の状態と じぶんの当時の感じをあわせもって
考えてみるに 具体的に これを誤解されたんだな という理由があり
起こるべくして起こったできごと としてわたしに刻み込まれた。

 わたしの肥大した何か と 先方の弱ったところ が見事に合致して
コミュニケーション不全を起こしたような感じだった。 
それは そのできごとが生じるあたりの頃から
当時の恋人と 実はうまくいかなくなっていたわたしのダメなところ
というか 傲慢だったところ みたいなのとわかちがたく結ばれた
そういうできごとであったとおもう。 もちろん なんで? みたいな
ことではあったけれど わたしの傲慢さや 自己中心性の芽が生んだ
そこをクローズアップされることで生じた 警告のようなことであったのだ
とおもう。

 2回目は だいすきなトモダチ経由で知り合ったひとで
Twitter上でも友好的なやりとりがあり じっさいにお目にかかったときも
特に問題なく どころか あぁ仲良くやっていけそうこれからも
という印象を持ったし その後もそのつもりでやりとりをしたり
彼女のTweetをながめたりなどしていたのだ。

 ところが。 ある日突然 わたしは彼女からリムーブされていた。
@の返事がこなくなってそのことに気づいたのだ。

 彼女と仲良くなった当時のわたしは 
その 上に書いたひととの恋が終わって
もうなんか とんでもない状態 にあった。
じぶんが這い上がるのに必死で うっとおしいことや
かんがえたこと おもったこと かんじたこと すべてを
Twitterに書き散らしたり そのことがイヤになって
しばらくTwitterから離れてみたり など
さまざまな悪あがきなどをしていて そのすべてを
彼女はあたたかく 要所要所ではげましながら見ていてくれた
そういうひとであった とおもう。

 それが。その いちばんつらかった いちばんTwitterで荒れた
冬と春が過ぎて じぶんがもう かつてほど書き散らかす
ということがなくなった というときに わたしは彼女から
愛想を尽かされたようなことになった。

 まだまだわたしは傲慢なところがあったとおもうし
わたしはじぶんの課題にきちんと向き合えていない感じも
あったかもしれないけれど 正直 何が彼女のこころに障り
もう2度とつきあいたくない という気分にさせてしまったのか
わたしにはわからなかった。 いまも わからない。

 そして なぜ ということを彼女にたずねて 関係を修復させよう
という努力を わたしはしなかった。 


 たずねてみたら 小さな誤解 だったりするかもしれない。
はなせばわかる ようなことだったりするかもしれない。

 けれど どちらにせよ そのようなものを生み出してしまった
当時のわたしには そのことに相応するなにか があったことは
確かだなのだ とおもう。

 そういうことが 2回も 短いあいだに起こった という
そのことに わたしのいろいろ が集約されていたのだ ともおもう。

 1回目のことから想像するに 2回目のことも
きっと わたしの傲慢さや 知らず知らずに当時出ていたのかもしれない
他罰的なところ みずからをほんとうの意味では顧みることが
できていなかったことから起きていたのだとおもう。

 まだ消化できていないし まだほんとうには
納得のいく理由(わたし側の問題の)に至っていない。

 特に後者の彼女は たいせつなトモダチの 
たいせつな友だちだ。 なので いつか 和解できたらいいな
とわたしは願うし そうできずとも このできごとを
いつかきちんと じぶんの物語に落とし込みたい。

 イヤな思いをさせた ということは実際起きてしまったことなので
そのことは謝りたい。 けれど それが通じなくても
わたしはこのことを わたしなりにしっかり閉じる作業を
これからも続ける。

 

 

2013年1月22日火曜日

ごくたまに

 「豪栄道」 のような 

いちいち口に出して言いたい日本語

などに遭遇すると 

        あーTwitterで言いてぇぇぇぇ

                     とおもう。


 ついつい こころもちなどを言い募って言い捨てる
そういう道具に使ってしまったので 
のようなことになってしまったけれど
ただ口に出したいだけ ただ書きたいだけ の
魅惑的なことばに出会うと なつかしくなる。


 でも わたしはきめている。
口に出して言いたい日本語 を ほんとうに口に出しても
しょうがないねぇこのひとは という目で許容してくれる
そういうパートナーをみつけるのだ と。
言いたくなったら そのひとのまえで いつだって言うのだ と。


 だからもう Twitterは 要らないの。

 

2013年1月20日日曜日

あとかたづけのしあげ

 いまやっていることは お祭りのあとかたづけ の
仕上げのようなこと 点検のようなこと なのだろうな
と ぼんやりとおもっている。

 2010年と2011年は わたしにとってほんとうにお祭り騒ぎのような
いわば ハレ の2ねんかんだったなぁ ということを
ここでも何度か言っているし いまでも繰り返し思い出す。

 お祭りが2011年の終わりとともに終焉をむかえて
わたしは去年いちねんかん 必死でそのあとかたづけをして
ようやく そのかたづけもだいぶ終わって あとは
その残滓のようなものとの決別の儀式 みたいなことを
丁寧に(というとわかってやってるみたいだけどそうじゃなくて
ことが起きてやらなきゃならないことに気づくみたいな感じだけど)
やってきたのだとおもう。

 この3年でわたしが経験したことは もちろんそれまでの人生のながれを
見事に汲んでいる とおもうけれど それでもなお
わたしの人生にとって 画期的で アクティブで 斬新なもの だった。

 




 
















 繰り返し思い出す と書いたが その思い出しかたは
どんどん変化していっている。

 去年の最初のころは これでよかったのだ と思いつつ
やっぱり あの夢のようだった2年間に戻りたい というような
そんな思いが わたしのこころの奥にはあった。
それがだんだんと うすれてきて というのはウソで
うすれてしかるべき という思いに動かされた時期があって
でも ほんとうは夢のような日々に お祭りの日々に
戻りたい気持ちがあるのだ と認めつつ思い出す時期があって
そうしてようやくようやく いまは 戻りたい 
というような感じはなくて けれど 夢のようだったあのときを
わたしは確かに生きていたんだな というその 事実 が
わたしのなかで 過去の事実 としてしっかり存在するようになってきた
というような そういう思い出しかたの変遷 があった。

 お祭りはお祭りであって 決して日常ではない。

 わたしはお祭りだったあのときを 日常にすることはできなかったし
あれはわたしの日常たり得ない出来事だった。 しかし
お祭りはわたしの人生に必要だったし あの日々があっていまがある
ということはまぎれもない事実だ。

 ともかく。

 わたしはお祭りのあとかたづけを終えて つぎの日常へ
お祭りではない日常に しかし よくみるとお祭りよりもずっと
たいせつなことがちりばめられている日常で生きてゆくのだ。

 とか書いちゃってもう。 ね。あはは。
みんなそういうことをあたりまえに生きているのにね。




2013年1月19日土曜日

さらにつづくみちへ

 きょうもフラのレッスンにいってきたが ひとりのときは
びしびし指導されることを ほかのひとたちもいると ほぼ
言われなくなってしまうので ほっとするのと同時に
すこし物足りなくも感じてしまうのであった。

 というのはともかく。 まだひとまえで踊れる7級には合格していないけれど
ゴールデンウィークにあるステージには 初心者のわたしたちも出ましょう
ということになって とりあえずわたしは 4月29日にステージで踊る。
らしい。

 が 来月アタマに検定をまた受けることにしたし
ステージデビューまでにはかならずや7級に合格したい。


 さて。 踊りを練習する ということは
身体 を みずからのアタマの感じや こころの感じとチューニングさせて
あわせてゆく ということなのだなぁ とよく おもう。

 わたしは特に アタマが暴走しがちで アタマと身体がバラバラで
さらには こころと身体もとても遠く 遠いからこそ の
身体の無視 のようなことが かつてはよく 起こっていた。

 踊ることは アタマ と 身体 と こころ をチューニングすること
すべてをつかって表現すること みずからの能力を
できる限り開放してゆくような そういうことの一歩になっている とおもう。





 などということを考えたり感じたりしながら
ちょっとまえのじぶんのエントリを読んで
まぁ じぶんでも それは傲慢じゃね? 的ツッコミを入れてはいるが
「わたしが切ってあげられなかったから」
という表現がほんとうにほんとうに気になりだした。
あぁこれは かつて 「ほかの人たちの物語をわたしが作っている」
夢を見たりしていたときの残り物というか そのときの感じに
ほかならないなぁ と思った。

 わたしが切っていても 彼の課題があるのなら
彼はほかの誰かに対してかっこうわるいことを言い募っただろうし
何をどうするか は あくまでも彼の物語 なのである。
とか当然すぎることを「なのである」とか書いちゃうことが
死ぬほど恥ずかしい。

 しかし そういうのもすべて じぶんが面倒を見たいような
じぶんが作り上げたいような そういうことにしがみつくことで
わたしはじぶんから目をそらしてきたのではないだろうか。

 踊りをはじめて わたしのアタマと身体とこころがほんとうに
遠く離れていたことや それらのコミュニケーションの重要性に気づいて
わたしがいま目を向けるべきもの というか 目を向けざるを得ないのは
みずからのバランスの調整である メッセージを強烈に感じている。

 相手をたいせつにおもうこと は 相手を調整すること とは
絶対的に違う と アタマではよくよく わかっていたはずだったのに。


 なんてくだらないことを書き募っているのだろう。
わー。わー。 恥ずかしさの極地。

 でも書きます。 でも書いておきます。
わたしが本気で わたし を資本にしてやってゆくために。


 身体はすごいですね。
いままで無視しててほんとうにごめんね。

 

2013年1月17日木曜日

ものがたること

 気がつけばあっというまに1月もなかばをすぎ
きょうは18年前に阪神大震災があった日なのだった。

 あの頃わたしは大学生で 1限のドイツ語の授業に出席すべく
いつものように朝起きて 歯を磨いて いるときに
居間のテレビに43号線のあの惨状が映し出されているのを見たのだ。

 日本のこととは思えず わたしは母に
「どこの国で地震だったの?」と尋ねたのを覚えている。

 それが つい何ヶ月か前 トモダチとともに旅した
あの神戸なのだ と知って そこからなんとも言えない
ふわふわとした まったく現実感のともなわないこころもちで
わたしはいちにちを過ごした。


 その後わたしは大学院生として神戸に住むことになり
さらに神戸で働くことにもなった。

 わたしは あの日 を実際に体験していない。
体験していないことを うしろめたく思うこともあった。
が 体験していないわたしがここにいて この仕事をする
ということにも意味があるのではないか と思ったりもした。

 のだがしかし。 意味があるとかないとか そのどちらでもなく 
ただ あの日を実際に体験していないわたし
が ここでこの仕事をしている という事実がただあるだけだ と
いまはおもう。 その事実のなかで 精一杯 できることをやるだけだ。


*********


 ものがたりに落とし込む という作業と
意味をみつける という作業を なんとなく
同義にかんがえていた時代があったようにおもう。

 しかしそうではない とおもう。
意味 があることもある。 が 
実は 意味 などないことがほとんどで 
それでも 出来事 や きもち や かんがえ は生じて 
わたしたちは じぶんの人生のなかでそれを体験して 
そして 次に進んだり進まなかったり ともかく
何らかの流れへとゆく。

 そして 生じたこと を ものがたることができるとき
わたしたちはきっと うまく流れにのることができている。
意味があるかどうか ではない。 
ものがたることができるかどうか。

 あぁわたしはいまこの感じをまだうまく表現できない。
けれど 意味 はなくてもいいのだ。 

生じた出来事やきもちやかんがえが ともかく 
ただ あった ということを 
わたしたち自身のことばや感覚であらわすことができたとき
わたしたちは それらのことを
じぶんのものとしてしっかり消化することができている
のだろうとおもう。 


**********

かんけいないはなし

 きょうもエレカシのうたを聴いているのだけれど
うたをうたう男子のこえは せくしーじゃないとダメですね。
宮本くんも甲本くんも せくしーだとおもいます。らぶ。




2013年1月14日月曜日

断ち切る機能

 あいかわらず 切る ことが苦手なんだな ということを
このお正月にイヤというほど 思い知った。
もっと上手に切ることができるひとであれば わたしはこんなに
消耗せずにすんだだろうし もうすこしことがらは単純だっただろう。

 そして わたしが切ってあげられなかったから
(「あげる」だとか気づいてみるとものすごく傲慢な表現だが)
相手をより ちょっとイヤなひと かっこわるい感じのひと
に してしまったのかもなぁ などともぼんやりと思ったが
でも そう思ってしまうことこそが わたしの 断ち切る機能の弱さ
を あらわしている。

 いずれ 断ち切るべきものは断ち切られてゆく。
断ち切ることができなければ 断ち切る作業をするよう
繰り返し繰り返し ことが起こるだけなのだ。


 しかし。


 断ち切るのが苦手 ということは 同時に
つないであたためる ようなことのほうに
わたしの得意とする機能がある ということにもなろう。
その部分をつかって いろいろな人間関係を作ったり
つないだりしてきたのだとおもうし そのことによって
じぶんでも思いもよらぬような すばらしいものが
育っていた という経験もきっとしているのだ
というか 実際 しているのだ。
 

 だからといって そのままでいい ということではなくて
わたしはわたしがより わたしになる機会を増やし
わたしの世界をひろげるために じぶんの在り方に気づき
そして調整してゆく という作業をしていくことが
必要なのだ とおもう。

 断ち切ることが得意 になることはないだろう。
しかし 断ち切ることはできないから無理 と
そのまま放っておいては わたしの未来はあまり明るくない。

 断ち切るべきもの を断ち切ることができないとき
何度でも同じことが起こる。 そのことはきちんと認め
わたしなりに断ち切ること をおこなおうとおもう。






 ところで。 つい最近 FBで

 Cutting people out of my life does not mean
    I hate them, it simply means I respect me. 

というメッセージを見たのだった。 
ほんとうにそうなのだ。わたしはじぶんのために
じぶんにとって たいせつだ とおもうひとたちと
ていねいにつきあってゆくことを考えよう とおもう。
そのことは じぶんのため になるだけでなく
たいせつだ とおもうひとたちのため にもなることだ
と わたしは信じる。
(ていう文章すら 切る という方向から書けないおれだけどな。)

2013年1月12日土曜日

あるべきやうわ

 明恵上人のことを知ったのは たしか大学生か大学院生か
のときで なので「あるべきやうわ」ということを知ったのも
そのくらいだ。 もう15年以上 このことばはわたしのそばにあって
けれど わたしはそれをきちんと理解している とは言えなかった。

 あるがまま というのとも違うのである。
ただ なにもしないで流れる というのではない。
みずからが何者であり どうあることがじぶんになることであるのか
を 常に見つめ 常に努力をすること そうしたうえで
目の前に起こった出来事を受け入れ、その流れに乗ること
というのが あるべきやうわ である。(現在のわたし解釈)

 説明しろ と言われれば これまでもいまのように説明した
とおもう。 が その中身を 体感として 実感として
深く落とし込んで理解していたか といえば していなかったし
あるべきやうわ の人生を送りたい と思いながら
わたしには その精神のひゃくまんぶんのいちすらも
根付いていなかったのではないかなぁ というこころもちがする。


 わたしの仕事は 因果律に基づいた考え方をしないでおこなう。
というか 因果律ではどうしようもないこと を常に見つめ
それを物語に落とし込むこと を手伝うことである。

 因果律に基づいた考えや こうすればこうなる
ああすればああなる といったことを わたしはどちらかといえば嫌悪し
そうではない考えかたのものやひとを じぶんの身の回りに置いてきた
とおもう。

 それなのに。 わたしはいつも どこかで求めていたのだ。
こうしたから ああしているのだから 
こうなってほしい ああなってほしい と。

 そういうことではないよなぁ とわたしは今日
走りながらしみじみと思った。

 去年のわたしはまだどこか こんなにがんばっているのだから
こうして 踊ったり 走ったり しているのだから
それに見合った何か がわたしに訪れてほしい とかなんとか。

 あぁほんとうに恥ずかしいことだ。

 もちろん 走ること 踊ることは ここに書いてきたように
わたしにとってかなりの効果があって そのちからでわたしはここまで
押し進められてきた とおもう。 

 しかしながら わたしはその一方で
これだけいままでとは違うようにやっているのだから と
ちらっとでも思わなかった といえば うそになる。


 たいせつなのは いま走っていて きもちがいい とおもうじぶん
身体が変わったな と思うこと。 踊っていて たのしいな とおもうじぶん
踊りながらわたしのこころと身体が すこしでも溶け合うような
そういう甘美なものを味わえるという そういうこと。
ちょっとキツいな とおもうランや踊りの練習をしたあとに
身体がそれ相応に応えてくれること。

 わたしはそれ以上の わたし自身ががらっと変わって
すばらしいもの となって 世界からも受け入れられるわたし
になったらいいのに くらいのことを たぶん思っていたのだ。


 あるわけのないことを。 というか そんな因果律的なことを
わたしは求めようとしていた。 そういうことではないのに。

 世界はただ あるようにある。 それはそれは パーフェクトに。
あるべきやうわ しかないのだ。 このすばらしい世界を
すばらしいと感じて生きてゆくには。


 かみさま みちのりは遠く長く でも輝いていますね。
何度でも繰り返し あるべきやうわ についてわたしは考えよう。
わたしが因果律ではどうにもならないことばかりをまわりに置いてきたのは
とてもよきことであった とおもう。 わたしを信じよう とおもう。


*追記*
 
 ゲド戦記 の第三巻「さいはての島へ」をまた読んでいる。
そのうちのゲドのことば。

「自分自身であるということは誰にもそうそうできない、
偉大なことだ。だが、『永久に』自分自身であること、
それはどうなんだろう?」

 これを読んでまた 気がひきしまり、と同時に
すこしラクになった。 そして 原型は直接見たり感じたり
ということができないのだ という話を思い出した。
セルフ も原型のひとつだ。それが象徴としてあらわされてはじめて
それのたたずまいやありようの一部を感じることができるだけ。
セルフを中心としたじぶんのすべてが均衡を保つように動くこと
は尊い。 しかし セルフに乗っ取られてしまうと
ひとは肥大し 死 を迎えるしかない。

 わたし自身になること を目指すけれど それは
完全にわたし自身になること ではないのだ。
いつでもそのときそのときの課題を そのときそのときの揺れを
しっかりとやりぬいてゆくこと なのだ。



2013年1月11日金曜日

さいきん気づいたこと

・こういう顔の男子にだまされやすいたぶん。

  お正月に箱根駅伝をラジオで聞くついでに、ネットでやっていた
 かつての箱根ランナーたちが駅伝の様子を見ながら解説したり
 じぶんたちが走ってたときのことを話したりする というゆるい番組も
 一緒に見ていた。
  そこに 駒大OBの このひと  が出ていたのだけれど
 ながめているうちに気づいてしまった。 

 わたしはこういう顔の男子と縁ができやすくて
 しかも精神的にそこまで深くなれないのはわかっていながら
 ふらふら寄っていっちゃいがちだ 

 ということに。 何人かいたなー。そういうひとが。過去に。

 そういうわけで わたしにはこの手の顔の男子をあまり寄せないでください。
 ダメな恋愛しそうだから。 でも恋愛できるぶん いいのか。…いいの か?



・触媒的なところがあるわね、わたくし。

  なんていうんでしょうか。はっきりきっぱりした態度のひとに対しては
 わたしはわたし でいられることが多いです。 が そのひとが
 はっきりきっぱり ほんとうはしているのに していないフリをする
 というんでしょうか。 ものすごくひとへの察しがよくて てことはこのひと
 じぶんが察してほしいんだなほんとうは ていうような感じのひと
 といると わたくし そのひとが 暗に出しているメッセージ
 のようなものを 知らず知らずにものすごく強く感じ取ってしまって
 翻弄されてしまう というところがあるようです。
 察しがいい のではなく 知らないうちに受けてしまうんです。

  先日ようやっと気づきました。 
 なぜわたしは とあるタイプのひと と一緒にいると 
 なんだか疲れたり 小さいイヤミをいくつも投げられた
 みたいなきもちになったり 何かや誰かにイライラしたりするようなこと
 が生じて 時にアクティングアウトしてしまうことすらあったのか。

  気をつけます。わたしは 暗に出されるメッセージ(のようなもの)で
 翻弄されがち そういうものをみずからの中で増幅しがち のようです。
 

・Twitterが要らなくなったわけ。

  さいしょ、Twitterはじぶんの狭い現実世界を離れた また別の
 あたらしい世界 に開けた場所 としてわたしのまえに現れました。

  順調にトモダチができて ほんとうに気の合うひとたちと 
 年齢や職業関係なく知り合い わたしはあたらしい世界を見ました。
 
  それが。 知らない間に またわたしのTwitterのタイムラインは
 もうひとつの狭い世界 を形成していたように思います。
 そこがすべて じゃないんだけど なんていうか あのタイムラインの世界が
 わたしの現実 になってしまうのに近い感覚。 

  だいすきなトモダチがまだTwitterをやっていて 先日ひさしぶりに
 Twitterをのぞきました。トモダチのページごしに 
 なつかしいアカウントがいくつもあって そのひとたちの会話とか
 言ってることをちょっとのぞきました。

  すると ここがすべてのようなこころもちになっていた具合の悪い感じ
 が思い出されてきました。と 同時に Twitter上の人間関係の話 や
 そこから生活や思想を推測する動きを話されたとき、あるいは
 じぶんでもそういうことを考えてしまったとき の違和感 と
 ちょっとした嫌悪感 が はっきりと襲ってきました。

  わたしがTwitterを必要としなくなったのは ほんとうの現実が
 ちゃんと ひろく感じられるようになったからなんだろう とおもいます。 
 もちろん わたし以外のひとは Twitterは単にTwitter
 それはそれ これはこれ でやっていたのでしょう。 でも
 わたしはたぶん 狭い現実からひろい世界に開けようとして
 逆にいつのまにか 閉じてしまっていた のだとおもいます。 

  そんなとき ハワイに行って いまいるこの現実世界こそが 
 ほんとうに開け放たれた ひろいひろい世界なのだ
 ということに気づいたというような。 だから 言うべきことが
 もうなにも なくなっていたのだと思います。

  Twitterで仲良くなったひとたちとも いまは こっちの現実のベースで
 なかよくしています。 それなのに Twitterで彼女ら彼らを見たら 
 わたしは きゅうっと そこだけの世界 に
 容易に閉じ込められてしまいそうになりました。 
 これはわたしのバランス感覚の悪さ のなせるわざかもしれません。

  ともかくそういうわけで Twitterが要らなくなったのだとおもいます。


・ものすごく まじめ。

  ちょっとした事故 ていうか ちょっとしたよくあるなにか
 というようにとらえることが わたしには難しいのだった。
 なにを って その アレです。 若気の至り的に世間では表現されるような
 アレ。 うっかりとなりに男子が みたいなアレ。

  いい歳こいていちいちちまちまぐだぐだ意味だのなんだの を
 かんがえないとじぶんが許せない って もうほんとうにおれはまじめだ。

  でも 考えなくてもいいのかも とわかってきた。
 だってこれ トモダチの話だったら えー別にいいじゃん ていう話だもん。


***********

 さいきん気づいたこと はとりあえず以上です。
バカだなぁ。 でも すべてがわたしのなせるわざ。 人生はプレイ。


 


2013年1月9日水曜日

八重歯同盟

 というなまえでじぶんたちのことを呼び習わしているのである。
なぜなら 3人とも八重歯だから(オトナになると ネーミングセンスというのは
だだ下がりになる一方ですね。えへ)

 わたしたちはむかしブログをしていたときに たまたま
しかし ほんとうに 運命的に 出会った。
わたしがはじめてアップした記事をなぜか読んで 
なぜだかTBをしてくれたひとり と 
当時ブログ業界(てなんだ)ではやっていた お絵描き大会 
みたいなのに参加してみた際に知り合って
以後やりとりをするようになったひとり と 
その3人で なぜだか猛烈に仲が良くなり で 
ブログをやめてからも というより ブログをやめてからよりいっそう 
(心的に)親密な付き合いをするようになって 今に至るのである。

 で。 そのうちのひとりがですよ。
きょう 彼女のこれからの大きい目標というか歩みというか の
どでかい第一歩 に成功いたしまして。

 その知らせを聞いて。
これまでの彼女のがんばってきた道や 彼女のすばらしい才能や
それを活かすための現実的なもんんんのすっっっっごい努力とか
そういうことを全部思い出して わたしはほんとうに感激して
と 同時にまた はっ としたのだ。

 わたしはこんなすばらしいトモダチがいて
で こんなことで腐っておる場合ではないし
後戻りして思うツボ みたくなってる場合でもない
という そういう当たり前のことに
雷に打たれたように気付いたのであった。

 ありがとう八重歯同盟。ありがとうトモダチ。

 わたしもあなたたちとともに八重歯同盟として存在するに
はずかしくない人生を歩みます。 ひとはひとりだけど
でもやっぱり ひとりじゃないことは忘れてはダメですね。
愛とひかりを見ることを わたしはまた 思い出しました。






 

2013年1月8日火曜日

走りながら考えた

 きょうはお休みで というか お休みにしていて
なので きょうまでがお正月のような そういう感じではある。

 起きてからだらだらして 洗濯機をまわして
走りにいって お風呂にはいったら もう夕方だ。


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 ものすごく いい線まで いっていた とおもう。
去年一年間 お正月はまだ 油断したら泣くくらい
ほんとうにつらくて それでもなんとか(ちょっとうそ。
Twitterなんかでだいぶまき散らした) 生活をして
歯を食いしばって あぁもうここまできた と
春に思うことができて そのあと
トモダチに叱られながら たくさんの かっこうわるいこと
を積み重ねて 散々ぜんぶをやり尽くして
ごほうびのようなハワイでの時間があって
それからも 少しずつ わたしの気持ちに出てきたことを
ひとつひとつ 無視しないで やってきたのだ。

 そうして冬休みがきた。

 12月のわたしは めったにひかない風邪を引き続けたり
最後の最後で指を削いだり なんだかちょっと がたがたした。
あれは厄落としだったんだから とか
風邪を引いた意味だとか そんなことを いろいろ考えたけれど
なんといいますか。 できたと思ったところで
また 次 に行くために バランスが崩れたりするものなのですね。

 結局いまのわたしはまだ いろんなことが甘くて
はっきり突っぱねられず はっきりものを言えなかったのは
わたしがまだ やり残している わたしが向き合わなければならない
弱いところがあるという証だ。 かみさま(のようなもの)は
決してそれを見逃さない。

**********

 正直に言うと わたしはたぶん まだ夢を見ていたかったのだ。
もうすべてが変わったことを 秋ころに あれだけ 強く
夢からも その他のことからも 語りかけられていたのに
それなのにわたしは まだ もしかしたら と思ってしまって
そんなわたしだから バカにされても 上からこられても
当然だったのだ。

**********

 去年いちねんかけて わたしはわたしの顔を好きになり
わたしが たのしい とおもうことを続け
身体を動かし わたし の扱いを だいぶ覚えてきた 
と自負している。

 しかしそれは それでいい とか このままでよい
ということではなくて わたしはもっと わたしを知り
わたしになってゆく作業を深めてゆかなければならない。

 風邪を引いたり 指を削いだり そんなことが起きて
これでいいとかじゃないんだよ まだまだ変わるんだよ
ということを わたしは指摘されているのではないか とおもう。

 起きたことをやり抜こう 起こることすべてを味わい尽くそう
という そのきもちは変わらない。 けれど そのために
わたしがもうすこし 手に入れなければならないこと が
きっとあるのだろう とおもう。

***********

 すべてをきっちり壊してゆくような
そんなことしかできない人生は もうほんとうにいやだ。

***********


ゴハンを食べて考えた

 いつか いろんな化けの皮がはがれて
実はなにもないにんげんであることが
いろんなひとにバレてしまうに違いない
と ずっとながいあいだ 思って生きてきた。

 いま そこまでは思わないけど
でも ちょっと近いきもちはある。
なにもないことが あっというまにバレて
というか なにもないから
いまだにひとりでいるのだ と。

 去年のわたしはほんとうにがんばったし
いまのわたしは去年よりましだけど
でも だからこそそのぶん
たいしたことないのがほんとうに表に出ているような
そういうきもちになってしまうのだった。
それでいま わたしはこんなことになっているし
こんなだから たゆがいなくなったら
ほんとうにひとりで生きていくだけなんだ とか。

 あぁもうこわいなぁ。 でも やっぱり
わたしはこのままわたしになることを信じて
やっていくしかない。 

 こわいけど 踊るのをやめない。
走るのもやめない。 どんなにこわくても
生きていかなきゃ。 大げさだけど ほんとうに。

 たったいちにちの何かとか 一回の何かで
すべてが崩れるようなことがあって
わたしはそういうことを何度もやってきてしまった。

 起こったそれは 運命だろう。
でもわたしは自由だ。 わたしがどう感じ
どう生きるかは それでもやっぱり 自由なのだから
だから生きていくとおもう。 

 何度もおなじようなことを おなじような思考を
つい繰り返す。 繰り返すけど むかしとは違う。
わたしには からだ がある。