2013年1月14日月曜日

断ち切る機能

 あいかわらず 切る ことが苦手なんだな ということを
このお正月にイヤというほど 思い知った。
もっと上手に切ることができるひとであれば わたしはこんなに
消耗せずにすんだだろうし もうすこしことがらは単純だっただろう。

 そして わたしが切ってあげられなかったから
(「あげる」だとか気づいてみるとものすごく傲慢な表現だが)
相手をより ちょっとイヤなひと かっこわるい感じのひと
に してしまったのかもなぁ などともぼんやりと思ったが
でも そう思ってしまうことこそが わたしの 断ち切る機能の弱さ
を あらわしている。

 いずれ 断ち切るべきものは断ち切られてゆく。
断ち切ることができなければ 断ち切る作業をするよう
繰り返し繰り返し ことが起こるだけなのだ。


 しかし。


 断ち切るのが苦手 ということは 同時に
つないであたためる ようなことのほうに
わたしの得意とする機能がある ということにもなろう。
その部分をつかって いろいろな人間関係を作ったり
つないだりしてきたのだとおもうし そのことによって
じぶんでも思いもよらぬような すばらしいものが
育っていた という経験もきっとしているのだ
というか 実際 しているのだ。
 

 だからといって そのままでいい ということではなくて
わたしはわたしがより わたしになる機会を増やし
わたしの世界をひろげるために じぶんの在り方に気づき
そして調整してゆく という作業をしていくことが
必要なのだ とおもう。

 断ち切ることが得意 になることはないだろう。
しかし 断ち切ることはできないから無理 と
そのまま放っておいては わたしの未来はあまり明るくない。

 断ち切るべきもの を断ち切ることができないとき
何度でも同じことが起こる。 そのことはきちんと認め
わたしなりに断ち切ること をおこなおうとおもう。






 ところで。 つい最近 FBで

 Cutting people out of my life does not mean
    I hate them, it simply means I respect me. 

というメッセージを見たのだった。 
ほんとうにそうなのだ。わたしはじぶんのために
じぶんにとって たいせつだ とおもうひとたちと
ていねいにつきあってゆくことを考えよう とおもう。
そのことは じぶんのため になるだけでなく
たいせつだ とおもうひとたちのため にもなることだ
と わたしは信じる。
(ていう文章すら 切る という方向から書けないおれだけどな。)

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