2013年6月28日金曜日

雑感

 またすこし じぶんがつぎのなにか にすすみつつあることを
感じるのよそういうまいにちなのよ。

 なにもあたらしいことは ないんだけど。

 いろんな内的な変容が起きたならば
外側の変化は あとからちゃんと 勝手についてくるものだ
とおもうけど ここしばらく あんまり現実場面の
あたらしいなにか があるわけではなかったり、というより
わたしがのぞむようななにか はないっていうことです。えぇ。

 それでも。

 いろいろな わくわく だとか さみしい だとか
うらめしい だとか こわい だとか うれしい だとか
ほんわり だとか もうありとあらゆるきもちが
それこそ波のように さまざま わたしにはやってきて
そのことをおいかけることに うけとめることに
わたしはいっしょうけんめいになっていて
それは わたしが生きていること の
あきらかな証拠なのだなぁ なんてこととか 思っていて。


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 最近、しごとの上での じぶんの持ち味
みたいなことをまた 考えるようになった。ふと。
というか もう わたしの持ち味 わたし自身 を
持ち出さないでしごとをするなんて ありえないんだな
ということばかりを感じる。 わたし をきちんと
そこに 相手に フォーカスさせないことには
一切が成り立たない という そういう
まぁ あたりまえなんだけども ということを。

 それは ノウハウではなく そのときそのときの
真剣勝負の そこ でのみ生じているなにか から
一緒につくりあげてゆくもの。

 そこにしかありえないことをしよう。
そこにしかありえないことに わたしをゆだねる
というか なげいれる というか なんていうのか
ともかく 主体的にそういうことをわたしはやる。


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 もっともっとわたしは わたしのリアリティを
目の前で生じている その ナマのそのことを
貪欲に感じたい。


 こんな欲望 むかしは絶対になかった。
でも そういうもの を わたしはしっかり
わたしのものとして感じながら突き動かされることを
きっと ずっと望んでいたようにおもう。

 でもそれは ただ動かされる のとは違うのだ。


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 しごともプライベートも すべてがわたしで
もうすべてつながっていて そのひりひりする実感のなかで
わたしは生きるのだということを やっとやっと
実際におこなっているのだ とおもう。

 もう にどと ばらばらになりたくないの。
何かにそっくり依存しようとする ああいう生き方は
もう絶対に したくないの。 甘い思い出としては
のこっているけど。 もうああいうふうに わたしはいられないの。


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 職場でかわいこちゃんたちにうつるわたし のはなし を
聞いた。 わたしはとても 自然に わたし以外のなにものでもなく
そこにいるように感じられる というようなことを言ってもらえて
うれしかった。 わたしがわたしになる過程はこれからも続くけど
職場で 無理のあるたたずまいでいることだけは
これからもないようにしていきたい とおもう。











2013年6月24日月曜日

ながれゆくわたくし

 あれよあれよというまに でも かなりの密度で
わたしのじんせいという時間は流れてゆくのだった。

 あぁかみさま(の、ようなもの)。
ほんとうに ゆくかわのながれはたえずしてしかももとのみずにあらず
なのですね。 出会うひとたちとの関係も
近づいたり また離れたり また近づいたり さらに深まったり
でも いやおうなく引き裂かれたり などなど
まったくおなじでいることはないことを 強く感じる今日このごろだ。

 なんていうのか そのときそのときの その局面を
わたしは そのときにしかないやり方で そのときのわたしで
しっかり受け止めて こつこつやってゆくしかなくて
というか そういうことこそが人生であることを
あらゆる深度で実感してゆく日々を過ごしているのだ。

 流されること と 流れてゆくこと というのは
似ているようで圧倒的に違うので これからも
流されることなく流れて(・・・まぁたまには
流されちゃうこともあろうけれども)わたしにしかないじんせいを
やりぬきたい。




 3年前のわたし と いまのわたし はきっと
たたずまいからなにから 全然違うんじゃないか とおもうけど
ほんの3ヶ月前のわたし と いまのわたし だって
びっくりするほど違っているのだ。 そのくらい
せかいは かみさまは わたしにいろんなことを見せてくれていて
いろんなことがあって いろんなひととのいろいろな関係が 
めまぐるしく動いていて いまこの瞬間にも動いていて 
これまでもそうであったことを わたしは気付かずにいただけなのだ。 


2013年6月14日金曜日

わかっているのに。

 なんかもう ほんとうに いろんなことがあって
時は流れて もうどうしようもなく あらゆることがいまとなり
同じだけ あらゆることが過去となり そうして
もっと数えきれないほどあらゆることが未来となる可能性となっている
ということばかりを感じている。

 わたしがかつて思っていた人生は
もっとこぢんまりしていて もっと予想の範囲内で
驚くべきことなんてない そういうものだった。

 しかし そんなことはあるわけがなく
いまこの瞬間にも 否応なく 想像もしてなかったことと
想像もしてなかったようなこころもちが
わたしにはわき起こる。

 そういう あらゆることがあり得る人生であるのに
じぶんが若い頃から 何かにくるまれた中で思い込んでいた
くだらない幻想のようなものを
なかなか手放せないのはどうしてだろう とおもう。



 

 どうしてだろう って ほんとはわかってるんだ。
そこにしがみついて ほんとうに向き合うべき人生の過酷さから
わたしは目をそらしたいんだ。

 目をそらしたって わかってるのに。
わたしには 過酷なことがまだあるということを。
ひとりでやっていく みたいなことと もっと
真正面から向き合っていかなきゃならないことも。



 そうわかりながらも もうひとりは飽きたよ

誰かとがっつりやっていきたいよ と思っている。

2013年6月9日日曜日

後輩くんのこと

 大学生のころ、ほんのすこしだけ 若気の至り満載な感じで
つきあうことになった後輩がいる。 そのときは先方も生意気盛りで
学年は1つかもしれないけど3つも年上なわたしに
どれだけわがまま言えるか みたいなことをためしたくて
わたしに興味を持ったみたいだったし わたしはただただ
ジョシだと思ってもらえたことがうれしくて ていう
そういうつきあいだったので 3ヶ月くらいで別れた。

 その後輩とは さすがに残りの大学在学中は 
あんまり仲良くできなかったけど
こちらに移ってきて ケッコンしてリコンして 
その後つきあったひとともわかれた くらいのタイミングで
彼もまたこちらにいることを知って そのあたりから
ちょくちょく遊びに行ったりするようになったのだった。

 たぶん むかしのこともあったし わたしへの罪滅ぼしのためか
彼はとてもよく 恋人と別れた直後のわたしにつきあってくれたけど
恋愛がどうの という方向には進まずにもう4年くらいになる。
彼はわたしにとっては 男性 である(異性であることを
感じない という相手ではない)し、むこうもある程度
わたしを女性として扱っているなぁ とおもうけど、
でも それ以上のことがない というのは珍しいことだとおもう。
わたしにほかにいる男子のトモダチとはみんな 
おたがいに異性として会っていない場合がほとんどだ。

 後輩くんとは たまに会うといろんな話をするけれど
いまではとてもくつろいだ気分でいられるし
大学生のころどうだった とかそういうことも
もうほんとうにいい思い出だと思えるようになって
ちょうどいい距離感にいるひとだなぁ としみじみ感じる。
時が経つって ほんとうにすごい。
ひとは変わるし 変わらないのだ。 

 むかしのわたしなら こういう距離感で仲良くしようとするひとをも
一方的に好きになったりして とてもくるしい恋をしただろう とおもう。
でもなんだか そういう恋だのなんだの とはちょっと離れたところで
基本的なにんげんへの気遣い というところだけで一緒にいて
たまに会ったりするトモダチ というのは この歳になったからこそ
なのだろうとおもうし その感じを満喫したいなぁ とおもう。

 恋愛とかケッコンは いまのわたしにはまだ
出来事として降ってきてくれないようだけれど
それならそれで いま起こるいろいろなこと
いまあるいろいろな関係を わき起こる何かを
貪欲に経験しつくすだけだなぁ というおもいを
またあらたにするのだった。




2013年6月4日火曜日

またその次の

 本日はだいぶ激務だったので 何もする気がしなくて
結局びーるを飲んでしまっているうえに 晩ゴハンを なげわ で
すませようという なんかもう 食生活が乱れに乱れた独居大学生 みたいな
そんな夜なんである。

 きのうに引き続き ちょっとだけあのひとに残っていたジョシなきもち
について考えたのだ。 まぁ 考えた とはいっても
とある感覚が 降って きたので それをもとに ほんとか?
みたいな検証をした というような そんな感じだけれど。

 別れた彼にしても その後ぐずぐずした若い男子にしても
わたしのアタマの中に どうしようもなくあった
「そんな歳の離れたひととうまくいくわけない」という
世間並みの思い込みとか その世間並み何かがじっと居座るくらいには
世の中と迎合して生きていたじぶん を感じざるをえないのだった。

 いや どう客観的に分析しても 7つ下 はともかく
15歳下 と 一生うまくやっていける とか そういうことは
ない のだろう と思ったりはするのです。 
が。 なんかそういう 当たり前の 世間一般に
だれでもが常識として思う くらいの勢いで存在する
「たとえつきあったとしても そう近くない未来に
若いほうに好きな相手ができて そのときいかにうつくしく若い子を
手放してあげられるかがオトナかどうかだ」的な そういうもの 
を前提にいろいろ考えていたなぁ とおもう。

 わたしは(そしてたぶん相手の男子も) この 常識的な前提 が
塗り替えられる可能性 のようなものがあるとしても
その可能性に賭けることは 宝くじに当たるより難しいことで
相当な努力と情熱を必要とするものである ということを
アタマがいい感じで受け入れた ということなんだとおもう。
いや それがほんとうだ としても。 少なくともわたしは
受け入れたフリをしていた のだとおもう。

 じぶんが何を望み どういう可能性を感じ 何をシアワセと思うのか
ということを わたしはすっかり 棚にあげていたなぁ というようにも
思うのだった。

 もうその彼との関係がどうこうなる というふうには思っていないけれど
これから先 わたしが大切にしたいのは わたしのこころの奥が
何と言っているか に尽きる。 そのことを教えてくれただけでも
この失恋には大きな価値があったとおもうし 
なんかもう 手放した と思っていても
どんどん次があるくらい わたしは深く この事態にコミットしていたのだな
とおもう。

 もちろんそれは わたしだけ の物語だけれど。

 もうあと2週間もしないうちに 彼の誕生日があって 彼は
わたしがケッコンしたときと同じ歳になる。 すごいなぁ。
もうそんなに年月が経ったのか。 

 くっだらねー と思いつつ こういうなんか 恥ずかしくて
地を這うようなことをやってくのも 人生だな と
こころのそこから感じられる。 ここを認めないと
わたしは次に開かれるわけもなかった とおもうのだった。

 まだまだいろんなことがあるんだろうな。
ミラクルですね 人生はやはり。

2013年6月3日月曜日

あはは

まだほんのすこしだけ あのひとにたいする
ジョシなきもちが残ってることに気がついて
わらってしまった。

わらってしまえるように、
やっと なったんだよ。

2013年6月2日日曜日

おとめごころが傷つくの

 さて世の中はなんと6月になっていて 梅雨入りなんてしちゃって
めっきりと 夏 な雰囲気も満載になってきたのです。

 物理的には 何かが大きく変わった ということもなく
たとえば紹介してもらった男子には いかがか とおもう
断られ方(無視) をされてみたり そういう
起こる出来事 みたいなのが さほどむかしと変わらないのでした。

 それでも クラス会がたのしかったり
まいにちじぶんの中にわきおこる感情やらなにやらが
とてもエキサイティングでわくわくするようなときもあったり
トモダチと出かけていっぱい笑ったり 
ゴハンやお酒をほんとうにおいしいな と思ったり
そういうことは むかしとはずいぶんちがうものだなぁ と感じます。

 では。 わたしの何が。

 おそらく いまのわたしは 高校〜大学院生だった
いわゆる思春期青年期といわれる 
若さときらきらが爆発していてしかるべきときと比べても 
ずっと たのしそう だとおもう(実際たのしい)し
見た目も残念ではない とおもいます。
きっと Facebookなんかでわたしを見ている当時の同級生たちからも
そう思われているだろうな とおもっています。
さっきからじぶんで言うなよバカ みたいな感じだけど 
でも そう思います。

 それでも いま わたしを恋愛対象として見ようとする男子はいないし
いざわたしをそういう可能性があるものとして目の前にしたときに
ちょっと・・・ と思われていることも どうやら確かなわけですよ。

 もちろん とてもかなしいし オトメゴコロのようなものは
少々傷つきます。 やっぱりわたしが不細工だからなのか?
スペックがわるいからなのか? などのことを思いそうになったりも
してしまうわけです。男性から いいな って思ってもらえないことには
すごくすごく なれているけど その なれるにあたって
むかし常用していた言い訳を つい するすると
ゴミ箱から拾ってきて 使ってしまいそうになるのです。

 でも それは とてもよくないことだ とも思うし
たぶん いまわたしが まだ出会えずにいることには
むかしとは違う理由があるのだろうな というふうにも
どこかではわかっている つもり です。

 それは わたしがパートナーに何を求めているのか が
はっきりしていない ということ。

 パートナーとどういう関係を築いてゆきたいか はわかっている。
どうしてわたしはパートナーが欲しいのか ケッコンしたいと思うのか
は わかる。 でも どんな人と?

 その問いに対し、「行間の読めるひと」みたいな
まえの恋愛の反動としか言えないようなこたえしか
わたしにはまだ思い浮かばないのです。

 一緒にお酒が飲めて キライなことが同じで 
という むかしから一貫してあるもの以外に。もっと具体的に。

 わたしが何かに目をつぶらなければならないような相手はイヤだなぁ
というのもある。 わたしがじぶんにウソをつかなければならない点が
出てこないひと というのがいいなぁ とおもう。 けど
それは わたし側のこころもちや わたし側の成長と大きく関わっていて
そういうひと というのがいるわけではないようにおもう。

 などなど長々つらつら書いていて。

 認めましょうよ。わたし 傷ついてるんだ。
このまえ紹介してもらったひとに無視されたことに。
いまのわたしをみて 積極的に いいな と言ってくれるひとが
いない というこのいまの現実に。

 ほんと まだまだですね。 

 でも こんな 見る人がみれば くだらねーなー っていう
そういうぐずぐずをやる というのもまた わたしの道。
わたしはわたしなんだもの。 ここからだけは 逃げられないんだもの。