2013年6月4日火曜日

またその次の

 本日はだいぶ激務だったので 何もする気がしなくて
結局びーるを飲んでしまっているうえに 晩ゴハンを なげわ で
すませようという なんかもう 食生活が乱れに乱れた独居大学生 みたいな
そんな夜なんである。

 きのうに引き続き ちょっとだけあのひとに残っていたジョシなきもち
について考えたのだ。 まぁ 考えた とはいっても
とある感覚が 降って きたので それをもとに ほんとか?
みたいな検証をした というような そんな感じだけれど。

 別れた彼にしても その後ぐずぐずした若い男子にしても
わたしのアタマの中に どうしようもなくあった
「そんな歳の離れたひととうまくいくわけない」という
世間並みの思い込みとか その世間並み何かがじっと居座るくらいには
世の中と迎合して生きていたじぶん を感じざるをえないのだった。

 いや どう客観的に分析しても 7つ下 はともかく
15歳下 と 一生うまくやっていける とか そういうことは
ない のだろう と思ったりはするのです。 
が。 なんかそういう 当たり前の 世間一般に
だれでもが常識として思う くらいの勢いで存在する
「たとえつきあったとしても そう近くない未来に
若いほうに好きな相手ができて そのときいかにうつくしく若い子を
手放してあげられるかがオトナかどうかだ」的な そういうもの 
を前提にいろいろ考えていたなぁ とおもう。

 わたしは(そしてたぶん相手の男子も) この 常識的な前提 が
塗り替えられる可能性 のようなものがあるとしても
その可能性に賭けることは 宝くじに当たるより難しいことで
相当な努力と情熱を必要とするものである ということを
アタマがいい感じで受け入れた ということなんだとおもう。
いや それがほんとうだ としても。 少なくともわたしは
受け入れたフリをしていた のだとおもう。

 じぶんが何を望み どういう可能性を感じ 何をシアワセと思うのか
ということを わたしはすっかり 棚にあげていたなぁ というようにも
思うのだった。

 もうその彼との関係がどうこうなる というふうには思っていないけれど
これから先 わたしが大切にしたいのは わたしのこころの奥が
何と言っているか に尽きる。 そのことを教えてくれただけでも
この失恋には大きな価値があったとおもうし 
なんかもう 手放した と思っていても
どんどん次があるくらい わたしは深く この事態にコミットしていたのだな
とおもう。

 もちろんそれは わたしだけ の物語だけれど。

 もうあと2週間もしないうちに 彼の誕生日があって 彼は
わたしがケッコンしたときと同じ歳になる。 すごいなぁ。
もうそんなに年月が経ったのか。 

 くっだらねー と思いつつ こういうなんか 恥ずかしくて
地を這うようなことをやってくのも 人生だな と
こころのそこから感じられる。 ここを認めないと
わたしは次に開かれるわけもなかった とおもうのだった。

 まだまだいろんなことがあるんだろうな。
ミラクルですね 人生はやはり。

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