びしびし指導されることを ほかのひとたちもいると ほぼ
言われなくなってしまうので ほっとするのと同時に
すこし物足りなくも感じてしまうのであった。
というのはともかく。 まだひとまえで踊れる7級には合格していないけれど
ゴールデンウィークにあるステージには 初心者のわたしたちも出ましょう
ということになって とりあえずわたしは 4月29日にステージで踊る。
らしい。
が 来月アタマに検定をまた受けることにしたし
ステージデビューまでにはかならずや7級に合格したい。
さて。 踊りを練習する ということは
身体 を みずからのアタマの感じや こころの感じとチューニングさせて
あわせてゆく ということなのだなぁ とよく おもう。
わたしは特に アタマが暴走しがちで アタマと身体がバラバラで
さらには こころと身体もとても遠く 遠いからこそ の
身体の無視 のようなことが かつてはよく 起こっていた。
踊ることは アタマ と 身体 と こころ をチューニングすること
すべてをつかって表現すること みずからの能力を
できる限り開放してゆくような そういうことの一歩になっている とおもう。
などということを考えたり感じたりしながら
ちょっとまえのじぶんのエントリを読んで
まぁ じぶんでも それは傲慢じゃね? 的ツッコミを入れてはいるが
「わたしが切ってあげられなかったから」
という表現がほんとうにほんとうに気になりだした。
あぁこれは かつて 「ほかの人たちの物語をわたしが作っている」
夢を見たりしていたときの残り物というか そのときの感じに
ほかならないなぁ と思った。
わたしが切っていても 彼の課題があるのなら
彼はほかの誰かに対してかっこうわるいことを言い募っただろうし
何をどうするか は あくまでも彼の物語 なのである。
とか当然すぎることを「なのである」とか書いちゃうことが
死ぬほど恥ずかしい。
しかし そういうのもすべて じぶんが面倒を見たいような
じぶんが作り上げたいような そういうことにしがみつくことで
わたしはじぶんから目をそらしてきたのではないだろうか。
踊りをはじめて わたしのアタマと身体とこころがほんとうに
遠く離れていたことや それらのコミュニケーションの重要性に気づいて
わたしがいま目を向けるべきもの というか 目を向けざるを得ないのは
みずからのバランスの調整である メッセージを強烈に感じている。
相手をたいせつにおもうこと は 相手を調整すること とは
絶対的に違う と アタマではよくよく わかっていたはずだったのに。
なんてくだらないことを書き募っているのだろう。
わー。わー。 恥ずかしさの極地。
でも書きます。 でも書いておきます。
わたしが本気で わたし を資本にしてやってゆくために。
身体はすごいですね。
いままで無視しててほんとうにごめんね。
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