2012年11月20日火曜日

からだとともに

 比較的がんばって走るようになって5ヶ月くらいが経って
そうすると たしかに身体はきちんと反応して 変わってくれている。
したはらにくのぷにり具合はなかなかとれないけど まぁ
そこは ジョシだし 歳だし てことで大目に見ることにして
それ以外の。 走っているときの感じとか 身体で感じる調子とか
そういうことが。

 あっというまにいちねんが経って
とても苦しかった最初の数ヶ月のことは
思い出すことはできるけれど もう 遠い痛みで
わたしはあの日々を きのうのことのよう には
感じることができなくなった。

 そのあとの じぶんでもびっくりするしかなかった
失恋のついでにさらに重ねた別の失恋(といっていいだろう)
のほうが わたしにとって 大きい意味を持ったかもしれない。

 おもてだった苦しみや かなしみ のようなものは
もちろん 去年の失恋のほうがずっと大きかったけれど
わたしがじぶんの未熟さや それだからこそ
かもしれないエネルギーや きもちの動き方というものを
まざまざと見せつけられることになったのは 
あとのことによるものだった。




 思っていたよりもずっと 好意に甘えていたし
あぐらをかいていたし 支えにしていたのだな
ということには あとになってから気づいた。

 そんなものだ。

 そういう じわじわとした衝撃への作業を
わたしは身体を動かすこととともに やってきたのだとおもう。

 あぁもう次こそは こころに出てくるすべてのことに
きちんと向き合うような そういうふうなわたしのままで
だれかとともにいることをやっていきたい。 
身体をうごかしながら暮らすことは そのためにもおそらく
必要なことなのだろう。

 もし だれかといることが わたしの課題として
ふさわしいことであるならば。

 ひとりでいるのが課題だとしても 
やっぱり 必要なことなのだろうけれど。

 ねぇ。 時は流れてゆくし ほんとうに
時がくると ものごとは ただ 終わってしまうんだね。

 なんていう ぐずぐずしたわたしも まだいるのがわかる。
でも 相手への執着 ではなくて これはもう
思っているじぶんへの執着 のようだ。 あとすこし。


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