2012年11月1日木曜日

いまここで

 トモダチとメールでやりとりしたり 話をしている中で
ふ と気づくことがある。 そういう瞬間が ここ最近ふえているような
そういう気がしている。

 なんというか やりとりのそのさなかに その内容に
埋没してしまうのではなく そのことを発している相手とじぶんから
すこし距離をおいて ながめる というような感覚が突然やってきて
そのときに あ というような感じになる。

 そういう感じになっているのは 比較的 じぶんの今まさに の
課題について 話題がふれているとき のようにおもう。

 これまでそういったことは やりとりの熱いそのとき ではなく
のちにまた反芻したり などしているときに考え直していたようにおもうが
それが いまここで 起こる というような感じだ。

 そして そういうことになるやりとりをしているトモダチとは
課題が似ていたり もしくは 違うようでも通じ合うところを感じている
ようにおもう。さらに そのトモダチのことを大いに信頼している ということも
大きな要因になっていると感じる。

 必要なやりとりを 必要なときに おこなうことができているのだろう。



 ところで。

 わたしは春ごろから 世の中は愛でひかりだ ということにちょっと気づいたので
そのことを言い募ってきた。 春ごろは もちろんまだ必死だったし
傍目にも痛々しい状態だったはずで なので その後もずっと
そう言い募るわたしを かわいそうなものを見る目で見るひとたち
というのが少なからず存在したし、たいせつに思っていた 思いが伝わっている
と思い込んでいたかった相手にすら かわいそうなひと のように言われて
落ち込んだりも した。

 それからハワイに行って わたしの 愛でひかりだ という思いは
さらにわたしの奥深くに根付いたので あまり言わなくてもいいようになった。

 そうしてのち の いま。 やはり世の中は あいかわらず 愛でひかりで、
必要なときに 必要なことが あるべきことが あるべきように 起きている。

 こんなこと ほんとうは言わなくてもいいのかもしれない。
けれど きょうは なんだかうれしかったので やっぱり書くのだった。

 あのとき わかってもらえなかったのも かわいそうなひと のように
言われたことも それもすべて わたしが経験すべき何かで
これを越えてこそ さらなるわたしがあるのだ。

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