2014年8月30日土曜日

そしてまたたんじょうび

 またあれからいちねんが経って
わたくしは本日めでたく42歳とあいなりました。
おめでとうおめでとう。

 外的な事象としては残念ながら
なにひとつ去年とかわらぬことしではあるけれど
いちねん経ったなりのわたくしの変化 
というものはあったなぁ とおもうのでありました。
去年よりもっと たのしくなっている。
去年よりもっと いろいろな予感もある。

 ということで
これからもっとたのしくなる道のり。
ALOHAのこころをわすれずに というか
ALOHAのこころを体現できるわたしをめざし
日々すごしたいとおもいます。

 みなさまありがとう。
愛しています。

        (きょねんとちがい、ひとりでまるいケーキを買わない分別があるおれ)

2014年8月29日金曜日

たびするということ

 旅をしてきたのだった。
3年前には 当時つきあっていたひとと行った、
芸術祭に湧いていた あの瀬戸内の島々に。
こんどは 高校時代の友人とともに。

 行ってみて、3年前のあの旅は
今回のための予習だったのかなぁ とすら思えた。
あのときでは体験できなかったものを わたしは体験した。
それから、3年前のその旅の途中で知った
恩師の訃報のこともわたしのアタマにはあったから
せんせいのことも 存分に思い出したりして。


 今回の旅はあらゆることが奇跡のようにうまくいった旅だった。
ずっと傘マークの天気予報だったのに
一度も傘をひらかずにすんだ とか
美術館までのバスがないようどうしよう
という事態が 偶然のいろいろにより解消された とか
宿についたとたんどしゃ降り とか
ちょっとのサイズの違いの組み合わせにより
トモダチとわたしのスーツケースがひとつのコインロッカーに
ぴったりおさまった とか
ともかくいいタイミングでいいことが起き
なんというのか その場に委ねていたら
そのままひらけていった という そんな旅だった。

 トモダチとわたしの 旅に対してのスタンスや
行動するペースが似ていたことも幸いした。
彼女とわたしは高校時代の同級生で けれど同じクラスになったことはなく
唯一の接点は スキー学校でおなじ班になった という
ただそれだけのものだった。
だから、卒業後会うことは去年まで一度もなかったし
連絡をとることだって もちろんなかった。

 オトナになったわたしたちが再会することになったのは
世の中の例に倣ってFacebookで、たまたまお互いちょこっと走る
ということで 小布施のハーフマラソン大会に出よう と
盛り上がったその中にいた というのがきっかけだった。

 去年ことしとともにハーフマラソンを走り
Facebookで近況にコメントなどしあう ということを
していたのだけれど ひょんなことから今回の旅を
ともにすることになったのだ。

 当時ももう少し何かあれば 仲良くなったのかもしれないけれど
きっと いまだからこそ の関係なのだろう ともおもう。
いま お互いいろいろを経て むかしよりは
じぶんの中にある なにか をちょうどいい具合に表現したり
しなかったりすることをおぼえて だからこそ
通じ合えるところがあったのかもしれないな などとおもう。

 特にわたしは 高校生当時からとても閉じていたし
最近のわたしでなければきっと こんなふうにともにいることは
できなかったのではないかなぁ とおもう。どうやらやはり
わたしはずいぶんと ひとに対して ひらいてきた
のだろう。

 そのことが 今回の旅に いい影響をもたらした
というか 旅がもたらす何かがわたしをより
彼女に対してひらいた態度にさせたし
そのことがまた 旅という場にわたしをひらかせたのだ
というような。

 今回わたしは3年前よりずっと 島々がわたしを
受け入れてくれている ような気がしたし
わたしも島々のなにかに わたしを委ねることが
できたように思っている。 すばらしい体験だった。



*************



 たびするということ は わたし という存在を
その場にゆだね その結果に対してみずからをひらいてゆくこと
なのかもしれない。そのことで その場の風景や 風や 空気や
とにかくあらゆるものがわたしとの交感を果たし
わたしの奥に なにかがそだち わたしの核がまたできてゆく。
そんなことをほんとうに感じられたので 
旅をしてほんとうによかった と こころのそこから
おもうのだ。 
 
 この旅をともにしくれたトモダチには感謝しかない。
いまのタイミングを逃さずいられたことを忘れない。

 こうしてわたしはすすんでゆく。もうすでに3年前のわたしは
ずっと過去の なつかしいかわいいだけの存在に なっていた。




2014年8月16日土曜日

トモダチと会った

 トモダチの存在はとても偉大で ほんとうにありがたいなぁ
と しみじみとおもういちにちを過ごし わたしがわたしでいること に
またすこし しっかりした実感が加わった。

 なんだかんだいっても わたしは 去年
思いやりがない と言い放たれたこと および
それだけでなく その感じにまつわるいろいろ 
深く傷ついていたし(そしてきっと同じくらい傷つけもしたのだろう)
何より でももう このたび終わった関係いろいろを
どうにかしよう というきもちが どこを探しても実はない
というそのわたしの中の事実にも びくびくしながら
気がついて愕然としていたのだった。

 もちろん そういう 思いやりがない という表現に
象徴されてしまうことに結びつく何か がわたしにあったことは
否めないことであろうけれど 
そういう激しい表現をされなければならないほどの何か が
わたしだけの要因として存在していて、それを
この先もずっとずっと 深く反省して
落ち込んだり 立ち止まったり ということが必要であるのか
というと 違うようにおもっていたのだ。

 いろいろ考えたし悲しんだし すこしは怒ったし(やっぱり
わたしには 怒り という機能があまり発達していないのだ)
でも それはもうじゅうぶんおこなったのだな ということだ。

 そして きのう もう人生の半分トモダチでいるひとと会って
いろんな話をして 一緒に過ごして そうしたら
まえにもここで書いたように わたしから離れていったひとたちとは 
ただともにいる時が終わったのだ という その感じだけが
つよく立ちのぼってきたし、
わたしが 彼女ら彼らとの関係を どうにかしよう というきもちが
どこを探しても実はないというのは
そういう理由からなんだな とほっとすることができた。

 さみしいことではあるけれど でも
どこかでうすうすわかっていたことだとおもう。
しかも 最初から。

 そして わたしがこれまでやってきた
触媒機能を差し出すことで気に入られようとするそのやりかたが
もうほんとうに終わったんだな と こころのそこから 思えた。

 さようなら。ほんとうにさようなら。


 もうきっとわたしは 何かを得たくて何かを差し出すとか
期待したくて期待されることを呼び込むとか 
そういうしくみをもとにした人間関係を
ホンモノだとおもって おこなっていこうとすることは ないだろう。

 そう考えると いまもなお付き合いのあるむかしからのトモダチは
そういう残念なところを超えた きっとわたしの奥にある何か
たましいのたたずまいみたいな そんなものをしらないうちに感じて
そうして付き合ってくれていたのだろう とおもうと
そのありがたさに涙が出そうになる。

 これまでのいろいろもすべて必要な というか
わたしの力量では通らざるをえなかった道だ。
ここまで来ることができる底力のようなものは
きっと両親やみんなにもらったものだとおもう。

 これからはどんなことがあるんだろう。 
わたしはわたしだから きっとやっていけるとおもう。





2014年8月13日水曜日

しあわせ

まー ベタな題ですよ。
ひとによっては、「無理すんなよ〜」なんて
ひとことをかけてくれかねない、
そんな題ですよ。

でもね。なんかいま電車乗って
友だちとの待ち合わせに向かってるさいちゅうで
Facebookとかでは
高校のときちょっとすきだった男子に
お誕生日おめでとう! なんて言って
ありがとう! とか返事してもらって
お互いいい感じの人生だよね〜
とかなんとか言い合えてて
なんか ものすごくしあわせなんじゃない?
と 思ったわけですよ。

すごいね。不満とか愚痴とか言い出したらキリがないのかもだけど、
それよりも シアワセだな
てほうが
先に出てくるいまなんだよ。 わたしなのに(笑)!

わたしが経験すべきことも
そうでないことも
とにかくものごとは起こるけど
せっかくだから わたしのものに
わたしが経験すべきことだったな と
思えるように ちゃんと経験していこう。

それだけできっと
もっとわたしのものになるんだよ。
人生というのは。

2014年8月10日日曜日

きっとそのうち

なにかどきどきすることが
あるとおもう。

なんでかっていうと。

わたしのかおが なんだかちょっと
いいぐあいな気がするから。

わたしの手が なんだかちょっと
いつもよりキレイな気がするから。

そんなふうにおもえて
いつもより 口角だって
あがってる気がするから。

この感じをわたしはすなおに
おもてに出して 過ごせばいいんだろう、とおもう。

きゃー

久しぶりに夢を見たのよ。

わたしはつきあってるひとのおうちにはじめて行って
これから泊まるんだな、ていう
そんな雰囲気で、一緒にいろいろ整えたりなどしてた。

それはいいとして。

問題は 夢において つきあってるひと としてでてきたひと
のことなわけですよ。
たぶんだけど、まえにつきあってたひとだったわけですよ。

なんでよー!

まだここで、夢における「友だち以上恋人未満」の定番
キムタク が出てくるなら許せる。
が。 なぜ3年前に別れたひとが。

はっきりとそのひとだったわけではないけど、
たたずまいが当時のそのひとだったことは確かで
彼 というときのイメージが
わたしのなかではそのひとのときから更新されてない
ていうそういうことなのかな と。

わー。残念。すごく残念。
もう出てきたところで動揺、ていうのではなく
じぶんのイメージが更新されていないことに
本格的にがっかり。

もうほんとに次の恋愛がしたいです。
恋愛したい ばっかり言ってる四十路
具合悪いけどな。でも、ほんとなんだもん。

2014年8月9日土曜日

動いてきている

 台風が近づいてる ということで
きょういくはずだったステージがなしになって
なので 家でのんびりしている。 のんびりしすぎている。
すきなもの作って おまけにポテチなどふだん食べないものまで
ばりばり食べてびーるを2本ほど消費して
ケーキまでちょっと食べたりなんかして 
肥えるよね確実に 不健康だよね確実に
ということをしてみたりなんだり。

 てとこまで書いて すでにそもそも 何を書こうとしてたか
忘れそうになるほど 家で飲むとすぐ酔ってしまう。
さみしいな。

 
 ま 350mlのびーる2本ごときではすぐに思い出すんですけど。


 2年前のね 写真をね 見たのね。
2年前のいまっていったら まだ40になる直前で。
そう。あと20日ほどもすればわたしは42歳。 

 でも 2年前のじぶんより いまのほうがいい。
いまのわたしのほうが ずっと動いてる。 

 2年前のいまは フラを始めてまだ半年ちょっとで
日々の必死感もまだとれてなくて
でも コンタクトを作ってみたりして
わたしはこれからまだまだやるんだ みたいな
そういうことを思っていた頃で。ハワイに行く 直前で。


 2年経って。
交友関係にはだいぶ動きがあって
決定的にわたしと付き合いたくない と
言う人がいたり
逆に これから仲良くしましょうねぇ と
思い合えるひとがいたりなんだり。

 あたらしい恋がはじまるでもなく
まぁその寸前 みたいなことはあっても
タイミングが全然合わない とか 相手に全然気に入ってもらえない
とかで 結局なにもなく。 結局 はそうだけど
そうなるまでの何か があるようになったのは
いままでと違うかな。


 とはいえ。 結局何もない というのは
おもてに見える何か であって
わたしの根本の何か ではないのよね。
根本の何か が変わったら おもてに見える何か も
もしかしたらきっと 動いていてしかるべき なのかもしれないけど
でもやっぱり みたところ変わらなくても わたしはずいぶん
2年前とは違うところにきたよね とおもう。


 どうなっていくんだろう。

 そのことが たのしみなこのごろ。
離れてしまうことになった 深く深くつきあったひとたちも
元気でいたらいいな とおもう。


 

2014年8月5日火曜日

タイミング

 合わないんである。 タイミングが。

 いまはそういうときなんだなぁ とおもう。
全然合わない。なんでか合わない。あらゆるひとと 合わない。

 けど だから もう ダメだ というよりは
こんなときだから 無理はしないし
でもまたいつか タイミングが合うときがきて
うまくいくようなことだって あるかもしれない
と そうおもう。

 おもうけど 2回声かけてくれて
2回とも たまたまその日は〜 っていう そういうのだと
このひととはもう縁がないんだろうか ともおもったり。
が それでもなお タイミングが合うときがきたら
そのときは それなりのことなんだろうな とも おもう。

 ていう ただ それだけのことなんだろうな。
わたしとそのひとにちょうどいいように 縁が続いたり
続かなかったり するのだろうね。

 

 声をかけてくれるひとがいる というだけでも
とてもありがたいし そういうことへの感謝を忘れずに
いま目の前にあるたいせつなことをたいせつにしていたらきっと
なにかひらけてゆくんだろう。 あるべきことがあり
起こるべきことが起こり というようにやっていくんだろう。

 それで タイミングが合わないな なんて感じたりするような
そういう出来事がある ということがもう
むかしのわたしとは ちがうわたしなのだな とも おもうのだった。

 あともうすこしで いろんなことがきちんと噛み合って
なにかがまわりだすような そういうこころもちが 
じつは とても とてもとても しているいまなのだ。

2014年8月4日月曜日

期待しない

 いつになったら期待しないでいてもらえるようになるんだろ
と思っていた。 あるいは 思っている。 親に なんですけどね。

 もういい加減いろんなことを あきらめてくれたのかな
とおもっていたけれど あんまりあきらめてくれていなくて
心配以上の何か を目の前に持ってこられて
わたしはじぶんが信じているわけではないものを
たいせつなもののようにおもいこむべきなのか と
ほんの一瞬でも 思いそうになった。

 のだが やっぱり わたしがたいせつにすることは
そこにはないし 申し訳ないけれど わたしはわたしが信じる道を
これからもいくのだろう とおもう。 親が反対しても。
反対するようなことをすることが間違っている という考え方もあるし
できれば反対されないような今後でありたいけれど
でも 期待通りのなにか を示すことはやっぱり わたしにはできないな
そうしてしまったら わたしはわたしを殺してしまうだろう と
いまはおもう。 勝手をする とかではなくて。

 それでね。

 いつになったら期待しないでいてもらえるようになるんだろ
というのはつまり わたしから親への期待なのだ。
だから それも 意味のない思いであるなぁ と先ほどようやく
しみじみと感じ入ったりして。

 期待しないでほしい というのは あきらかに わたしの期待。
わたしがどう思ったって 親は親の思うように思う。
それはもうどうにもならない。 だから それをわたしがどう扱うか
どう受け取るか どう受け流すか どう対決するか どう対決しないか
という ただそれだけのことなのだ。

 わたしの人生はほかならぬわたしのもので
ただやるべきことをやっていくだけで 選択肢がたくさんあるわけでは
ないかもしれないけれど でもともかく
親の期待に屈した とか 親の期待のためにどうにかした
ということにだけは ならずにいようとおもう。

 どうあっても わたしの人生なのだから。
わたしがわたしで歩んでいる人生 というのを生きてゆくだけ。
わたしがどう考えても 何をどう総動員しても 違う とおもうことには
従うわけにはいかないのだな とおもう。

 わたしがしあわせにしている姿をみて いつか今生でなくても
わかってくれたらいい。 それも期待かもしれないけれど。
でも わたしはわたしでいることを やっぱり選ぶ。

 期待せずに。 わたしがわたしのことに 責任をもって。矜持をもって。
 

2014年8月2日土曜日

決意新たに

 結局のところ そっかー そうだよねー ごめんわかってたけど
ていうことに なっている。 じぶんがそこまでの物件ではないことを
また思い知らされてみたり。

 でも それでも 過去のじぶんとくらべたら いまのほうが
ずっといい し ずっとたのしい のはほんとうのこと。

 この歳になっても まともな縁がないこととか
考えだすと じぶんがかっこわるすぎて 情けなさすぎて
落ち込むしかない ってなっちゃうけど
それでも。



 わたしはもっとがんばっていこう。
もっと たのしんでいこう。 と おもいます