トモダチとか知り合いとか仕事で関わるひととか
その他いろいろなひとがいて 世の中があって
そこの中で 生きているわけである。
(ここですぐに 親 とか 親戚 とかが出てこなかったのがひととしていかがか。)
その世の中で ただ ほんとうに そのひとが生きている
というだけでいい と思えるような そういうひとたちがいて
それだけでも ありがたく 生きていくに値するのだとおもう。
おもうのだが。
ここしばらく 次の場所にきた というその感じや
世界が愛とひかりである という感じが 強まるにつれて
それとは逆の 猛烈にさみしい というきもちに襲われることも
かなり 増えてしまった。
たぶんそれは とても俗っぽい感じに。
と同時に 根源的に ひとが持っている 何をどうしたって
一生どうにもならない感じの そういうさみしさ が
ぐわ とその姿をあらわした感じに。
わたしは後者のその 一生じぶんとともにあるであろう
しかしいろいろなものの原動力でもあるはずの そういうさみしさを
いま やっと本気で抱えていこうとしているときなのかもしれない。
その作業と同時に ものすごく俗っぽいさみしさも
わたしのこころをみしみし喰い尽くそうとしていて、
そのことを認めることもまた 求められているのだろう。
かつて わたしは俗っぽいさみしさを認められずに
とてもおかしなかたちでそれを行動化していたことは前にも書いたけれど
もう そうする必要はないとおもう。
いま感じている このさみしさもまた やり抜くことが
わたしの課題なのだろう。 さみしさにどれだけのたうちまわっても
愛とひかりのほうを見ていくことが。
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