気がつけばあっというまに1月もなかばをすぎ
きょうは18年前に阪神大震災があった日なのだった。
あの頃わたしは大学生で 1限のドイツ語の授業に出席すべく
いつものように朝起きて 歯を磨いて いるときに
居間のテレビに43号線のあの惨状が映し出されているのを見たのだ。
日本のこととは思えず わたしは母に
「どこの国で地震だったの?」と尋ねたのを覚えている。
それが つい何ヶ月か前 トモダチとともに旅した
あの神戸なのだ と知って そこからなんとも言えない
ふわふわとした まったく現実感のともなわないこころもちで
わたしはいちにちを過ごした。
その後わたしは大学院生として神戸に住むことになり
さらに神戸で働くことにもなった。
わたしは あの日 を実際に体験していない。
体験していないことを うしろめたく思うこともあった。
が 体験していないわたしがここにいて この仕事をする
ということにも意味があるのではないか と思ったりもした。
のだがしかし。 意味があるとかないとか そのどちらでもなく
ただ あの日を実際に体験していないわたし
が ここでこの仕事をしている という事実がただあるだけだ と
いまはおもう。 その事実のなかで 精一杯 できることをやるだけだ。
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ものがたりに落とし込む という作業と
意味をみつける という作業を なんとなく
同義にかんがえていた時代があったようにおもう。
しかしそうではない とおもう。
意味 があることもある。 が
実は 意味 などないことがほとんどで
それでも 出来事 や きもち や かんがえ は生じて
わたしたちは じぶんの人生のなかでそれを体験して
そして 次に進んだり進まなかったり ともかく
何らかの流れへとゆく。
そして 生じたこと を ものがたることができるとき
わたしたちはきっと うまく流れにのることができている。
意味があるかどうか ではない。
ものがたることができるかどうか。
あぁわたしはいまこの感じをまだうまく表現できない。
けれど 意味 はなくてもいいのだ。
生じた出来事やきもちやかんがえが ともかく
ただ あった ということを
わたしたち自身のことばや感覚であらわすことができたとき
わたしたちは それらのことを
じぶんのものとしてしっかり消化することができている
のだろうとおもう。
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かんけいないはなし
きょうもエレカシのうたを聴いているのだけれど
うたをうたう男子のこえは せくしーじゃないとダメですね。
宮本くんも甲本くんも せくしーだとおもいます。らぶ。
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