2014年10月30日木曜日

だれかの何か

 繰り返し書いていることだとおもうけれど。
ほんとにむかし わたしは だれかの何か になりたくて
トクベツな何か になりたくて仕方がなかった。
わたしはわたしの価値をだれかに決めてほしかったのだろう。



 メサイアコンプレックス というのがある。
わたしとおなじような仕事をこころざすひとに
ままありがちなそれ。 救いたい のは 救われたい から
という それ。
じぶんのなかにそういう要素がないかは つね自問自答していた
つもりだったけれど そしてわたしには
救済者になりたい というまでのものは確かになかったとおもう
けれど でも 誰かにとってトクベツな何かになりたい という
そのこころもちが わたしをいまの職業に導いた部分は
決してゼロではなかったとおもう。わたしはマザーテレサではないのだ。
いやらしい下心的な何かが  なかったとは言い切れない。
残念ながら。

 
 仕事の部分では その部分が知らずと出てきて
残念なことに というのはほぼ なかったとおもう。
慎重にやっていたとおもう。

 でも。 プライベートではどうであったか。
わたしは 誰かにトクベツに思ってほしくて
誰かに すごいね あなたが わたしの唯一の存在
くらいなことを思ってほしくて でも
そんな中身が伴っていないこともわかっていて
びくびくしながら わかったふり をすることで
トクベツに思ってもらおうとしたのだ。
仕事の知識や仕事から得た態度でもって
トクベツな何かになろうとしたのだ。
事実、そこに飛びついて来たひとがけっこういたとおもうし
でもそんなメッキのようなものは すぐに剥がれてしまうものだ。
そして わたしはその無意味さを
ほんとうにほんとうに 身を以て知ることになった。
ここしばらくはそのためのいろいろだったのだろう とおもう。

 

 やっと しみついていたその感じが わたしから離れつつある。
わたしはわたしだ。 わたしは誰かのトクベツであるために
何かをおこなったり 何かを纏ったりしなくてもいいのだ。

 おそろしいことではあった。 何もなくて  メッキもなくて
わたしは受け入れられるのか と。
ところが世界は わたしが丸腰でぶつかると
やわらかくひらき そこにあった。
わたしが 何者でもないわたし である  という
そのことが肝要なのだと感じさせてくれる人間関係がそこにはあった。


 これからもきっと 必要なことや 必要ではないことや
とにかく わたしが経験することになっている運命がどんどん
わたしにやってくるだろう。 でも わたしがわたしでいるかぎり
ほんとうの意味で わたしがそう在るかぎり
生きてゆける とおもう。 劈いてゆける とおもう。
 


2014年10月19日日曜日

写真を載せる

 まだまだ定期的に わたし大丈夫だよね? と
あらゆる側面から言ってやらにゃならんくらいには
たよりないわたしである。

 ということできょうもまた懲りずにそういうようなことを
おれは書くのだ。かたかたかた。(タイピングの音な)


 この歳になってというか四十路すぎてからようやく
外見でちやほやされる ということがごくまれに
生じるようになってきた。ジョシ同士のアレとかじゃなくて
初対面の男性とかに という意味で。

 もちろんそういう ごくまれ な場面でも
あわよくば と先方が思っているから言ってるお世辞であるのは
そうなんだけど お世辞でもそんな経験がなかったから
まだそういう事態に遭遇すると ちょっと浮かれる。
でも 浮かれていられるのは 社交辞令よね と
思っていられるあいだだけで。
で ちょっとほんとに言ってくれてるのかな
とおもうと 怖くなったりする。

 まぁ ごくまれ だからそんなにたくさん経験はないけど
でもそんなふうに言われても こっちはそこまでそのひとを
いい とは思っていなかったりするともうダメで
どうしたらいいんかな と 思ってちょっと居心地がわるいような
そんな感じになる。 そのひとに対して
こっちがニュートラルなのであれば そのひとの好意を
とりあえずありがたく享受しながらじぶんがどう感じるのか見極める
ていうのできっといいんだろうけども
そういうことがどうしてもできない。

(ちょっと前まではもっともっとダメで
いいように扱われるとのぼせてわたしもそのひとを好きかもくらいに
すぐ 思っていたわけだけど。つまりそこは抜け出した わけだけど。)


 ところで。 自撮り という行為がありますね。
そしてそれを SNSにうpする という行為もありますね。
頻繁にされる方 いらっしゃいますね。

 そうしたひとがSNS上の友達にいるのだけれど
そのひとが 自撮りはただの見て見て!ちゃんじゃなくて
じぶんをあらゆる角度から冷静に見つめるためのもの みたいな
そういうことを言っていたわけだけれど
たしかにそういうふうにやってるひともいるのかもしれないけど
わたしはそういうふうにはならないなー と思った。
わたしは自撮りはほぼしないけど、じぶんの写真をSNSに載せるときは
じっさいのところ ねぇけっこうよく写ってね? とか
いまのおれむかしよりましじゃね? っていうのを
見てほしくて載せてるところがまったくないとは言えない。
だから 褒められたら そんなことないよ〜 じゃなくて
ありがとう! て言うけどな。ぐへへ。

 もし 自撮り写真をみんな載せるように なんて ことがあったとしたら
きっとわたしは自撮りを じぶんでも気付かなかったじぶん
じゃなくて わたしがいいとおもうじぶん になるように
なんども撮り直すなどするであろうとおもう。


 何が言いたいのかよくわからん感じになってるけど
えーと。 わたしはじぶんの顔がましになってきている若いときより
と思っていて、それをあらゆる方法で確認しようとしてしまっている
ということなのだな とおもう。 プレイです。つまり。

 もしじぶんの外見を 確認しなくてもいいくらい
認めることができるようになっても わたしはたぶん
自撮りを  あらゆる角度から見つめる ためには
できないような気がする。 それを公開する時点で
ひとの目にどう映るか ということは意識されているわけだから。

 
 てことで。 いまのわたしがじぶんの写真をSNSに載せるのは
わたしがまだ あらゆる方法でじぶんの外見を確認しなければ
気が済まないから だということだ。おそらくそういうことだ。

 ちやほやされていい気になったりうろたえたりすることも
世間的にはバカみたいだろうけど わたしにとっては
いま経験すべきミッションだから起こっているんだろう きっと。

 起きていることはぜんぶ きのうのエントリに書いたことも
きょう書いたことも そのほかもぜんぶぜんぶ
いまのわたし がみっちりと詰まっている何か なのだ。たぶん。







2014年10月18日土曜日

盗まれるとか入られるとか

 ものごっつい直截的な題だけれども 残念ながら
身の回りにそんなことがあって というのは
1年以上まえからわかっていたけど放っていたら
なんだかもっと残念な事態になっていて という
そういういまなのだった。

 えー そんなことあるん? 
とおもうけど あるんだなー。
大きな金品を狙ったどろぼうなら
警察の対応ももっと優しかっただろうし
被害届も出しやすく 捜査もしてもらいやすかっただろうけど
日用品を地味に盗られ続ける というのは
そんなに相手にしてもらえない。状況的に犯人がわかっていても
証拠がないと動いてもらえない。 致し方ないけど
疑わしきは罰せず が警察の方針だ。

 というのはともかく。

 実は 盗難の被害にあう というのは
実家や祖母のところでここ数年だらだらと続いていることで
もちろん悪いのは犯人だし こんな目にあうのは
リフォーム業者がわるものだった とか 隣人がおかしかった
とかいうのが理由で 単なる事故 ともいえるけど
やっぱりどうしても そういう事故を呼び込むなにか があって
なにかのめぐりがそうなってて
(ムスメとしてすごくダメだけど) いま になってようやく
わたしもちょっと関わらなきゃならんな と
いう気持ちになった(つまりようやく否認抑圧しないで
我がこととしてぐあいわるいと思う様になった)というのには
意味があるんだろう とおもうのだった。

 なんの過程なのか。 

 でもきっと その布置を解き明かすためにも
わたしはもうすこしこの事態にコミットしたほうがいいんだろう
とも思う。 実質無視してたぶん わたしもしばらくは
イヤな思いをすることになるのだろう。当たり前だけど。