2013年1月27日日曜日

シアワセなことに

 きのう とあるひととの関係において
じぶんの側に 「大きく反省すべき点はみあたらないし」
と 書いていて なんだかすこし そうした表現に もやもや
していたのだが それが何か ということにいま気づく。
おそい。

 えーと。 ある意味 やっぱり上から考えて書いた という
そういうような。 どっちが よりよいのか とか よりわるいのか
とかいう不毛な視点で書いてたところがあったのではないか と。
そのことがわたしをもやもやさせたらしい。

 もっといえば なによーわたしわるいことしてないものー
みたいな そういうこころもちも どこかに。
わー。ださいわようずりんぐる。ちょうださい。


 できごとや状態をかえりみて そのうえで できうる努力をする
ということは怠らないでいたい。 し、これは
そのまえの 突然のリムやブロックについて書いたのとも
同じなのだけれど、わたしのなかに 傲慢さと他罰性がどこかあって
それが出た みたいなところもあっただろう。

 とはいえ。このたびのことでいちばんおおきいのは
わたしがさいきんめきめき認めるようになった
じぶんの中の いわゆるジョシ みたいな心性 が
はっきりと表にあらわれるようになった ということ
なのではないかなぁ というふうにも思うのだ。

 つまり。 もう 時が満ちて 時が過ぎて
一緒にいる時間が終わったのだ ということ。

 恋人同士とかにありがちなアレだけど
でも そのひととわたしは まるで恋に落ちるかのような
そういう速度で仲良くなっていったので
終わり方がそうなってもおかしくないなぁ とおもう。

 わたしがわたしの とある側面をひらき
より わたしになってゆく過程をすすんでゆくとき
その感じは 彼女の過程には添わない というか
彼女の何か をみしみしと刺激し イヤな感じしか与えない
そういうものになってしまったのだろう とおもう。

 もうわたしたちが一緒にいるときが終わったのだ。


 ということをおもったら ちょっとすっきりした。
わたしが悪かったとか悪くなかったとか 
彼女がおかしいとかおかしくないとか
そういうことでは あんまりないのだろうな とおもう。

 そんなことで。 そう思うと
いろいろなことがお互いに起こりながら 
お互いがお互いになる過程をすすみながら 
それでもお互いを認め合える関係 というのは
たいへんに尊く、そして なかなか得られるものではない
ということがよくわかる。

 わたしにはそういう友人が何人かいる。
そんなに多くはないかもしれないけれど
確実に いる。

 そのことのシアワセを噛み締めて ほんとうにほんとうに
そのことにふさわしいじぶんでいられる努力を
これからもしよう と深く深く おもっている。




 きのうは満月だったものね。
手放して解放してゆくとき。すばらしいですね。
生きてゆくって ほんとうに たのしい。 
ぜんぶがわたしの何かだということが ほんとうにすごい。
それがこうして 自然の大きな流れとともに起きてゆくことも
ほんとうに尊い。

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