2013年1月26日土曜日

さようならあのひと

 とあるひと(「女」と書いて「ひと」と読ませたいほんとうは。
そうしないけど)との関係において はしばしにじぶんが感じてきたたこと は 
はたして わたしのこころにとって ほんとうのこと なのだろうか
という検証を かなり長い時間かけてやってきた。

 年末ちかくにこたえは出ていたのだけれど
そのあとも しばらくわたしは じぶんの思い過ごしかもしれない
という可能性がなくなるまで はっきりとしたこたえを出さずにいた。

 が。 きのうはとうとう はっきりとこたえを出してよいわね と
わたしのこころが そう言いました。

 まぁもちろん ひととの関係で 片方だけがよくない なんてことは
ありえないので わたしにも問題はあるのだろう。 
だが あまり大きく反省すべき点 というのがみあたらないし
じぶんが消耗するばかりの関係を無理に続けるのも
それこそエネルギーの無駄遣いだものね などという
思春期のころで終わったと思っていたようなことを
いちいち考えるはめになったのは なんのめぐりあわせだろうか。

 ともかく。 わたしは わたしの感じたことと
たいせつにおもうひとに対してのわたしの在り方 にいまは自信がある。
だから そこがそぐわないひととは 離れるだけだ。


 こういうことにとても時間がかかる。
切るのは苦手だ。 けれどこれは わたしのために
わたしがたいせつにおもうひとたちへの在り方を 
これからも保つ(あるいは ブラッシュアップしてゆく)ためにも
必要なことなのだろう とおもう。

 こういうことが これまでの人生に そんなには必要にならなかったこと
は たいへんに恵まれていたとおもう。 けれど
必要なときは いつかくるのだ。



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 走りながら 正月すぎの 減った できごとについても
かんがえていた。 あれをちゃんと 減った と感じること
というのが あのときのわたしに与えられていたミッションだったのでは
などとおもった。 わたしはいま こころと身体とアタマを
むかしほど乖離させて過ごすことはない。 だからこそ感じられた
減り だったのだとおもう。 かつてあのようなことがあっても
減った とは感じられなかったのではないか。

 埋める ための行為のようで どんどん減ってしまう。
しかし 減っていることに本気で気づけないと 止められないだろう
とおもう。 わたし を構成するあらゆる機能が すみずみまではたらくことで
ようやく感じられること というのがあるのだとおもう。


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 またいつか わたしは彼女とこころからまじわることが
あるだろうか。 いまはほぼ そんなことは考えられないけれど。

 

 



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