2013年5月30日木曜日

恋人がほしいの

 なにがどう ということではないけれど
たのしいまいにちで 充実しているなぁ とおもう。

 お金の心配をちょっとしちゃうほどに
毎週1回はかならず飲みにいく予定が入って
例えば先週は3回 今週は1回 来週は2回
という具合であったりする。 

 去年も だいじょうぶ〜? っていうくらい
飲みに出かけ しかも家でもまいにち飲んでたおかげで
γ−GTPがたいへんなことになったわけだけど
まぁいまも引き続き いろんなひとと 実際に会って
やりとりをしたりする そういう時期にいるのだろう
と思うので お金のことには糸目をつけずに
誘われたらなるべく応じよう と思い、出かけているのだった。

 のだがしかし。

 まだかみさまは わたしが異性のパートナーと出会う時期ではない
と考えておられるようで 出会いの場があっても
先方が気に入ってくれなかったり とかで
わたしにはまだ あたらしい恋人ができていないのだった。
ツマラナイ

 紹介していただいたひとに気に入っていただけない
というのは じぶんがそこまで相手を気に入っていなかったとしても
少々へこむものではあるのだけれど まぁともかく
いまのわたしはまだ そういう時期じゃない ということなのだろう。

 とはいえ やっぱりわたしは恋愛をしたいし
その先の パートナーとともに生きる ということを
やり抜きたい という気持ちもあるし
だから きっとそのうち出会うのだろう とはおもう。

 でもさー はやく出会わせてくれないとさー
既婚だからありえへんけど好みなんだよね
ていうひとのよさについ感じ入る という事態が増えて
じぶんがつらくなってしまう一方になるからさー
たのむよかみさま!! てことなのだ。ほんとに。

 てことで。

 恋人がほしいです かみさま。 そろそろそんな時期 じゃない?



 

2013年5月29日水曜日

ひとのちから

 あくまでも そのひとの体験は そのひとだけのもので
だから まわりの誰かが それをほんとうには わかった り
ぴったりと添う というようなことは できないのだろう とおもう。

 そして その体験は どんなにことばを尽くしても
どんな表現をもってしても 体験したそのままに まるごと
正確に あらわすことはできないので
だからやはり 最終的には そのひとの体験は そのひと自身が
じぶんでみずからの物語におさめるしかない。

 けれど それでもやはり ひとは体験した何かを
じぶんなりに表現しようとして 伝えようとして
わかりあおうとするし まわりはそれを なんとか受け取ろうと
そのひとの在りように添おうとする。 直截 ではなくても。


 なんとか 受け取ろう わかちあおう 添おう 
としてくれる相手が この世のどこかにいる と思えるとき
ひとはちからを最大限に発揮することができるのだとおもうし
そのちからを使って みずからの物語に体験をおさめる作業を
じぶんでやりとげることができるのではないかな とおもう。


 だから何だという話ですけど。

 くりかえし 似たようなことは言っていますけれども。

 
 たのしいことだけわかちあいたい という生き方や
在り方があることも わたしは知っているけれど
それが深い意味をもつのは やはり 
さまざまな たのしいことだけではないすべての体験を通したそのひと
というものが感じられてこそ なのではないか とおもう。

 
 あらゆる意味での ひとのちから をよりいっそう信じて
これからの人生を暮らしていきたい とおもう。



 

2013年5月26日日曜日

高校のクラス会

 きのうは高校のクラス会が開催されたので
はるばるとうきょうまで出かけてきたのだった。

 ちょっとまえまでFacebookがこわいとか言って
つまりそれは おのれがこれまで通ってきて そして
現在も住んでいるはずの リアルの世間がこわい 
と言っていたのと同義なんだけども まぁともかく
びくびく過ごしていたわけですが。

 ここさいきんの じぶんの開けっぷり からすると
このクラス会という行事はたのしみ以外のなにものでもなく
実際 とてもとても たのしい時間を過ごすことができました。

 高校の同級生 というのは 当時まいにち顔を合わせて
行事を一緒にやったり 席が近くになって話したり 
などして仲良くなる あんまり利害関係とかのない
そのひとのもともとの「感じ」とか「たたずまい」のようなものが
じわじわと出ていて、そういうものを日々感じあう関係
であるようにおもいます。(なにこの日本語。ひどーい)

 もちろん 当時おとなしかったひとが
いまではそんなことなく話すようになっていたり
よく話していたひとが 比較的控えめな語り口のひとになっていたり
ということは あるのだけれど、そういう
わかりやすく表に出る何か とかではなくて
もともと持っている「感じ」と「たたずまい」は
当時とあまりかわらずにそこに在るものなのだなぁ と
そんなことを感じました。

 そしてそれは きっとみんな 社会的な何か というのを
ちょっとはずしたところで 何かを開いて
こういう場に参加するようになっているのからなのかな
なんて思ったり。 想像していたよりずっとずっと
みんなが当時のあの感じのところを保っていまに至って
そこでトモダチでいようとしている みたいなことを思って
ほんとうにうれしいきもちがしたし たのしいこころもちになりました。

 さらに 20年以上の時を経て お互いに人間関係のスキル
みたいなのを身につけていることもあるからなのか
当時そんなに話さなかった(話せなかった)ようなひととも 
ものすごくたのしく話せたり
あのときには感じなかったような 新たな何か を感じるようなこともあって
オトナになるってほんとにほんとにすばらしいなぁ と
感じ入っていたのでありました。

 ずっとまいにち一緒にいるとき というのは 確かに終わってしまったし
これから先 そんなことがあるわけではないけれど
そういう時間をすごした相手 として たいせつに感じられるというか。

 いつもいろんなことすべて あたらしくなっていってるけど
それは こうして変わらない何かがあって そこにいろいろなものを
積み重ねていっている ということなのかなぁ などとも
思ったのでした。 あたらしいわたし というのも
あの頃のたたずまいと わかちがたくつながり 結ばれているのだわ。

 
 次に会うときはどんなふうなことを思うのかな。

 その日までまた わたしはわたしのことを わたしなりに真摯に。

 



2013年5月20日月曜日

いらいらいらいら

 ひさかたぶりにもーほんとにどうしようもないくらい
イライラしてしかたなくて お菓子を大量に食べてしまいました。

 いやぁ こんなの あんまりないんだけどね。
たまにはいいか。 あとで珈琲飲んで落ち着こ。


2013年5月17日金曜日

すべてのことを

 いいことばかりはなくて たとえば オフィシャルな場でのやりとり
とかで ちょっと行き違いがあったり などのことも
あるにはある。 けれど そういったことごとに対して
そこまでマイナスなこころもち全開 にはならないいまなのだった。

 こういう うまくいかないことがあるっていうのは
よくない兆候なんじゃない? みたいなことを
考えなくもないけど そういうことを考える度合いが少なくなった。
ただ 起こるべくしてことが起きているだけで
イヤだな とか ちょっとなー ということも それは
あるのが当然なのだし というか。


 むかしは どこか 夢物語のようなことを考えている節があって
うまくまわるときは なにもかも が うまくいく みたいなね
そういうことを思っていたなぁ とおもうのだ。

 けれど あたりまえすぎることなのだけれど
いいことばっかり なんて そんな都合のいいことはあるわけがなく
よく自己啓発系の何か が言ってるみたいな
思考やなにかがきちんと整って とある方向にいったら
いいことしか起きないでしょほら みたいなことは
ありえへんし それは なにかを無視することによって起こっているだけ
の つまらない現象なのだなぁ としみじみ思うようになった。

 いま もーなんで通じひんのよこれが
みたいなこともあれば あぁそうかそうだよね って
納得することもあれば これからがたのしみだようきょきょきょ
とおもうこともあって なんといいますか
いろいろある ぜんぶある みたいな そういう感じなのだ。

 こういう ぜんぶある 感は実ははじめてかもしれない。

 しばらくこの感じをたのしみたい。 
味わいつくしたい。経験しつくしたい。
ぜんぶ ぜんぶぜんぶ 見てみたい。





2013年5月11日土曜日

続けて起こる

 きょう 後輩ちゃんにずいぶん前から ゴハン行きましょう って
誘われてた日を 結局キャンセルされて あぁもうほんとうに
こういうことっていうのは重なるんだな と もうむしろ感心した。


 予定をキャンセルされる というのは
いかなる理由があっても 残念だな と思うけれど
ま、これだけいろいろ重なると いまのわたしはきっと
いろんなことをリセットする勢いで
あたらしく わたしの在り方 を構築していくところ
にあるんだろうなぁ としか思えなくなってきた。
わたしが その程度のにんげんだ ということより。

 わたしはわたしの意思をもって 約束しているのだから
それが仮に ダメになっても それもわたしの責任の範囲内だ。
もちろん その背後に動くものを わたしは見逃さないし
それだけわたし自身がまだまだ足りない ということで
だから 何の内省もなしに 一連のことを通り過ぎることも
しないんだけど。

 でも  いまこういうことがたくさん起きているのは
わたしの ひととしてなっていないところも ちゃんと示してくれているし
それだけでなく 単に 次に進みつつあるんだよ ということも
示してくれているように思えてならないの。

 実際 あたらしいこと もじんわり起こりつつある。
そういう動きが 見え隠れしているいまなの。

 わたしがどういうわたしであるか ですよ。
やっぱりさ すべてのことは わたしから発してる。
だから その部分はわたしが引き受けていく。

 そう思ったら もう何もおそれることはないな とおもった。

 

2013年5月10日金曜日

すばらしき人生

 昨夜は蚊に3カ所も刺されてですよ。 それが 指 手首 頬 ていうね
なんかもう かゆいんですよ。 あと顔だから目立つし。

 てのはいいんですけど。

 なんかもう ジェットコースターか みたいに
いろんなことがあって 息つく暇さえない ような
そういう気分になるわけですよ。ここ数年。 いや実際は
もんのすごい息ついてるんだけど。 でも なんていうんですか
こういうふうに実は いろんなことがこれまでも起きてたのに
そのことにあんまり気付いてなかった ていうか 注目してなかった
ていうか ただそれだけだったのかも というこころもちも
しなくもないのですよ。ええ。

 傍目には そんなにびっくりするほどは
いろんなことが起きているわけではなくて 
というより どちらかといえば わたしは安定感みちみち な
動かないタイプの 変化のないタイプのにんげんであるように
おもうわけですけど いやぁ このたびはね もうね
いろいろじぶんが変容せざるをえない過程をずーっと通ってる と
こう思うのですね。

 じぶんのなるべくぜんぶをつかって ちゃんと経験すると
こういうことになるんだ っていうか。

 すごく動いているのに でも こころもちの動揺がそこまで大きくない
というのが実際なのですよ。 むかしは こころもちの動揺がものすごくて
でも 結局そうして動かされてるだけでなんもかわってない みたいな
そういうのだったのに いまは すごいじぶんが変化する何かをやってて
なのに こころもちの動揺 というのはそんなにはない ようにおもう。
動いてるけど。でもそれは じぶんの能動的な何かだ というような。

 もうほんとうに この在り方で しばらくはすすむんだ。
この ものすごいいろんなことが起こりまくる(内的に)日々 
というのを やっていくんだ とおもうの。

 すげえな人生って。

 で それにともない ものすごく残念な部分 とかにも
あらためて気付いて でもさ そういうのも 受け入れるよ。
だってそうだし。 もうそれはわたしの一部だし。

 ね。ていうことを たぶんこの先も何百万回となく感じながら
あちゃー とか言いながら 生きるんだね。
くそー たいへんだよ。 ほんと。でも なによ。ものすごく
えらいこと たのしいじゃない! 生きてこそ。 
こんなのやめられるわけない。 かみさまが もういいよ
っていう その日まで。





2013年5月8日水曜日

あるべきやうにあらしめること

 わたし が わたしになる ということは
ほんとうに あらゆるわたしの側面を 
わけへだてなく あるべきようにあらしめる という
そういうことなのですよね。

 あるべきやうわ と明恵上人がおっしゃっていて
その意味について いまわたしが感じているところ
についてはまえにもここで書いた記憶があるけれど
なんだかもう いまはただ そのときの感じよりも
重く深く強烈に あるべきやうわ ということが 
せまってくるように そのように感じるのです。

 生きてゆくということは あるべきやう に
じぶんをあらしめながら 生きてゆくということは
こういうことなのですね。 みたいな わたしが感じるそんなこと
浅すぎて 鼻で笑われちゃうんだろうけど
でも ほんとうに こういうことなのですね。

 これの もっといろんなバリエーションを
わたしは繰り返し 人生で見ることになるだろうし
体験することになるだろうし 考えることにも
感じることにも なるのだろう と思います。

 そのことを そうしてやっていく ということの再確認
のようなことばかり いま起こっている感じがする。
おまえがいままで思ってたような そういう程度のはなしじゃねえぞ
っていう そういうこと。

 とてつもなく ながいみちのり。

 ねぇそれなのに いま わたしにはちゃんと
この先はひかって見える。 都合のいいことばかりじゃないし
つらいことばかりでもない そういみちのりなのだ と
信じることができる。



2013年5月6日月曜日

いまだからこそ

 中学生のころまでは 実際ものすごく 鼻持ちならない感じ を
ぷんぷんまきちらしていたから よくクラスメイトに嫌われたり
軽くいじめられたりしたものだったけれど、高校以降はそういうこともなく
人間関係で大きく苦労したこと というのは これまであまり
なかった と 言っていいとおもう(恋愛がうまくいかない とかは
別にしてね)。

 まえに、わたしの在り方がアレだからいろいろ人間関係で妙なことが
立て続けに起こったんだろうなぁ みたいなことを書いた。
それも然り と思っているけれど もうひとつ大きいのは
わたしが 解離をやめたこと にあるのではないか 思い始めている。

 かつて わたしは都合の悪い どろどろしたもの かけられていた呪い
その他をすべて 別のところに解離させるような 危ういやりかたで
生きていた。 でも実は そのことが わたしのひとあたりをよくしていた
とおもうし、わたしの触媒体質みたいなところを 投げ込みやすい何かをも
作っていたのではないか とおもう。 わたしがわたしを引き受けられなかった
ということの 違う側面からの言い換えにすぎないかもしれないけれど。

 それが わたしはいま かつて解離させていた部分を
現実場面の中 現実の内的生活の中に感じることができていて(もちろん
まだ足りないところもたくさんあるだろう) そうすると
一挙に ひとあたりがよくない面 とか わーこいつイヤな感じ とかを
ひとによっては思うような ナマの何か みたいなものが
わたしからにじみ出るようなことも 多く出はじめたのではないか
と思っているのだった。

 知らないあいだにそれがはじまったので
ひとから嫌われたり ぶちっと切られたりする経験を
高校以降あまりしていなかったわたしは ちょっと(かなり)どきどきして
なんかわたしはとんでもない短所があるのでは とか考えたりしなくもなかった。

 そりゃあります。欠点。短所。課題。 生じているすべては
それを示してくれる何か であることには変わりない。 
けれど、それは わたしのすべてがダメ だから生じた
のではなく、わたしが解離のなるべくない、
まるごとのわたし となってきているぶん 
生じているのではないか
そういう面もあるのではないか と感じているのだ。

 やっと ひと になってきた というか。
これからじぶんの抱えるものときちんと向き合い 
丁寧に作業をすすめることで 突然すごい勢いで嫌われたり
妙な具合にぶつかったり ということは減ってゆくだろう
とおもうけれど いま こういうことが多く起きているのは
ほんとうに いま だからなのだな と腑に落ちたのだった。

 わたしはわたしだ という感覚がきちんとあることを
ほんとうにありがたくおもう。 いろいろなことは
あたらしく あるべきように在るようになるのだから
焦る必要は もはやないのだなぁ とおもう。

 感じたことに忠実に なかったことにせずにやっていきたい。
そして できることをしたら あとはもう ながれのままにいく。
もし さらにできることが増えるのなら そのときにまた
それをすることになるし とにかく こころに生じたことだけを
きちんと見失わずにいよう とおもう。

パーフェクトなこの世界で。





2013年5月3日金曜日

あらためて。

 なにがどうあっても 通らざるをえないなにか というのが
あるのだとおもうけれど でも いろいろと もっとじぶんが
浮かれずに せっかく気付いたちょっとしたサインに
きちんと向きあうことができていたら と思わざるをえない。

 意識していて わかっていて でも できていないこと 
があると だんだんそれは
ダメージが大きいかたちで訴えかけてくる。

 だいたい やってるし だいたい 気付いてるからいいじゃん
っていうのでは 許してもらえなくて いちばんやってはいけない
というかたちで表現されてしまうものなのだ という
端から見てればすぐにわかりそうなことも
じぶんのこと となるとなかなかそうはゆかず
それでもとにかく 起きてしまった出来事に
真摯に向かい合い、いくら遅すぎて 
取り返しのつかないことがあるとしても
やるべきことをやるしかないのだ。

 なにがあっても それはわたしが抱えて(ほんとうに)
抱えながらもひかりを見てすすむ ということを
やってゆくことが肝要なのだとおもうし もうほんとうにほんとうに
これからの人生は そういうことをやってゆこうとおもう。