2013年1月31日木曜日

きのうのつづき

 誤解を恐れずに言えば 
わたしは よくもわるくも 天真爛漫 なのだろう とおもう。

 天使か というようなあの母親の血を わたしもある程度は
受け継いでいるようだ。 ということを長らく認めることが
できなかったけれども これまでを振り返ってみると
どう考えてもわたしは わたしの思い のようなものを
ストレートに表現することで まわりとの関係を築き
つながってきたようにおもう。

 それは わたしの持って生まれたところ に近くて
なので そこがどうこう ということではないのだろう。
むしろ 母に反発するここころもちが強いあまりに
わたしがその 天真爛漫さ を認められず
ゆがんだかたちで抱えていたこと のほうが問題だったような気がする。

 「沈黙は金だから」
と トモダチは言った。 そのとおりだ とおもう。
ほんとうにじぶんと向き合い 抱えることができるならば。

 しかし 沈黙で守ったつもりもの を 知らず知らずに
他の人に投げかける ということをわたしはしたくない。
そうせずに ほんとうに黙すること は 悟りをひらく くらいの
ものすごい苦行と修行の果て なのではないか とさえ思ってしまう。

 わたしのやり方 があるのだとおもう。

 そもそもわたしは 天真爛漫さ のようなもので
ひとのあいだに入り ひととつながり やってきた。
先にも書いたように それはあまり 変える必要のない というか
変えることのできにくい部分なのではないか とおもう。

 わたしは じぶんと向き合うこと には
ひととぶつかるべきときにぶつかる というとちょっとアレなんだけれど
しかるべきときにきちんと対峙すること が 必要だと思っている。

 その 対峙 ということをわたしは すべてを受け止めようとすること
投げ込まれようとすること(あるいは 隙をみて投げ込もうとするような
こともあっただろう) で避けてきたようにおもう。

 そのやり方は わたしをぐにゃぐにゃにしたし けれど
わたしを支えた。 でも もう そのやり方で生きる時期は終わった。
あたらしい わたしがもっと わたしになる そういうやり方で
これからはきちんと 対峙すべきときには対峙すること を
こころがけて生きる時期になった。

 わたしはこれからも ひととのあいだで生きるだろう。
わたしはわたしの 天真爛漫さ を もっと認めて
そしてそのことを活かす暮らし方をしよう。

 制御されない 認められていない 天真爛漫さ は
これまであらぬところで暴走して そして相手が投げ込むものを
増長させ ときにはわたしはそれを感じとってアクティングアウトし
そして 相手とじぶんを 両方傷つけることがあった。

 もうそういうことはしたくないし せっかく受け継いだものは
いいかたちで活かしたい。



 

 

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