2012年11月18日日曜日

どーにも

 休みの日の朝 が苦手になっている。
ここ数ヶ月の話ではあるのだけれど どーにも休みの日の朝
すっきりと起きることができなくなってしまっている。

 数年前までたしかに いつも休みは昼過ぎまでぐずぐず寝て
という生活をしていたわけだが そのときの感じ というか
そのときのような 起きてもいいけど寝る じゃなくて
起きるのがつらい という そういうような雰囲気になっている。

 疲れがたまっているのかなぁ とも思うけれど
なんだかちょっと この状態がさみしい。

 きょうもむりやり10時に起きたけれど いままた
カラダが横にならせろ と要求してきているのだ。
12時にして。


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 夏やすみにハワイにいって 
わたしはじぶんの一部をそこに開け放ってきた という
そういう感覚があって 世界はこれから
もっと開かれたものに感じられるだろう と思った。

 開かれた世界 というのはつまり 開かれたじぶん
ということなのだけれど これまで 世界に 流れに
わたしの深いところに わたし自身を開いて過ごしてきたか
と言われると そうではなく その 長い年月のやり方は
そうカンタンには 離れてくれないのだなぁ とも感じている。

 春のあの 新しくはじまってゆく感覚と
夏の わたしを投げ出す 開け放す 解き放つ感じという
それらは わたしのこれからのやり方として
身についてゆくものかもしれない。 夏以降のわたしの日々は
そのやり方をわたしが身につけてゆくための
修行のような そういう日々であるのだろう と思ったりもする。

 わたしは世界に 流れに わたし自身に 
わたしを開け放すということを やっている と
思い込もうとしてきたけれど でもやっぱり などと
じぶんを引き止める 不安におもうところも
どうしてもあるのだった。

 アタマでは わたしがこれから先 ひとりで生きるのであろうと
だれかと出会ってともに生きるのであろうと
それはすべて 起こるべくして起こることで 
わたしがわたしになってゆくために必要な過程であるのだ
とわかっている。 わかっているけれども
ひとりかもしれない と思うと まだまだおそろしい
と思ってしまうのだ。 

 ほんとうは おそろしくともなんともない
わたしのための過程でしか ないのにね。
解き放てば そのぶん かえってくる そういう世界であるのにね。


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 ということで、わたしはその あたらしい作業を
している途中で 休みの日にねむいのは 
この作業をやっている という そのしるしなのかな
なんて じぶんを甘やかしてみたり しているのである。

 もっともっと 開け放して 解き放ってゆけますように。






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