2013年12月29日日曜日

2013 といういちねん

 まぁたぶん 31日になったら それはそれで いちねんの〆
みたいなことを言いたくなるんだろうけれども。

 なんか すごいいちねんだったのだよ。2013。 痛かった。すごく痛かった。
けど それ以上のことがあったし なによりも わたしはほんとうに
わたし になる一歩を踏み出せたし これは周囲から見て本気で痛いひと
だけど このいちねんでわたしはいままでのじんせいのなかで 
いちばん キレイになった とおもう。(わー痛いよこのおばちゃん)

 でも。いちねんの終わりに そういうふうに心底
おもうことができて わたしはこれから とにかく
目の前にやってきたことを真摯にやって やっちゃったことを
その意味を噛み締めながら次に進んで どんどん わたし を
刷新してやっていくんだな という覚悟みたいなものが
宿ってきたんだろう とおもう。

 どうあっても 偏見だったり じぶんの無意識や課題を通したようにしか
ものごとを見ることはできなくて だから わたしはわたしの課題をやります。
わたしを通して わたしに何かを投げかけたひとたちがそれを返してきても
それが わたしの課題であれば 取り組むし そのときがきていなければ
まだできないし そのひとが次に行くための照り返しであれば
それとして受け止めるまでなのだ と。

 もっともっと わたしになろう とおもう。
きょうも あしたも その先も ずっと。


 わたしが傷つけたひとたちが大勢いて
そのことを思うとどうしたらいいのか というきもちになる けど
どうしたらいい ってそれは 感じたようにわたしが努力して
わたしになってくこと でしか どうにもならないんだろう とおもう。

 
 人生はまた 次のステージへ。




2013年12月26日木曜日

クリスマス

 ことしもクリスマスがめぐってきて なーんて 
じっさいのところ クリスマスがどう とかは
自虐ギャグ的に 「なにそれおいしいの?」と言ってみる
くらいのことで 特に重視していたわけではないのですが
期せずして 2年まえのこの日に
一緒に温泉旅行にいったトモダチと過ごすこととなったのでした。

 このたびは わたしが彼女の家に遊びに行ったのです。
クリスマスとは全く関係ないおいしい地元のおさかなを出す食堂で
お昼ごはんをいただいて だらだらと江ノ島を笑いながら散歩して
スパークリグワインやらワインやらを買って(おしなべてワイン)
彼女のおうちで 彼女が作ってくれたおいしいゴハンをいただきながら
クリスマスぽく飲んでまた笑いながら話しました。

 2年まえのクリスマスは お互いにいろいろあって
彼女もたいへんなときだったのに 失恋したてのわたしのために
近くにきてくれて ああそういえば その日が2人だけではじめて会った日だった。
のに温泉旅行に行けちゃう ていう、ほんとうに不思議な縁で
いまにつながっているのでした。


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 このいちねんも いろんなことがあって
たのしいことや あたらしいことが多くて 
いろんなことが 音をたてて
変わってゆくような(表からは何も変わってないけど)
そういうときで だからこそ の そういう変化を象徴するような
これまでのじぶんのダメさをかたまりにしたような
残念なことも起きてしまったけれど ともかく
なんかもう 人生という営みがすごすぎる ということばかり
感じる日々なのでした。


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 トモダチとことしこうしてクリスマスを過ごせたことで
わたしはなんだか わたしがこの世界にいていいんだ と
何かを許されたみたいな そういうこころもちすら しています。

 ほんとうにありがとうございます。
これからも「運命は決まっているが と同時に自由である」を
こころの中心のあたりにもって
目の前で起きたことを真摯に受け止めて作業していくしかない
と思いました。 

 来年もよき年になりますように。



2013年11月11日月曜日

意外とふつう

 まえにも似たようなことは書いているのだけど。

 わたしには ちょっとくらいはかわったところはある
かもしれないけれど 実はそうでもなくて
意外と果てしなくふつう というか ふつう(とわたしがおもうような)
そういうひとたちが いい と思うものも
先入観をはずしてよくよく見てみたら いい とおもうものが多い
など けっこうなかんじで ふつう なのだった。
みんなもう知ってたと思うけど。

 でも どうしてことさらじぶんを かわっている
と思わなきゃいけなかったかといえば 
これまた教科書に書いてあるようなりゆうだけど
どう考えても じぶんに自信がなかったから なのだとおもう。

 わたしがわたしであって それ以上でもそれ以下でもなくても
それでもじゅうぶんにトクベツというか わたしはわたしだ
みたいなことが ほんとうにはわかっていなかったのだろう
とおもう。

 ちょっとかわった ちょっとおかしな趣味を持っていて
ひととはちがうようなものを いい というわたし
でないと 他の人との差別化がはかれない と
本気で思っていたのだろうとおもう。 
わたしがわたしたるゆえんは そんな表のところにはない
にもかかわらず。

 わたしがほかならぬわたしである と言いたいばかりに
わたしはじぶんを かわっている と思いたかったんだろう。
なんてバカなの。

 よくよく考えてみれば わたしの その ちょっとは変わっているところ
を 拡大解釈して 変わっている ということで興味を持った人とは
恋愛だけでなく 友情だって続いてないのだった。
さっき気がついたんだけど。
ここ数年のお祭りの際に
うわーっと近づいてきて うわーっと離れていったひとたちは
わたしのたたずまいがすきだったんじゃない。 
わたしがちょっとかわってるように見せてた部分がすきだっただけだ。
そら 飽きるわな。 前に付き合ってた彼だけでなく
ほかのひとたちだって それは同じだったんだとおもう。


 わたしと長く付き合ってくれているひとたちや
最近仲良くなった フラ教室のトモダチなどは
わたしの変わっているところ がすきなわけではないのだろう。
むしろ そういうところは どうでもよくて
わたしのもつ その奥のたたずまいみたいなもの を
それなりに見て付き合おうとしたりなんだり
してくれているのだろう。
そういや むかしむかし 「べつにうず子(仮名)がおもしろいこと
知ってるとかおもしろいこと教えてくれるから付き合ってるとか
そんなんじゃないから」 とトモダチに言われて
当時はひどくうちひしがれたものだったけれど
それは わたしのたたずまいを認めてつきあってるんだよ
という すごくありがたいことばだったのだな と
いまはわかる し そのトモダチとはいまも仲良しだ。

 ちょっとかわったわたしプレイ と
ちょっとばかりアタマがいいわたしプレイ は
ほぼ同じ意味で わたしはとにかく
わたしであることに自信が持てずにそういうところを
強調していたのだろう。 うううぅ。 バカ。バカすぎるよおれ。

 ともかく。

 いまわたしは 肩のちからを抜いて
別にそれが ふつう かどうかは別として
わたしがいいとおもうものがいい というのでいいし
ちょっとまえまで ふつう・・・ とおもって敬遠していたものにも
そこまで違和感や嫌悪感もなく接することができるのであって
なんていうのか そういったものごとの中には
やっぱり興味が湧かないものもあるし 逆に
興味をそそられるものだってあるのだった。あたりまえのように。

 という すごく当然のことに気がついて
なんだかこれからはもっとらくちんに暮らせる気がしてきた。


2013年11月7日木曜日

あくびがでちゃう

 わたしがどんなしごとをしているのか ということを
いや というほどみせつけられるときが ある。
わたしはこのしごとで ひととひとが 出会い
そして 通じ合おうとすること の原型みたいなもの
そのことがもたらすちからの ちっぽけさと 同時に 偉大さを
つよくつよく感じざるをえない。

 ちからをつかう というのがどういうことなのか。

 わたしはしごとのうえで とても辛抱づよい。
プライベートではどうか。 わたしの辛抱づよさは
相手を信じることに基づいていないことが
多々あったのではないだろうかとおもう。

 れんあいが ことごとくうまくいかなかったのは
そういうことなんじゃないかなぁ とおもう。

 仕事とプライベートはちがうけど
やっぱりちがわない と最近はおもうようになった。
表面的にはちがうけど ひとに対することへの本質は
おなじことなのだった。そんなあたりまえのことに
いまはじめて みたいに 深く深く気がつく15年目。

 わたしは最近になってようやく ほんとうの意味で
あいてのちから の可能性に賭けたり それを信じたりすることが
実感としてわかるようになってきたようにおもう。
しごとをしていて そういうじぶんに気がついた。
つまり わたしはこれまで そういうことがほんとうには
できていなかった ということなのだとおもう。
わたしのいう しんじてまつ ということ 
あれは なんだったの?


 よくわからないけど わたしはかわったのだろう。
わたし をまるごとかけないと しごとができない。
その わたし の在り方が やっぱりとても
かわったのだ とおもう。 あのころは過ぎた。
あのころだからこそ あのころのことごとが
わたしのもとに生じた。 いまなら ということは
意味がないのは知っているけれど。

 わたしはこんなふうに通らないと 
こんなふうにはなれなかったのだ。

 あくびがでちゃうね。


2013年10月27日日曜日

からだ

 さて。 きのうはとある学会のシンポジウムにいって
鷲田清一せんせのお話などを聞いてきたわけですが
身体とイメージ という非常にわくわくするテーマだったのに
かんじんのわたしの身体がなぜか疲れきっていて
ところどころ 睡眠学習 な感じになりつつ聞いたのであった。

 あたまでっかちで生きてきたわたしは
身体 をないがしろにすることが多かったし
どちらかといえば 身体 を アタマとか思考とか感情とか
そういう 内的な動きをつかさどるもの こころ に対して
低く見るようなところがあったような気がする。

 川戸せんせがおっしゃったように 身体をこころの従属物であるかのように
こころ が整っていて その方向性が決まっていれば
身体はついてくる みたいなね。 身体 がおかしくなるのは
すべて こころ がもたらすものである みたいなね。

 なわけないだろう。

 もちろんそういう部分(こころが整わずそれが身体に など)は
あるし、まったくそういったことが関わらないで生じることだって
あるけれど 身体 は 身体それ独自にきちんと 在る のであって
こころのほうに影響を及ぼすことだってあるし 身体もこころも
もうどっちがどっちなのか 卵が先かにわとりが先かとか知らんがな
くらいに渾然一体となっているものなのであるわけでして。

 最近でこそ 身体 をわたしはそこそこ
注意してみるようになった と思う。 
それ以前からずっと 身体はいつでも
わたしの思い通りには動かないものだったけれど
フラをするようになって特に 身体がおもいがけない反応を見せてくれる
というようなことがあって それはほんとうにすばらしい経験なのだった。

 走る ということだけをしていたときは
身体を動かす ということそのものの効果のようなことを
感じていたけれど 踊る ということは わたしにそれ以上のことを
感じさせてくれているのだろう。

 でもまだまだ。 開いているか 閉じているか という
昨日はその話もあったけれど わたしの身体は 
閉じている ような気がする。 まだまだ 開けていなくて。
そして 同じように こころも 開けていない というか
まだ開いてゆけるというところにある とおもう。

 わたしがこころを開きたくてもあと一歩開けずにいたのは
身体が開いていないからなのでは などもおもう。

 なんて またアタマとかこころとかの方向から
アプローチしておりますが そんなことより
身体 から感じてみようよ。 身体 から発せられるものに
もっと寄り添ってみましょうよ とおもったのだった。


2013年10月22日火曜日

くだらないけど気付いたこと

 きょう電車に乗っていて いろいろと浮かんだことごとは
ここ最近の様々な気付きのなかでも だいぶ大きいものだった
ようにおもう。 ので書く。

 くだらないレベルではあるんだけど。

 なんていうんですか 人生はミラクルですばらしい という真理について。 
それは実際のところ そうだとおもう。 けど
わたしはそれにともない あらゆることにおいて
すがすがしさ とか きっぱり感 みたいなものを
過度に求めすぎたり そうであるべき と思ったりしすぎてたんじゃね?
ということ。 そんなこと 無理じゃーん ていう。

 きょうわたしが気付いたことはそれだったの。
どろどろしたり バカみたい だったり くだらねーなーもー
みたいなことだったり そのすべてを 気が済むまで
バカすぎるどうしよう とか そういうことでぐじぐじしつつもやる
っていう そういうことこそが人生なんだろうな っていう。

 もちろんそれを さらに俯瞰でみたら それもすべてすがすがしい
と言えるのかもしれないけど いやぁ そう言える境地には
死ぬ前にようやっとたどりつけるかどうか くらいで
わたしはまだまだ この混沌としたバカさをやり抜かないといけない。

 あと その わたしのいまいちばんのバカポイントを形成している
例の彼のことにしても わたしとのことをいい思い出って言ってほしい
とか思ったりしちゃったけど そんなのも 別にもうどうでもいい
というか そりゃ いい思い出であってほしい けど
そうなるようにどうする とかじゃなくてもう それはすでに
彼の物語であって わたしには与り知れないこと なのでした。
わたしは わたしの物語をただただ納得いくように 気が済むように
紡いでゆくためのことをするまでで その過程で
彼がわたしを残念に思うことも それもまた人生であって
生きるってそういうことなのだよね とか。

 なんでそういうことを思ったかというと。

 わたしは占いその他などでよく 
「もっとじぶんを素直に出しましょう」
という趣旨のことを言われており、でもわたしは
どちらかといえば すきとかそのへんを思ったように言っては
信じられない と言われるなどのことで揉めてきたな と
思っていたのです。 が これも よくよく考えると
付き合いを終わらせるほど嫌われたくない という部分で
気を遣いすぎて 将来 とか 今後 とかいう
キーワードに関することは特に 相手にあわせよう
としすぎて じぶんを殺してきた ようにおもう。

 もちろん 相手にあわせるって 大切なことだけど
でも いちばん肝心な 価値観 みたいなところで
わたしはいつも 相手の顔色をうかがう感じで
ほんとうのところを自由に出していなかったな と思うのだった。
思い込むのがほんとうに得意だったな と。

 これからはほんとうにもっと じぶんに対しても
相手に対しても開いたじぶんでありたい。 そうでなくては
誰とも関係を築くことなんて できないのではないか とおもう。

 
 という先のことはともかく。 まずはいま目の前にある
例の彼に対してやっぱり思っているいろいろな思いを
わたしがわたしの気の済むように わたしの責任でやり抜く
ということなのだ。 最終的に すがすがしくなること とか
かっこよく終わりがくること を目指すのでは
決してなくて。

2013年10月20日日曜日

キレイなわたし

 フラのステージに出る時は いつもと違って
つけまつげとアイラインばりばりのお化粧をする。

 そうすると 日々ほぼすっぴんの顔とは
全然違うことになって そのことが予想以上にたのしかった
のだけれど あらゆるひとにあまりにも
わー誰だかわからない! 全然違う〜! 
と言われ、しかもいい方に違う と言われて
キレイとすら言われることがあって それは
もちろんうれしいのだけれど じゃあふだんどれだけ不細工なんだ
という そんなことも 思ってしまっていた。

 あー やっぱり不細工なのかなー とか。


 でも つけまつげとアイラインでびじんになれるわたしは
やっぱり すっぴんのほうもびじんになったのだ とおもう。当社比で。

 すっぴんのときでも わたしはいま
わたしの顔が けっこうすきだ。 ふだんの
化粧をちゃんとしない顔だと キレイだ と言ってくれるひとは
あまりいないけど。 わたしの顔を すきだと言ってくれる
そういう男子もいないけど。 あ でも
若いころ ふためと見れない不細工 と思っていたときより
今の方がいいよ と言ってくれる男子は何人かいたな。

 わたしだけを見てくれるような男子に
言われたわけじゃないけど
でも そんなふうに思ってくれるひとがいるだけで
いまのわたしはとてもうれしい。

 ねぇ。 まだここにこんなこと書かなきゃならない程度だけど
わたしはほんとうに キレイになった。 
ねぇ。 いまなら もしかしたらもっと 素直になって
いろいろ言えるかもしれない。どれだけバカにされても。
でも もう遅くて もう交わることはない という可能性のほうが
高いんだろう とわかってて。 それでもなお。
まだしばらくこのままいさせてほしい とも思うんだ。
なんてバカなんだろう。 でも 今まででいちばん
そのことを すがすがしくおもう。

2013年10月18日金曜日

じんせい

 みんなそれぞれが あるべきように そのそれぞれのタイミングで
しっかりとじぶんの課題と向き合い しかるべきひとと出会い
人生をすすんでゆくの。

 しばらくまえまで わたしはたぶん
何者にも代え難いパートナーと出会うことのできているトモダチ何人か
に対して うらやましい としか思っていなかった。
たとえいま 一緒にいることができなくなっていても
そういうふうに思える相手と出会えたなんていいじゃん とか。

 でも。

 もちろん それがすばらしいことであり
いいなぁ と思うことであるには変わりないけれど
それは そのトモダチが じぶんの人生を
しっかり生きてゆくなかで あるべきように出会い
その出会いを逃さなかった ということであって
わたしはわたしの人生をやるしかないのだ と
芯からおもうことが ようやくようやく できているなぁ
と 感じたのだった。

 わたしは わたしがあるべきように
いままでを過ごしてきていて
そして あるべきように いまを これからを
過ごしてゆくだけなのだ。


 あぁもうほんとうに まいにちわたしはあたらしくなるし
過去のわたしのダメさとけなげさと心細さに
もうそんなこと思わなくていいよ といって
ぎゅう とだきしめたいような きもちになるのだった。


 じんせいって こうやってどんどん 更新されていくんだね。

2013年10月12日土曜日

10月のわたし

 さて10月。 最近のわたしは 恋愛については
えー2年経っちゃうよだいじょうぶ? と少々焦る気持ちもありつつ
でも 基本的にはたのしく日々を過ごしていて
ありがとうかみさまありがとうせかい みたいな
そんなこころもちは増す一方なのであります。

 先日 男子とデートしたのに
いちみりも下心を発揮してもらえなくて えーどうよそれー
とか軽く落ち込んだりもしたわけですが
まぁ よくよく考えたら 縁があるひととは縁があるようになるし
ないひととはないようになるのであって
縁がないのにややこしいことが生じる みたいな
そういうめんどうくさい過程をひとつ増やさないで済むように
紳士的に接してくれたトモダチ男子には感謝しなければね
とも思うのでありました。

 

 去年の今ごろ わたしはちょっと
ぐずぐずしたりして むかしの恋人と会ったりして
会ってみて わーもうほんと全然ダメじゃんお幸せに
みたいなこころもちになるなどのことがあり
このBlogもはじめてみたりして お祭りの後処理 を
がんばってしていたのだなぁ と思うと感慨深い。

 今年のいまは 去年とはまったく違う世界が開けていて
フラがたのしい とは当時からおもっていたけど
いまみたいに もっと上手に! とかそういうのは
そこまで強く思っていなかったし、ハラウの仲間と
仲良くいろんなところにでかけたり
しょっちゅうゴハンにいったり とか
そういうことをするようになるとか
想像もしていなかったことなのだった。よく考えたら。

 これからもこうして あたらしいことが
どんどんあるのだろうし あるべきことが
あるべきように あるべきタイミングで起きて
わたしはそれを ただただ 貪欲にすべて体験していこう
とするだけでいいのだろう。

 そういういま。 日々はかがやいているよ。




2013年9月23日月曜日

うがー

 うがー。 とかいう題。
うずりんぐるはジョシとしてのおのれへの自信を
またもちょっと なくしつつあるのですよ。

 まぁ 単に そのとき がきていない っていう
それだけのことかもしれないんだけど
まだまだ なんだなー。

 きのうは 大学時代の同級生男子(独身)に
うず潮ツアー に連れて行っていただいたわけですが。
なんかこう ひととして の由緒正しいおもてなし を受けた
というか わたしが 見たい見たい と言い募ったものを
ひととして しっかり見せてさしあげましたよ 以外の
なにものでもない空気がすごくて ほんとうにごめんよつきあわせて
ていう そういう感じでありました。

 わたし だいじょうぶだろうか。

 でもまぁ いいもの見たし これはこれでよかったかな と。
高校生のデート みたいだったけど いまになって
そういう ひととして なつきあいがたのしめるのは
オトナになったからこそ なんだもの。

 さ。 日々をがんばろう。わたしをもっと 深めてゆこう。

 それだけだよ。わたしにこれから できることは。


2013年9月13日金曜日

そういう いま。

 すがすがしくて ちょっとかなしい。


ここのところのまいにちは そういうかおりのなかにある。

 おまつりがいちばんもりあがっていた
2ねんまえの今ごろまでよりも そのあとの 
じくじくした1年数ヶ月のこれまでの時間のほうが 
わたしにとって ずっとずっと たいせつなものになっている 
とおもうし、とくに ハワイから帰ってのち 徐々に 確実に
でも実はけっこうな速度でいろんなことが変わっていったことを
わたしはきっと きっとわすれない。 
5年後 とか 10年後 とかになって なつかしく思い出すのは
この ハワイのあとのいろいろなんだろう とおもう。
おまつりがあったことよりも。たぶん。

 
 いまのわたしは フラだったり ともだちとの日々だったり
仕事だったり ともかく 日常生活 というものを
じぶんですべて経験しながら 噛み締めるようにおくることが
できてきている とおもう。
これまで感じたことがなかったような
いま ということに焦点が当たった感じとか
とにかくそうして 目の前のことを ということが
こころの底からの思いとしてわきでている
そのシアワセを いとおしくおもっている。

 すがすがしい のは そのきっぱりとした いま。

 ちょっとかなしい のは
もう二度と出会うことのない 過去。 
わたしはもう あんなふうなこころもちで 
誰かと関わることはないだろうし 
もう二度と とおもうほど 離れてしまったことに
胸がすこし いたむ。 いくらもう いまではそう在りたくない
とおもう関わりかただったとはいえ 
あのときのわたしは真剣だったし 
そばにいたひとたちを たいせつに思っていたのだ。

 けれど そのかなしみをわたしはきちんといだいて
そのうえで このすがすがしさをしっかり感じて
そうして また次の場所にゆくのだ。

 いろいろなことがすばらしくて わたしはいま
すぐに泣いてしまう。 あぁどうしてああいうふうにしか
いられなかったのだろう とむかしのことを思って
その感傷もあるのかもしれない。




 

 求めよ さらば与えられん。 望めば 叶う。 
よく聞くこれらのことばのほんとうの意味は 
みずからときちんと向き合い
みずからに真に必要なものを感じるちからをつけなさい
ということなのだとおもう。 そしてそのことに
素直で忠実で誠実であること。

 2年まえのわたしよ。2年前にあなたが想像していた未来に
わたしはいないけれど でもたぶん あなたがあのとき想像していたいまより
現実のいまはもっともっと ちからを持っているよ。



 

2013年9月6日金曜日

かないますように。

 きょうは健康診断が終わったので
ひとりだいすきないつものビアカフェに
飲みに行きました。

 びーるもおつまみも おなかいっぱいになるまで。
いつもならやめとこかな ってとこまで たらふく。

 ひとりでお店にいって
特に誰と話すこともなく
おいしいお酒と おつまみをいただきつつ
ぼんやりして 考えごとして
むかしなら ほんの数年前までなら
落ち着かなかったであろう そういう時間が
とてつもなくシアワセで 
そのことだけでも 生きててよかった とおもう。

 かみさまありがとう ほんとに人生はすばらしいです。
これからどれだけ いま想像もつかないたのしさがあるのか
とおもうと ほんとうにたのしみ。
もちろん それと同じくらい
想像もしていないような悲しみや苦しみも
あるかもしれないけれど。 でも。それでもなお。

 
 この感じをいつかちゃんと向き合えるひとと
わかちあいたい。 それがいまの わたしののぞみ。

 

 

2013年9月2日月曜日

秋になる夜

 夜の風が涼しくなったからだとおもう。

 またすこし こころぼそいような 
そういうこころもちに なっているのは。 
こういう波を どれだけ越えると
このこころもちが もうずっと過去のものになるのだろうか。

 なーんて。 いうのもまたプレイ、というか
わたしはまだまだ いうてもひとりじゃんバカ という
自虐プレイを 完全にはやめられないでいるらしい。

 
 だれかとつくってゆくものの その途方もない険しさと
けれど ひとりではなしえない輝きと その両方に
わたしは焦がれているのだ。 わたしはそのどちらをも
まだ見たことがない。 そうなるまえに すぐに手を離したし
手を離された。 嘘。 手を離されるよう しむけた。

 アタマでは ともにつくってゆくことを望んでいたけれど 
きっとわたしには まだ準備ができていなくて 
それで ニセモノのあまい何か
糖衣錠のような うさんくさいあまさをまきちらして
そして そんなものはすぐに 粉々にくだけてしまって
わたしのこころのそこから出たのではないあまさは
消え去ってしまった。 わたしが彼らに求めたものは
おなじような ニセモノのあまさだったのではないか。
そんなニセモノがお互い続かないとわかっていたから
苦しかったけれど わたしは 手を離されたことに
手を離したことに どこかほっとしていたのではなかったか。
そして そのことに薄々気付いて それに慄然として
それがまた わたしを絶望(と言っていいかもわからないくらい
ささいなものだったのかもしれない)させたのではないか。

 
*******************


 わたしはうつくしくなった。 おそらく
いまじんせいでいちばんうつくしいのではないかとおもう。

 こうして書かなければならないくらいだけれど
つい誰かに たしかめたくなったりしてしまうけれど
わたしは2〜3年前におまつりがいちばん盛り上がっていた頃より
ずっとずっと うつくしいとおもう。 
わかるひとにはわかるだろう とおもう。

 けれどもしかすると それは単に
わたしがいま ニュートラルな 出発点のようなところにきた
というだけなのかもしれない。

 うつくしくなった ということはつまり
後ろ指さされるような不細工ではない と ようやくようやく
思えるようになった ということで そもそも
そんな不細工であること自体あまりないことなのであって
その 妄想 といっていい呪いから わたしがようやく
解けた というただそれだけのことなのだろう。


*********************


 失恋してすぐに わたしはフラを始めて
今月でもう 1年8ヶ月ほどになる。

 当時いろんなものがぼろぼろだったわたしの
フラは希望だった。 わたしはこれをやらないとダメだと
必死だった。 いま フラはとてもたのしいけれど
しかし だれかとつくってゆく 険しさへの覚悟をまだ持ったことのない
つまり ほんとうには 愛 をしらないわたしに
フラを踊る資格があるのかどうか わからない。

 いつかもっと上手になって 技術の壁以上のことが
たちあらわれるときが来たとして そのとき
わたしには ALOHA を表現するだけの それだけのものが
果たして備わっているのだろうか。 その入り口に立てるのだろうか。


*********************


 いまはひたすらただ 踊るしかなく
ただひたすら 目の前に起きることすべてを
貪欲に経験してゆく という ただそれだけなのだ。
愛 はいつかついてくるのだろう。 時がくれば。

 もし くることが必要であるならば。


*********************


 ほんとうに だれかとつくりあげることを
ニセモノではないあまさを わたしはこころの底から
にじみ出させることができるだろうか。

 その愛を持っているかどうか 
その愛を経験するに値するにんげんなのかどうか
というのが わたしの次の課題なのだろう とおもう。





 

 

2013年8月30日金曜日

おめでとうわたし

 お誕生日〜♪ てことで ほんじつ8月30日、
わたくしはめでたく41歳となりました。

 節目ですよ。べつにだからなに ということもなく
特に一緒に祝ってくれるひとがいるわけでもなく
でも ことしの誕生日はちょっとトクベツだとおもう。


 あたらしくなった感 というか
これから開いてゆく感 みたいなのが
いままででいちばん 感じられるから。

 
 もちろん まだまだ どんよりしたり
ダメだなーもー とおもったり
思いどおりじゃないことも たくさんあるけれど。
それでもやっぱり ことしはとてもいい感じだ。


 おめでとう。 あたらしいいちねんをはじめます。




2013年8月20日火曜日

たのしいなつやすみ

 なつやすみも折り返して もう2週目に入ったんである。

 いやぁ すごいね このなつやすみは。
前回のながいおやすみだった春休みも すげー
と思ったものでしたが このなつやすみは
じわじわとすごい。

 もちろんにんげんですから 表があれば裏もあります。
が。 だんだんわたしはあんまりその2つの解離しているその距離が
なくなってきたなー と思っていて。
なんていうんですか。 ほんの1年半前までなんて
もーしんどくてしんどくて Twitterがなかったら死んじゃうし
Facebookくそくらえ あれはおつきあい みたいな
そんな状態だったし その後 Twitterが要らないなー と思うようになって
でも Blogがあると そこにはFacebookではとても言えないような
そういうことも書けるし という そんな感じだったわけです。

 でもねぇ もう Blogでだからこそ ということすら
あんまりなくなってきました。 もちろん Blogだからこそ
長い文章も書けるし わたしがわたしのために置いておく場所 として
有効なんだけれど Facebookではとても言えない という
そんな内容のことは なくなってきたなぁ とおもう。

 わたしはいままで何をそんなに息苦しく思って生きてきたんだろう。

 人生はすばらしいですね。

 かなしいことももちろんあるし 
ゆくかわのながれはたえずしてしかももとのみずにあらず
ということもいっぱい感じるけど
でも それでも わたしはいまのわたしがすきだし
いま わたしを取り巻いている世界のほうを信じる。


 ま たまにFacebookでもうっとおしい長い文章は
書いちゃうわけだけれども でも ここは Blogはこれから
ますます 長い文章担当 という 
そういう場所にほかならなくなっていくのだろう と思います。



2013年8月16日金曜日

先輩の背中

 今朝起きてシャワーをあびてのんびりしていたら
フラ教室で仲良くしていただいているおねえさまから
自主練に誘われたのでした。 おねえさまたちは
明日から開かれるコンペティションに出場するので
そのまえに ちょっと気になるところを2〜3人で確認しあう
ということで自主練を催したとのこと。
なつやすみを 喰っちゃ寝 していたわたしを
しゃっきりさせようとして 家も近所だしどう? と
思いついてくださったのでした。

 行ってみたところ。
コンペ前の緊張感 はもちろんあるんだけれども
ピリピリしている というのではなく 
きょういらしていた3人のクプナさんたちが お互いを信頼しあい
そして それぞれがみずからやってきたことに自信をもち
かたく結ばれている感じ を強く感じました。

 わたしはまだ ちょっとしたイベントに わーわー と
たのしげに出る というだけのことしかしておらず
積み重ねたものは少ないので 正直
大先輩である彼女たちが どんな思いでここまできたのか
ということの 100分の1も想像できていないようにおもうけれど
でも ここまでくるすごさ だけは 圧倒的な勢いで伝わってきました。

 そして わたしを練習に混ぜてくださり
しかも わたしに対しての指導までしてくださるなど
コンペ前なんだからほかのひとはどーでもいい
となりそうなところを ちっともそうならずに
迎えてくださって そのことがほんとうにほんとうに
ありがたく あたたかく このひとたちはホンモノだな
とおもいました。

 こんなふうに歳を重ねることが わたしにはできるのだろうか。

 少なくとも 身近にこのような先輩がいる
というのはとても恵まれていて そのことに
他ならぬ いま 実感として気付くことができたことからも
人生のすばらしさに感じ入らざるをえませんでした。

 その割に 帰ったあとすっかりだらけて
結局 喰っちゃ寝 しちゃったけれども
このように感じた ということは忘れずにいよう。
なんてステキなお盆休み。 日々輝く何か。

 



2013年8月12日月曜日

むかしむかし

「むかしのむかしのそのむかしー まだまだむかしのまだむかしー
ほんとにあったか なかったかー だれもしらない わからないー
そんなむかしの おはなしよー」

 ていうのは 小学4年生のころ入っていた演劇部でやった劇で
いちばん最初にうたう歌。 残念ながら劇の題名を忘れてしまったけど
沼だかみずうみだかに住んでる妖怪にちかい妖精みたいなのが
村にいつも悪さしていたんだけど 最後改心する みたいなそういう話。
わたしはその悪い妖怪だか妖精だかみたいなのの役をやった。
嗚呼当時から自虐的だったわたし。
                     *あとで思い出したけど「水の精ネック」ていう劇だったとおもう。

 というのはともかく。 

 むかしむかし もう10年くらいまえに
うずまきのながれ という題のブログを書いていて
わたしはそこに さまざまなどろどろ や
それまでのじんせいに考えてきたことなどを
まことしやかに書き募っていたのだった。

 当時のわたしは ケッコンしていたけれども
でも じぶんのダメなところ全開(そうと気付かずに)で
よって努力も足らず けれども いちばんやばい解離 という
そういう方法がすこし落ち着いてきた という段階で
(まぁでもまだ解離してたけど) 要するに
ひどい状態だった。

 しかし ひどい当時にひどいとはなかなか気付けないもので
わたしはじぶんが悪いとかあんまり思ってなかったし
なにより あたまでっかちに考えてきた事ごとに
それなりの自信(一般論としても通じる、みたいな)を
持っていたし、さらに、現実生活では 口を開けば嫌がられる
という感じもあったから それを補償するかのように
ここぞとばかりに おのれの考え だとか おのれの思い
だとかを書き付けていたのだ。

 はんぶんは いま の思いだったけど
はんぶんは わたしのおもう人生 みたいな
わたし様語り だったように現在のわたしには回想されるような
そういう内容だったとおもう。 わたしのため に
書いているふうを装って わたしは ブログを読んでいる誰か
に向けて 半分ドヤ顔で書いてたんじゃないか。

 なんてはずかしい。

 それも通るみちだったのだなぁ としか言えないし
そんなブログであっても かけがえのない出会いもあったりして
だからやっぱり それはそれ だったのだけど。

 でも。 もういまとなっては あれはあのときの
30すぎの (いまより)青かった まだまだ主体的に経験をすることが
できなかったわたしのやり方だったんだな としか思えない。

 おなじような題のブログだけど うずまきのながれ と
うずまきのながれ2 は まったく違うこころがまえで書かれている。

 放っておいたらいくらでもなんでも書いちゃうなぁ ということは
変わらないけど、いまのわたしは 
わたし自身のこころにいま感じているなにかを落とし込むために 
という明確な目的をもって書いていて
だから 当時のように 一般論としても通じる 的な
誰かがこれを読んで何かを感じてくれるかもしれない 的な
そういう思いを持って書くことをしていないし、もうそれは
どうしても できないことなのだ。

 そういうあたりも わたしが得て そして うしなった
という その一例となるような事ごとだ。

 もうわたしはあの頃のわたしではないから。

 もう じぶん自身にフォーカスすること から
決して決して 逸れたくないし 
こうあってほしい という誰かの無意識の期待に
わたしは流されないで生きよう。


 あたらしいわたしは ようやくかたちを成してきたところ だけれど
それはつまり かたちを成しはじめることができるだけの
土台みたいなものができた ということでもある。
そこから見える風景を わたしは愛している。



 


2013年8月11日日曜日

なつやすみとたんじょうび

 なつやすみがはじまった。

 なつやすみ というのは子どものころから
じぶんの誕生日が近くなるとき というので
すこしトクベツな感じがする。

 なつやすみ1日目は トモダチ2人を家に呼んで
みんなで浴衣を着て飲んだくれる というすばらしい企画により
幕を開けた。

 これまで 何かを得たら 何かをうしなう という考え方や
変化すること 変わること というものにも なにかしら
抵抗を感じていて 変わってしまう のではなくて
これまで持っているものに何かが加わって(あるいは反応して)
変容するのだ みたいなことを言ったりなんだりしていた。

 でも。 ここ最近もんのすごくわかってきたのは
何かを得たら 何かをうしなう というのはほんとうのことだ
ということと ひとはやはり 変わるのだ ということだ。
まぁ 変わらないし 変わるし なんだけどもともかく。

 わたしが思っていた 変容する ということには
あまい幻想みたいなものがたぶんにふくまれていた。
そしてその なんかこう 実は地に足がついていない
すっからかんな「あまい幻想」は わたしを世の中から
どこか遠ざけたり 妙なところにはまりこませたりした。
でも そのおかげで なんとか生きていたりもした。

 いまやわたしは ようやくその あまい幻想 から
外に出はじめたところなのだな とおもう。(40と1歳を前にしてようやく)

 わたしはなんどもここで言っているところの「おまつり」を
終えたあとも あまい幻想 を引き連れて歩き
いつもどこかで何かを期待したり 認められようとしたりを
繰り返してきていたのだとおもう。 その集大成としての正月と
あと その後の煮え切らなさ があったようだ。

 人生はあたらしい局面を迎えていて
わたしはなんだかほんとうに 変わって しまった。
わたしだけでなく わたしをとりまく周囲も。
あ、それはわたしが変わったからだけど。
(かつて言っていたところの)変容 などという
なまぬるいなにか ではなくて もうほんとうに。
すっかり 変わってしまった とおもう。

 わたしは得たし わたしはうしなった。

 その強烈な事実を これからまたたくさん
実感してゆくのだろうとおもう。 

 なにごとも そのとき にならないとわからないし 
それとして経験できないものだ。

 さぁ。わたしはこの あたらしいところで
これからどのようにやっていくのだろう。
すべてはあたらしく しかし すべてはわたしのこれまでがなければ
つくられていないもの。 

 あと19日でわたしは41歳になるけれど
ことしの誕生日のタイミングは ほんとうにほんとうに
誕生日 という感じがする。

 わたしはきっと ひとりでケーキを買ってお祝いするだろう。
おめでとうわたし と こころからにっこりわらって
ケーキを食べるのだろう とおもう。

 

 

2013年8月6日火曜日

らららん

 きょうは高校時代からのトモダチとひさしぶりに2人で会って
ワイン飲みながらランチとかして おいしいケーキも食べて
だいすきなお店で衝動買いもして いろんな話して
たのしい時間を過ごしたのだった。

 もう四半世紀のつきあいで 15歳だった高校1年生の頃から
彼女とわたしはずーっと仲良くしている。それってかなり
すごいことだよね。

 そして さらにすごいのは お互いにいろんなことを経験して
いろんなとこが変容した にもかかわらず やっぱりつきあいが
続いている という そのことだとおもう。

 加えて わたしたちは いま をちゃんと生きている。
という まぁ あたりまえなんだけど そのことを強く感じて
それはほんとうにすばらしいことだなぁ と感じ入ったのだった。


 人生にはいろんなことがあったけど そしてこれからもあるけど
わたしはもっと わたしの感じたことや わたしに起こることごと
そのことにフォーカスして生きてゆこう とおもった。

 なんども言うけど 人生はプレイだ。

 だとしたら わたしは 他の人が思うわたし や
他の人がこうあってほしい とおもうわたし にフォーカスせず
わたしが感じていることにフォーカスするわたしプレイ で
これからは生きていきたい。

 離れゆくひと 続くひと 新たに知り合うひと
いちど離れてもまたつながってゆくひと。

 わたしは おそらく運命なのであろうそのつながりの妙を
わたしのものとしてきちんと経験していこう とおもう。

 

 

2013年8月1日木曜日

愛とひかりと

 やっほー 8月。 こんにちは 8月。

 暑くたってなんだって やっぱりじぶんの誕生月のことは
すきなのである。 8 って数字も 30 ていう数も。
もちろん 3 も 0 も。ね。

 で。ここしばらく 恋がしたいだのなんだの
そういうことばかり言ってるわねアナタ ていう
そんな調子だったわけだけれど。

 やはりフラがすばらしい ということに
またまた思い至り。 踊り自体も だし
フラ というその世界観すべてが ということでもあるし
何より 仲間に恵まれた という そのことが
いちばんおおきい とおもう。

 ジョシしかいないこのハラウで
わたしはイヤな思いをしたことがない ばかりか
年齢関係なく 尊敬できる 謙虚な人柄のひとたちと
たくさん知り合うことができて そのことにいま
とても感激しているのだった。

 と 同時に じぶんの ひとりっ子丸出し みたいな
わがままで自己中心的な要素 にもびしびし気付かされて
その気付きは痛いけれど でも 悪くない というか
あぁこういうかたちで気付くじぶんのことって
受け入れやすいんだな という感じでいるのである。

 落ち込みます。 それはそれは。 でも
あぁ わたしにはこんなところがあるな みたいなのが
ちゃんと目の前にきてくれたんだな というような
そんな感じ。 落ち込むのもまたよし というか。

 わたしが 世の中の愛とひかり みたいなものに
気付きはじめたのは 3年前のおまつりのとき だったけど
そのおまつりが終わってからの いま だからこその
愛とひかりをそのまま受け取ろうとする姿勢。
その姿勢が 徐々にわたしのものになろう と
ほんとうに身に付こうとしているのだな というのを感じる。

 ハラウの先輩やトモダチが身につけている
芯のところの輝き みたいなもの に
わたしはフォーカスしていこう としている。 というか
考えなくても そこにフォーカスされていくじぶん を
強く感じるようになった。

 うわべのものではない 底からひかるうつくしさ。
しなやかな強さ と やさしさ。

 わたしもフラを通して もっともっと 身につけてゆきたい。

 



2013年7月30日火曜日

そろそろほんとに

 さて。もうすこしすると世の中は8月になりますね。本格的に夏です。
まぁ 夏なんですけれども。すでに。

 きょうは午前中ボランティア出勤して会議、
で 帰ってきてついつい昼酒を飲んでいるわけです。
だって暑いし。がんばったし。


 先日はぐずぐずと発作を起こしたりしたものでしたが
すでに復活。 もちろん思うところはいろいろありますけれども
でも いまある人生こそがわたくしの いま であり
通るべきみちであり そのあたりはもう なるようにしか
ならないのであるし いま のこの瞬間をどう過ごすか だけが
今後につながっているので もうほんと いまをいかに生きるか
ということになるのですね。 えぇ。酔ってますとも。


 とはいえ、酔っているかどうか ということで見解が変わる
ということはあまりないわたくしです。 これはきっと
酔いがさめたところで おまえなにかいてくれとんねんぼけかす
てことにはならない とおもうのですよ。


 なーんて。 とどのつまり 酔っていようといまいと
まだ いまこの瞬間が とかいうことを 
ここにわざわざ書かなきゃならないくらいに
わたしはすこし 頼りないんだ ということだとおもいます。

 何度も言うようですけど ほんとにそろそろ
恋愛したいんですけどね。