2013年11月11日月曜日

意外とふつう

 まえにも似たようなことは書いているのだけど。

 わたしには ちょっとくらいはかわったところはある
かもしれないけれど 実はそうでもなくて
意外と果てしなくふつう というか ふつう(とわたしがおもうような)
そういうひとたちが いい と思うものも
先入観をはずしてよくよく見てみたら いい とおもうものが多い
など けっこうなかんじで ふつう なのだった。
みんなもう知ってたと思うけど。

 でも どうしてことさらじぶんを かわっている
と思わなきゃいけなかったかといえば 
これまた教科書に書いてあるようなりゆうだけど
どう考えても じぶんに自信がなかったから なのだとおもう。

 わたしがわたしであって それ以上でもそれ以下でもなくても
それでもじゅうぶんにトクベツというか わたしはわたしだ
みたいなことが ほんとうにはわかっていなかったのだろう
とおもう。

 ちょっとかわった ちょっとおかしな趣味を持っていて
ひととはちがうようなものを いい というわたし
でないと 他の人との差別化がはかれない と
本気で思っていたのだろうとおもう。 
わたしがわたしたるゆえんは そんな表のところにはない
にもかかわらず。

 わたしがほかならぬわたしである と言いたいばかりに
わたしはじぶんを かわっている と思いたかったんだろう。
なんてバカなの。

 よくよく考えてみれば わたしの その ちょっとは変わっているところ
を 拡大解釈して 変わっている ということで興味を持った人とは
恋愛だけでなく 友情だって続いてないのだった。
さっき気がついたんだけど。
ここ数年のお祭りの際に
うわーっと近づいてきて うわーっと離れていったひとたちは
わたしのたたずまいがすきだったんじゃない。 
わたしがちょっとかわってるように見せてた部分がすきだっただけだ。
そら 飽きるわな。 前に付き合ってた彼だけでなく
ほかのひとたちだって それは同じだったんだとおもう。


 わたしと長く付き合ってくれているひとたちや
最近仲良くなった フラ教室のトモダチなどは
わたしの変わっているところ がすきなわけではないのだろう。
むしろ そういうところは どうでもよくて
わたしのもつ その奥のたたずまいみたいなもの を
それなりに見て付き合おうとしたりなんだり
してくれているのだろう。
そういや むかしむかし 「べつにうず子(仮名)がおもしろいこと
知ってるとかおもしろいこと教えてくれるから付き合ってるとか
そんなんじゃないから」 とトモダチに言われて
当時はひどくうちひしがれたものだったけれど
それは わたしのたたずまいを認めてつきあってるんだよ
という すごくありがたいことばだったのだな と
いまはわかる し そのトモダチとはいまも仲良しだ。

 ちょっとかわったわたしプレイ と
ちょっとばかりアタマがいいわたしプレイ は
ほぼ同じ意味で わたしはとにかく
わたしであることに自信が持てずにそういうところを
強調していたのだろう。 うううぅ。 バカ。バカすぎるよおれ。

 ともかく。

 いまわたしは 肩のちからを抜いて
別にそれが ふつう かどうかは別として
わたしがいいとおもうものがいい というのでいいし
ちょっとまえまで ふつう・・・ とおもって敬遠していたものにも
そこまで違和感や嫌悪感もなく接することができるのであって
なんていうのか そういったものごとの中には
やっぱり興味が湧かないものもあるし 逆に
興味をそそられるものだってあるのだった。あたりまえのように。

 という すごく当然のことに気がついて
なんだかこれからはもっとらくちんに暮らせる気がしてきた。


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