2016年6月2日木曜日

最近のあれこれ

何度目かの 村上春樹まつり が終わって
これまた何度目かの ばななまつり がはじまったところだ。
(それと並行してなぜか 日出処の天子 を読んだけど)

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春樹まつりにしろばななまつりにしろ
(さらに日出処の天子にしろ)子どもを宿したりする
などのテーマがそれなりに出てきて,
ほんとうにじぶんでは子を産まないことになった人生を
またすこし ちょっと残念だったな としみじみ考えたりしたのだ。

子を持ったところで 何かがミラクルに変わる
ということは決してないのだろうし,
けれどわたしは 子を持つひとにしかわからないこと を
経験しそこねたし(もちろん 子を持つひとは逆に
子を持たないからこその人生を経験しそこねるわけだが)
それよりなにより いのちのバトン のようなものを
途絶えさせてしまったのだなぁ とおもうのだった。

しかも オットのほうのバトンをも。
オットのご両親は わたしが彼と結婚することを
ほんとうに何の反対もせずに受け入れてくださったけれど
でも まさかほんとうにほんとうにバトンをつなぐ可能性すらなくなっている
なんてことは 思っていらっしゃらなかったかもしれない。

オットは仕事がたいへんすぎてつかれてしまっていて
実は入籍するまえからそもそも 子どもができる可能性のある行為 は
ほぼほぼおこなわれなくなってしまっていて,
ちょっとさみしいけれど,まぁそれはそれで致し方ないことだ,
お互いちゃんと思い合っているのだし とか思っていたけれど
ほんとうにそうなのだろうか。

欲 的なものはどうとでもなるし 本質はふたりの精神的な関係である
ことに きっと変わりはないのだけれど,
その 欲 的なものがオットから湧いてこないのは
疲れだけでなく わたしにもう 可能性がない からなのでは
という説が ふ とよぎって おそろしくなることもある。

とはいえ お互いがお互いをえらんだのであるし,
バトンが途切れたのは わたしだけの運命 とかそういうことでなく
彼の いえ も わたしの いえ にとっても運命で
それぞれがそれなりに考えたり感じたり受け入れたりなんだり
していくことなのだろう。

わたしのせい と思うのはそれこそ傲慢だわよね。
と はなしことばになってみる。

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それからそれから。

本もそうだし,その他の場面でも 思考が具現化する 的な
そういうテーマの何かを見ることが多かった。

ここしばらくの 絶賛嫌われ期 だとか
かつてもうまったくさっぱりモテることのなかったあの時代 とか
それもぜんぶ そういうことなのかなぁ
みたいにおもったりもした。じっさいのところ。

で もう細かいところは省くけど たぶんいま
わたしの顔がおかしくなってないから大丈夫だろう
ってこと。

むかしのわたしはやっぱり不細工だった。つくりは同じだけど
写真にうつったあの顔あの表情は すべて
なんというのか 卑屈さが根底にあって そのうえに重ねられたもの
でしかないような。そういう気がする。

それにひきかえ いまのわたしの顔は
たとえばフラ教室で なんて思いやりのないひと かなんか言われて
嫌われているけれど,でも
顔つきがちゃんとしている。とおもう。うつくしく
なっているとおもう。

なのでね。大丈夫だとおもう。イヤな顔になっていない。

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あと。思いやりがない の件。
というか 親切 というのと こころ というのは別だ
親切 というのはこころがなくてもできるんだよ みたいなことや
それに類似するはなしを春樹くんもばななちゃんもしていて
なるほどな とおもった。

わたしがうまくいかなくなったひとたちはたいてい
わたしの職業的な知識や 表面の親切にひかれてやってきていた
ようにおもう。 わたしは職業的な知識を親切に基づいて出していた
というか それを道具にひととつきあおうとしていたのかもしれない
とおもう。

ほんとうのやさしさがない 思いやりがない
ということもあるかもだけれど
職業的知識を取り払って
ひらいてつきあうことができなかったひとたちが
はなれていったのかもしれない などとも思った。

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ともかく 次のステージにいっていいんだろうな
と いままでと違う感じで響いてきたので
わたしはわたしの顔を信じて いまからを生きようとおもう。



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