2013年1月12日土曜日

あるべきやうわ

 明恵上人のことを知ったのは たしか大学生か大学院生か
のときで なので「あるべきやうわ」ということを知ったのも
そのくらいだ。 もう15年以上 このことばはわたしのそばにあって
けれど わたしはそれをきちんと理解している とは言えなかった。

 あるがまま というのとも違うのである。
ただ なにもしないで流れる というのではない。
みずからが何者であり どうあることがじぶんになることであるのか
を 常に見つめ 常に努力をすること そうしたうえで
目の前に起こった出来事を受け入れ、その流れに乗ること
というのが あるべきやうわ である。(現在のわたし解釈)

 説明しろ と言われれば これまでもいまのように説明した
とおもう。 が その中身を 体感として 実感として
深く落とし込んで理解していたか といえば していなかったし
あるべきやうわ の人生を送りたい と思いながら
わたしには その精神のひゃくまんぶんのいちすらも
根付いていなかったのではないかなぁ というこころもちがする。


 わたしの仕事は 因果律に基づいた考え方をしないでおこなう。
というか 因果律ではどうしようもないこと を常に見つめ
それを物語に落とし込むこと を手伝うことである。

 因果律に基づいた考えや こうすればこうなる
ああすればああなる といったことを わたしはどちらかといえば嫌悪し
そうではない考えかたのものやひとを じぶんの身の回りに置いてきた
とおもう。

 それなのに。 わたしはいつも どこかで求めていたのだ。
こうしたから ああしているのだから 
こうなってほしい ああなってほしい と。

 そういうことではないよなぁ とわたしは今日
走りながらしみじみと思った。

 去年のわたしはまだどこか こんなにがんばっているのだから
こうして 踊ったり 走ったり しているのだから
それに見合った何か がわたしに訪れてほしい とかなんとか。

 あぁほんとうに恥ずかしいことだ。

 もちろん 走ること 踊ることは ここに書いてきたように
わたしにとってかなりの効果があって そのちからでわたしはここまで
押し進められてきた とおもう。 

 しかしながら わたしはその一方で
これだけいままでとは違うようにやっているのだから と
ちらっとでも思わなかった といえば うそになる。


 たいせつなのは いま走っていて きもちがいい とおもうじぶん
身体が変わったな と思うこと。 踊っていて たのしいな とおもうじぶん
踊りながらわたしのこころと身体が すこしでも溶け合うような
そういう甘美なものを味わえるという そういうこと。
ちょっとキツいな とおもうランや踊りの練習をしたあとに
身体がそれ相応に応えてくれること。

 わたしはそれ以上の わたし自身ががらっと変わって
すばらしいもの となって 世界からも受け入れられるわたし
になったらいいのに くらいのことを たぶん思っていたのだ。


 あるわけのないことを。 というか そんな因果律的なことを
わたしは求めようとしていた。 そういうことではないのに。

 世界はただ あるようにある。 それはそれは パーフェクトに。
あるべきやうわ しかないのだ。 このすばらしい世界を
すばらしいと感じて生きてゆくには。


 かみさま みちのりは遠く長く でも輝いていますね。
何度でも繰り返し あるべきやうわ についてわたしは考えよう。
わたしが因果律ではどうにもならないことばかりをまわりに置いてきたのは
とてもよきことであった とおもう。 わたしを信じよう とおもう。


*追記*
 
 ゲド戦記 の第三巻「さいはての島へ」をまた読んでいる。
そのうちのゲドのことば。

「自分自身であるということは誰にもそうそうできない、
偉大なことだ。だが、『永久に』自分自身であること、
それはどうなんだろう?」

 これを読んでまた 気がひきしまり、と同時に
すこしラクになった。 そして 原型は直接見たり感じたり
ということができないのだ という話を思い出した。
セルフ も原型のひとつだ。それが象徴としてあらわされてはじめて
それのたたずまいやありようの一部を感じることができるだけ。
セルフを中心としたじぶんのすべてが均衡を保つように動くこと
は尊い。 しかし セルフに乗っ取られてしまうと
ひとは肥大し 死 を迎えるしかない。

 わたし自身になること を目指すけれど それは
完全にわたし自身になること ではないのだ。
いつでもそのときそのときの課題を そのときそのときの揺れを
しっかりとやりぬいてゆくこと なのだ。



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