2013年5月29日水曜日

ひとのちから

 あくまでも そのひとの体験は そのひとだけのもので
だから まわりの誰かが それをほんとうには わかった り
ぴったりと添う というようなことは できないのだろう とおもう。

 そして その体験は どんなにことばを尽くしても
どんな表現をもってしても 体験したそのままに まるごと
正確に あらわすことはできないので
だからやはり 最終的には そのひとの体験は そのひと自身が
じぶんでみずからの物語におさめるしかない。

 けれど それでもやはり ひとは体験した何かを
じぶんなりに表現しようとして 伝えようとして
わかりあおうとするし まわりはそれを なんとか受け取ろうと
そのひとの在りように添おうとする。 直截 ではなくても。


 なんとか 受け取ろう わかちあおう 添おう 
としてくれる相手が この世のどこかにいる と思えるとき
ひとはちからを最大限に発揮することができるのだとおもうし
そのちからを使って みずからの物語に体験をおさめる作業を
じぶんでやりとげることができるのではないかな とおもう。


 だから何だという話ですけど。

 くりかえし 似たようなことは言っていますけれども。

 
 たのしいことだけわかちあいたい という生き方や
在り方があることも わたしは知っているけれど
それが深い意味をもつのは やはり 
さまざまな たのしいことだけではないすべての体験を通したそのひと
というものが感じられてこそ なのではないか とおもう。

 
 あらゆる意味での ひとのちから をよりいっそう信じて
これからの人生を暮らしていきたい とおもう。



 

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