2013年5月6日月曜日

いまだからこそ

 中学生のころまでは 実際ものすごく 鼻持ちならない感じ を
ぷんぷんまきちらしていたから よくクラスメイトに嫌われたり
軽くいじめられたりしたものだったけれど、高校以降はそういうこともなく
人間関係で大きく苦労したこと というのは これまであまり
なかった と 言っていいとおもう(恋愛がうまくいかない とかは
別にしてね)。

 まえに、わたしの在り方がアレだからいろいろ人間関係で妙なことが
立て続けに起こったんだろうなぁ みたいなことを書いた。
それも然り と思っているけれど もうひとつ大きいのは
わたしが 解離をやめたこと にあるのではないか 思い始めている。

 かつて わたしは都合の悪い どろどろしたもの かけられていた呪い
その他をすべて 別のところに解離させるような 危ういやりかたで
生きていた。 でも実は そのことが わたしのひとあたりをよくしていた
とおもうし、わたしの触媒体質みたいなところを 投げ込みやすい何かをも
作っていたのではないか とおもう。 わたしがわたしを引き受けられなかった
ということの 違う側面からの言い換えにすぎないかもしれないけれど。

 それが わたしはいま かつて解離させていた部分を
現実場面の中 現実の内的生活の中に感じることができていて(もちろん
まだ足りないところもたくさんあるだろう) そうすると
一挙に ひとあたりがよくない面 とか わーこいつイヤな感じ とかを
ひとによっては思うような ナマの何か みたいなものが
わたしからにじみ出るようなことも 多く出はじめたのではないか
と思っているのだった。

 知らないあいだにそれがはじまったので
ひとから嫌われたり ぶちっと切られたりする経験を
高校以降あまりしていなかったわたしは ちょっと(かなり)どきどきして
なんかわたしはとんでもない短所があるのでは とか考えたりしなくもなかった。

 そりゃあります。欠点。短所。課題。 生じているすべては
それを示してくれる何か であることには変わりない。 
けれど、それは わたしのすべてがダメ だから生じた
のではなく、わたしが解離のなるべくない、
まるごとのわたし となってきているぶん 
生じているのではないか
そういう面もあるのではないか と感じているのだ。

 やっと ひと になってきた というか。
これからじぶんの抱えるものときちんと向き合い 
丁寧に作業をすすめることで 突然すごい勢いで嫌われたり
妙な具合にぶつかったり ということは減ってゆくだろう
とおもうけれど いま こういうことが多く起きているのは
ほんとうに いま だからなのだな と腑に落ちたのだった。

 わたしはわたしだ という感覚がきちんとあることを
ほんとうにありがたくおもう。 いろいろなことは
あたらしく あるべきように在るようになるのだから
焦る必要は もはやないのだなぁ とおもう。

 感じたことに忠実に なかったことにせずにやっていきたい。
そして できることをしたら あとはもう ながれのままにいく。
もし さらにできることが増えるのなら そのときにまた
それをすることになるし とにかく こころに生じたことだけを
きちんと見失わずにいよう とおもう。

パーフェクトなこの世界で。





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