2012年11月23日金曜日

そーいうところ

 きのうはぐすぐすさみしがるプレイにひたって
6kgがひざに乗ってくることすら感激したりとかしているうちに
トモダチから電話がかかってきて いろいろと話した。

 このトモダチはいつもほんとうのことしか言わないのだけれど
そのときに わたしの「目の前の課題に対して」容赦ない。 
つまりそれは わたしのすすむ速度とか いまいる場所を
なぜか感じとってくれている ということであるとおもう。  

 もし ほんとうのことを言われたとしても
それが 目の前の課題 でなければ わたしはただただ 
傷つくだけで終わるだろうし もっといえば
もしかすると それが課題であることにすら 気づかないかもしれない。

 わたしのいまの課題は いちばん荒々しく言えば
甘えんじゃねぇよ というところであるが
別の言い方をすれば もっとじぶんのちからを信じてやれ
ということである と思っている。

 きのうの どうしてひとりなんだろうぐすぐす という
その原因について きょうのわたしから言わせてもらえば
それは そういうこと言っちゃうおまえのそういうところだよ
ということにほかならない。

 まぁ半分プレイとしての さみしがり であったとはいえ
わたしはもう ひとりでもうすこし いろんなことができるわたし
なのだろうとおもう。

 ひとりで お店で飲むことが できたみたいに。


***************
 
 わたしがここで書き募っていることや
Twitterをしていたころに書き募っていたいろいろのような
そういうこころの作業は それが作業のすべてではないとしても
世の中のひとたちは そういった作業を どこにももらさずに 
ひとりでなんとかしているのかもしれない ということに 
本格的に思い至ったのは 残念ながらつい最近だ。

 なぜ その当たり前のことができずに生きてきたのか
なぜ そのようなわたしが いま 先のトモダチのような
愛をもって接してくれるひとのいる世界に存在できているのか
不思議におもうこともある。

 わたしはその当たり前のこと と もしかすると
その先の そうできたあとにしかあり得ない 
誰かときちんと向き合って生きること が恐ろしくて
いろいろなものを勝手にかかえこんでいたのではないか とおもう。
むかし見た ほかのひとの人生の物語をわたしが次々と作成している
という夢がそのことをよくあらわしている。 

 いろんなひとの物語は そのひと自身にしか作ることはできず
その物語同士が出会うところに尊さがあるし そこにまた
すばらしい物語の展開があるのだと わたしは誰よりも知っていなければならない
そういう仕事にも就いているし 実際 そのことを仕事でたくさん
経験してきた。





 わたしが手放さなければならないものは
わたし以外のものすべて なのだろうとおもう。



 
 

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