2013年10月27日日曜日

からだ

 さて。 きのうはとある学会のシンポジウムにいって
鷲田清一せんせのお話などを聞いてきたわけですが
身体とイメージ という非常にわくわくするテーマだったのに
かんじんのわたしの身体がなぜか疲れきっていて
ところどころ 睡眠学習 な感じになりつつ聞いたのであった。

 あたまでっかちで生きてきたわたしは
身体 をないがしろにすることが多かったし
どちらかといえば 身体 を アタマとか思考とか感情とか
そういう 内的な動きをつかさどるもの こころ に対して
低く見るようなところがあったような気がする。

 川戸せんせがおっしゃったように 身体をこころの従属物であるかのように
こころ が整っていて その方向性が決まっていれば
身体はついてくる みたいなね。 身体 がおかしくなるのは
すべて こころ がもたらすものである みたいなね。

 なわけないだろう。

 もちろんそういう部分(こころが整わずそれが身体に など)は
あるし、まったくそういったことが関わらないで生じることだって
あるけれど 身体 は 身体それ独自にきちんと 在る のであって
こころのほうに影響を及ぼすことだってあるし 身体もこころも
もうどっちがどっちなのか 卵が先かにわとりが先かとか知らんがな
くらいに渾然一体となっているものなのであるわけでして。

 最近でこそ 身体 をわたしはそこそこ
注意してみるようになった と思う。 
それ以前からずっと 身体はいつでも
わたしの思い通りには動かないものだったけれど
フラをするようになって特に 身体がおもいがけない反応を見せてくれる
というようなことがあって それはほんとうにすばらしい経験なのだった。

 走る ということだけをしていたときは
身体を動かす ということそのものの効果のようなことを
感じていたけれど 踊る ということは わたしにそれ以上のことを
感じさせてくれているのだろう。

 でもまだまだ。 開いているか 閉じているか という
昨日はその話もあったけれど わたしの身体は 
閉じている ような気がする。 まだまだ 開けていなくて。
そして 同じように こころも 開けていない というか
まだ開いてゆけるというところにある とおもう。

 わたしがこころを開きたくてもあと一歩開けずにいたのは
身体が開いていないからなのでは などもおもう。

 なんて またアタマとかこころとかの方向から
アプローチしておりますが そんなことより
身体 から感じてみようよ。 身体 から発せられるものに
もっと寄り添ってみましょうよ とおもったのだった。


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