2012年11月6日火曜日

いちねんのつきひ

 断ち切ったり 手放したり ということは わかっていてもなかなかできない
そういうことだとおもう。 しかし できないんだから仕方ないよね
というところに安住しないで いい具合にその課題をやり尽くす というのは
その境目がはっきりしないだけに なかなかに難しいことだ。

 手放せないじぶん に悩んだり 手放せなくてもいいじゃん と思ったときに
そこに開き直りはないか と自問自答したりする作業をしたり まぁ
とにもかくにも そのあたりもぐちぐちとやって 最終的には
手放せないということを どれだけじぶんのなかで深く感じ入るか という
そういうことが必要なんじゃないか とおもうのだった。

 愛だとかひかりだとかは 去年 まだあらゆる意味でシアワセだった頃から
少しずつ感じ取っていたことではあったけれど おそらくそれは
そのあとに続く このたびの作業のための準備だったんではないか と
思いそうになるほどに もうなんか いまにならざるを得なかったのだ。



 去年のいまごろ ケッコンしようかとも思っていたひとに
別れたい と言われたのだ。 それから1年が経った。

 春ごろに 最初の抜けがきて でもまだ必死だったので
その必死さを指摘されると腹が立って仕方なかった。
しかもそれを 梅雨ごろに にくからずおもっていたひとに言われてしまって
わたしはいたく傷ついた。 が わたしが春までにその 抜け に
達するために そのひとを利用したのではないか と思うことがあったし
自業自得だな とも思っていたのだ。

 その後 ハワイにいって わたしは春に感じた 抜け の
本格的なものがきたことを感じることになる。
それで終わりかな と思っていたけれど 
なんと そのあとで 春の抜けまでのできごとが
そうやすやすとは 手放せないくらい わたしにとって
大きなできごとだったのだ ということに気づいてしまい
動揺したのだけれど でも こればかりはもう 利用することも
協力してもらうこともまかりならない とわかっていたので
じたばたして そしてこのたびの 手放す感覚 というところに
きたのだ。

 恋人と別れる とか たいせつに思っていたひとにわかってもらえない
とか そういうことは じっさいのところ 起こらない方がいいできごと
であるとおもう。 それがあったから成長できました とかそんなもんでは
決してないのだとおもう。 でも 起きてしまったことは
それがなければ いまのわたし にはならなかった という
そういうものであるのは たしかだとおもう。

 ああほんとうに長かった。 別れた当初は 1年後には
あたらしい彼氏とかいて いろいろ順風満帆になっててやる とか
思っていたけれど そんなカンタンなものではなかった。
まぁ 複雑にしたの じぶんなんだけどね。気づいてなくて。

 彼との別れと そのあとの若者くんとのいろいろとか
そういうのぜんぶ 通らないとここにこられなかったなんて
なんたることだろう とおもうけれど
わたしが経験しなきゃならないことは ぜんぶいつか
きっちり経験することになるので これが道なのだ。

 とか また繰り返しおなじようなことを言っている。

 

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