2014年5月26日月曜日

次のサイクルへ

 オトナってむずかしい と常々思っているのだけれど
またもおなじようなことを思ったりしたのだった。

 すごい勢いで仲良くなって それと同じ勢いで離れていったひと
についてはここでも何度か書いていて ほんとにただただ
一緒にいるときが終わったのだろう とアタマではわかっている し、
じっさいのところ そのとおりだな と心底感じている とも おもう。
けども。 いまでも微妙に関わるとき があって そのときの
先方のあからさまな態度には やっぱり傷つく。

 何人かのグループで も 仲がよかったから
かつてほどの交流はなくても たまにそのメンバーでのやりとり
ということがある。 が 去年くらいから
その彼女は わたしの発言にはほぼ反応しない という態度に
出だしたのだった。 たとえば ほかのメンバーが
わたしのフラを観に来てくれて その感想や写真なんかを
そのメンバーにシェアしたら なんらかの反応はするけど
わたしが発信したものは完全に無視 とかそういう感じがずっと続いている。
 
 それでも わざわざ わたしのことがキライだ とか
そういうはっきりしたことは言わずにいてくれているんだろう
とは思うけど そうまでして保たねばならぬ何かなのだろうか
とも 思うのだ。 彼女も わたしも。

 きっと わざわざ波風をたてて ほかのメンバーに
気を遣わせるのもな と彼女は思っているのだろうし
わたしもそれは同じくで、 でも 彼女がわたしを避けていることは
みんなもきっと 気付いているだろうな とおもう。
言わないだけで。

 率直にはなしあうまでもない と彼女もわたしも
お互いに思っているのだろう。 そして ほかのメンバーとの交流を
避けたいわけじゃないから 放っておいている みたいな。

 それでも あからさまな無視 というのは
ずいぶん堪えるものなのですね。 背景なりなんなりを
じぶんなりに把握していてもなお。

 と 書いていて気付いたけども
その彼女とのことを 残念におもって ちょっと執着しているのは
わたしのほうなのだろう。 そのメンバー全体でのやりとり を
あえてする必要があるか といえば ない し、
みんなが気付いていることなのだろうに それに気付かぬふりをして
かつてとおなじように発信するのは はっきり言って
よりいっそう みんなに気を遣わせているだけなのだな と。
彼女のほうは 彼女が思うようにやっているだけだ。
わたしを残念に思っているから無視している という
シンプルなものなのだろう。

 オトナってむずかしい とか書いたけど
むずかしくして オトナぶってるのは他ならぬわたしで
そして わたしのやっていることは 決して オトナ ではない。
そう思った。 無視されて傷つくぅ ってバカか。
そういう事態をつくってるのは 他ならぬわたし自身だ。

 
 思春期か 言うねん。四十路になってもなお こんなって どうだ。
やっぱりわたしの課題は わたしがわたしの思いと
わたし自身に責任を持つこと なんだな。 

 ということで そろそろ新月も近い。
またあたらしくはじまるとき。 いまは削ぎ落とすべきを削ぎ落として
その次のサイクルにそなえるとき。

 

2014年5月23日金曜日

むずかしいけれど

 なんだかんだであたらしい課題がやっぱり出てくるんである。

 しごとの面でなのだけれど。
わたしのほんとの本職?とは別に
このしごとに就きたいとおもっているかわいこちゃんたちの指導
みたいなことも いまはする立場にあって
そのしごとをするようになってことしで9年目になる。

 最初のころは 彼女たちが懸命に取り組むようすを
わたしがしっかり見ている みたいなことをしているだけで、
ほんとうに音をたてて めきめきと勝手に育っていって
なんてらくちん と思ったりもしたものだったけれど
年々そうはいかなくなって まいとし 驚く何か や 
一筋縄ではいかない状況がどんどん生じている。

 ことしは いままでとはまた別の
このしごとの根底をまず信じられていないひと というのが
かわいこちゃんの中にいて、もちろんその彼女は悪気もなく
まじめで一生懸命で だからこそ どう説明してあげたらよいのか
ほんとうにむずかしいな と感じる。 しかも
その彼女の何か は いろんなひとの何か を刺激することも
あるようで 事態はさらに ややこしさを増しているのだった。

 もはや当たり前だけど だれがよくてだれがまちがってる
とかそういう次元の話では これはないのだろうなぁ
と思っていて。 こういう感じのひとが この仕事をしよう と
考えることもある時代になっている ということ
こういう感じの在り方が生じていることを どう受け止め
どう活かしてゆくのか ということを考え始めなければならないのだろう。

 それが いま こうやって生じている ということは
なにかのあらわれ であるのだし。

 いま起きているこのことに わたしなりにしっかりとコミットしよう
とおもう。 だれかがただ傷ついて終わったり
ダメです! だけで終わったりしないような方向にすすむといいな。
きっとわたしたち指導側も あたらしい何か あたらしい視点
のようなものを求められているのだろう。 ここをがんばれたら
わたしたちの本職での可能性も もっとひろがるんじゃないかな。

 そしてそれだけでなく わたしがよりじぶんを深めること
じぶんの在り方そのもの について深く感じ、考え、
変容していく ひとつのきっかけともなるのだろう と思っている。

 

 

2014年5月17日土曜日

そういうこと

 いいわけのように いいきかせるように
いまこれはこれでじゅうぶんたのしいんだけどね
と わたしは言う。

 半分 いやそれ以上 本当なんだとはおもう。
踊っているとき ともだちと会って酒など酌み交わしているとき
走っているとき 本を読んだりしているとき
仕事をして集中しているとき 
わたしはいままでの人生になかったくらい それらのことを
こころからたのしんでいるし さみしいとか 漠然とした不安とか
そういうものはずいぶんと 影をひそめている。

 痛々しいほどにこじらせていた若いころも
もちろんそれなりにはたのしいこともあったし
けれど全体の色としてはどんよりしていて
あの頃とくらべたら わたしはずいぶんと
息がしやすいひろいところにいるなぁ とおもう。

 であるのだがしかし。 

 すこしばかり気付いているのは
なんだかんだいって 色情で身を滅ぼす と
ちびっこのわたしが占い師に宣言されたとかいうそのことを
わたしはどこかでひきずっているのだな ということ。
それがあるから? わたしはじぶんがたいそうもてないとか
パートナーが結局いまもみつからないとか
そういうことについて ものすごい負い目 というか
じぶんはダメな人間なんだなぁ とか思っちゃって
とか パートナーが一生いないのはさみしすぎるし
もしかしたらそれだって可能性としてありうる ということを
ほんとうは恐ろしくおもっている ということから
抜け出せないのでは みたいなことをおそれているのだ。

て なんだこのわかりにくい文章は。

 えーと。 彼氏ほしいなー とか パートナーがいないのは
わたしがダメだからだ とか そういう ちょっと恋愛的な何か
に とらわれていることを 格好わるい とか思っちゃってる
そのこと自体がおそらく 色情で身を滅ぼす と言われたことの
ほんとうの意味なのかな というか。

 そのへん 抜けたらいいのになぁ といまはおもう。

 彼氏欲しくていいじゃん。 色情上等。
ていうふうに 言えるくらいになったらきっとそれは
それも ともかくもういまあるようにやろうよ っていう
そのこととおなじになるんだとおもう。

 格好つけて どーでもいいふり とかしてるけど
ほんとはぜんぜんどーでもよくない。 
けど さみしさだけで ジョシ扱いされたことが
ものめずらしいだけで すがっていくようなことは
もうみじめすぎるからしたくない。 

 て 書いてみると 当たり前のことだし
いいではないかもう。 そういうことなんだから。
みずからを おんな と認めて さらには
その価値 みたいなものをだいじにしてもいいんじゃない
って思ってからまだ日が浅いから もろもろの処理が
へたくそなのは仕方ない。

 ということで まぁ日々は過ぎます。
わたしはまだまだ 解き放っていくよ。 まぁ見てなって。


2014年5月14日水曜日

察しろ、おれ

久しぶりにへこんでいる。

もう完全にこれは、わたしの不徳の致すところ だし、申し開きのしようのないことやな、と。

思いやりがない と言われたことがあります。
何回か。

何回か言われたことがある てやはり致命的だ。
ほんとにそうなんだとおもう。

そして、実際にわたしは、ひとのきもちがわからない
というか、わからないときに、相手につい丸投げするような
母に対し説教したようなまさにその態度をとってしまうことがあるのだ。

きょう たったいま
わたしはたいせつな仲間のこころを慮ることができず
とてもしんどいことを聞いたりして負担をかけてしまった。

でも このわたしの行為が負担なのだと、わたし自身が考えて決めることなのだと
教えてくれたうえに許してくれる
という それはそれはオトナかつ優しい
それこそ思いやりにあふれた態度を仲間たちはとってくれた。

恥ずかしい。ほんとにじぶんが恥ずかしくて情けない。

このたびのこの恩を、わたしはどうやって還してゆけばいいだろう。

ダメだな。そして、わたしはじぶんのこの感じのダメさに実は薄々気づいていて、
バレたくなくてびくびく怯えていたところもあった。
でもきっと、わたしのこんなダメさは、
みんなにはすっかりわかられているのだろう。

あぁもうきょうほどじぶんが恥ずかしい日はない。ごめんなさい&ありがとう。

生きてゆくって たいへんだ。

2014年5月12日月曜日

パッシヴなじぶんを超える

 未熟なりに日々は過ぎ そして あるべきやう にあるために
わたし自身がどうあっても生きていくしかないんだよね
ということの確認ばかりをすることになるのである。

 こんなひどいひととはもうゆめゆめ今後付き合うなんてできません
というようなことを宣言される あるいは宣言されずとも
わかりやすく遠ざけられる という経験は そりゃないほうがいいんだけど
残念ながらわたしはそれを オトナになって というか
ここ数年で何度か経験していて それについてはもちろん
わたしのダメさ加減 ということもいろいろ考えたけれど
わたしの触媒体質ゆえにいろんなものを投影された という
そういう面からも考えたりもした。 その両方が
ここ数年のうちに というか わたしがわたしになっていくにあたって
どっ と出ざるをえなかったのだろう。変容には痛みをともなう。

 反省せねばならんことを 必要な分量だけおこなう
というのは 実はとてもむずかしいことなのだ とおもう。

 このことをわたしはとにかく考える。

 世の中には 絶対に正しい ということはきっとなくて
すこしでも立ち位置が変われば 何かががらっとかわってしまって
でも わたしたちは誰かとつながっていないと生きてゆけなくて
だから じぶんなりに じぶんの声に誠実にやっていくしかない。


 あれだけ強く結びついていたからこそ 
それと同じだけの勢いがないと切ることはできなかったのだろうし
わたしは起きたことを経験しつくす という方面からしか
このことにはアプローチできないでいる。

 妄想して苦しいこともあるけど
でも わたしには わたしのいま が劈けていて
わたしはわたしの課題を わたしの場所でおこなっている。

 だから。

 人生はくるしい。 人生はたのしい。 

 
 わたしがいま言う 愛 は すこしまえとはまた
ちょっと違ったニュアンスでもって ここにある。
こうやって人生は積み重なり わたしはわたしになるのですね。

 いつか笑って話せるのかな。
 わたしはもう パッシヴなだけのわたしではない。



2014年5月10日土曜日

まだまだ未熟

 まだまだ だなぁ って おもう。

 数年前のことを考えたら いまのほうがずっと
いまのじぶんを肯定しているし、まいにちがたのしい けど
けど まだまだ 周囲のひとたちを うらやましい 
と思ったり 焦ったりするきもちが ゼロにはなっていない
のを感じる。


 まず。 フラ教室の仲良しは わたし以外はみんな
大きい大会のようなものに出ることになっていて
もんのすごく練習をがんばっている。 
練習はほんとうに厳しいのを漏れ聞くし、実際
それについていこう って 必死にがんばっているみんなを感じる。
わたしはそれに遅れないように とおもう けど
おもうだけで 正直 彼女らにみあう練習を独自にしているか
というとそんなことはなくて だから さらに差は開く一方なのだった。
がんばってもないのにバカかおまえ っていうね。
みんなの それにかける感じ に びくびくするところも
ないではない。 場違いなことを言ってしまわないか
とか 何を言っても どうせ出ないひとにはわからないよ て
なるかな とか。  で、そういうことを思いつくということは
逆の立場になったとき わたしは どうせわからないよ って
思ってしまうかもしれない ということなんだろうなということもわかっていて
そのことにも落ち込む。 ダメだなー おれ。

 もうひとつは 高校の同級生がこのたびはじめてのご懐妊
ということ。 ほんとうにうれしい って思うと同時に
わたしはもう そういうことがないに等しいんだな と
思って ちょっと悲しくなったりしてしまうこと。 
受け入れられてないのかな。 ただ 身体の機能として
もうお子のもととなるものがないかもしれない 
というだけでなく そもそも パートナーもいない。

 まだまだこれから(恋愛的に)いろんなことがあるだろう
と思いたいわたしと 思うわたしと そう思ってるうちに
どんどん時が過ぎて 結局なにもなく終わるかもよ
ってささやくわたしがいる。



 だいじょうぶ わたしはどうあってもわたしだし
わたしとして生きてゆける

 と 8割くらいの割合でわたしのきもちは思っている。
けど、のこりの2割には どうしようもない不安と
どうしようもない劣等感と どうしようもない羨望が
やっぱり残っている。 ということを 認めざるをえない。

 ほんとうにださい。 たとえば パートナーができても
いつどうなるかわからないんだし お子ができても
わたしが安泰なわけではないんだし そんなことはよくよく
わかっている。 フラがもっと上達したところで
上達したなりのなにか がかならずやあるだろう。

 目の前のことを 目の前に起きた通りに受け入れ
すべて経験しつくすしか方法はないのに。
そのわたしに起きることごと わたし自身に
わたしを明け渡すしかないのに。


 この わたしのださい焦りと不安。
これすらも わたしは無視せずに なかったことにせず
生きていくしかない。かっこわるいわたしを認めて。

2014年5月3日土曜日

9年目のわたし

 いまの職場で働くようになったのは8年前の4月で
その頃はまだ30代前半で若かったし 職場にいるかわいこちゃんらと
そう歳もかわらない、つもりでいたし、
時代が変わった感 のようなものもまだそこまで強くなく
じぶんがその年頃だったときのことを思い浮かべて
ただほんとうに見守る感じでいたら 種から芽が出て
たいようにむかってすくすく伸びてゆくように
彼女たちはどんどん育っていった。 ように 思った。
すぐに対等に話ができるようになった。 ように 感じていた。

 それが 数年のうちに ただ見守っていたらいい とは
みるみる思えなくなり、この世界に入ってこようとするときの
前提 のようなものがまったく身に付いていないままに
入ってきてしまう子たちがどうしても増えているように思えてきた。
とある年度を境に うわぁ・・・ と思ってこちらが焦ることや
指導の仕方について試行錯誤することはどんどん増えていっている。
じっさいのところ。

 
 けれども。 そのぶん 前提 とおもっていた
あたりまえ とおもっていた部分を丁寧にことばにして
説明したり 話し合ったりすることが確実に多くなっていて
そのことは わたしを初心に立ち戻らせる。もっというと
わたし を突きつけてくる感じすらする。
わたしが この仕事をどうして選んだのか どうして続ける選択を
しつづけているのか どう感じて向き合っているのか
その わたしの根底 のようなところを
点検し あらためてみる作業をしているに等しいからだ。

 この先こんなかんじの子ばかりふえたら
この業界はどうなっていってしまうんだろう などと
思っていたけれど もしかすると こういうふうになっていっていることで
わたしたちは じぶんの ひとに対する立ち位置や構えや
じぶんの在りかた のようなものまでも強烈に振り返り
考え直すことを迫られ、そこからまたなにかをクリエイトしていくことを
自然とすることになっているのかもしれない。

 なんで知らんの とか なんで考えてないの ではなく
それを「体感として知っている」ようにおもうじぶんや
「考えている」ようにおもうじぶんを徹底的に振り返り、
もっとブラッシュアップさせたり
知らずに慢心している部分を正直に反省してあらためることを
わたしはいま 求められているのだろうとおもう。

 そんなことを考えていたら やっぱり わたしがやるべきことや
わたしに必要なことは わたしの目の前にあるのであって
そのことごとに真摯に取り組んでゆく以外にないのだなぁ と
またしみじみと思ったのだった。

 これが起きてよかった とか そういうことではない。
とにかく ことがあった。 ことが生じた。 そのことを
とことん体験し、そこを生きなければ 
わたしがここにいる この世界に在る理由はないのだろう とおもう。